1 想定外
公園のサーキット横に設置された常夜防犯灯の支柱をつかんだまま、わたしは呆然としていた。
春の朝のそよ風はぱりっとしていて、アンティーク風の濃い緑色に塗装された支柱は、金属質の冷たさを手のひらに伝えてきている。
満開になりかかったさくらの、けぶるような心浮き立つ淡い香りに満ちた空気とは裏腹に、わたしの心中はパニックと絶望でいっぱいだった。まあ、そこまで言ってしまうと大げさかもしれないけれど、春の空気というのは、人を少々詩人にするものだ。
いやもう、嘘でしょ。立てないとか。
こんな簡単な遊具なのに。
そう思うけれど、妹の足元にあったときには、あんなに生き生きと動いて、滑るように妹を運んでいたそれは、今や、命を失ったように、ただの板切れにキャスターがついただけの代物と化していた。
スケートボードなんて、車輪が前後にあるんだから、一輪車よりもずっと簡単だろうと侮りすぎていたのかもしれない。
それは、カヌーのパドルのような二枚の板をごく短い軸で繋いだような形状で、前後の板にそれぞれ、足を載せて乗るスケートボードだった。二枚の板を繋いでいる太くて短い支柱は、真ん中に接合部があって、ひねる動きができるようになっている。また、前後の板の裏側に一つずつついているキャスターは、ちょうど家具の下に取り付ける、方向転換ができるキャスターのように、自由にくるくると回転する構造になっていた。
前後をすこし持ち上げるようにカーブをつけた一枚板に車輪を前後二つずつつけた昔ながらの形の、近年オリンピック競技にも採用されたスケートボードと違って、このボードは、乗ったまま加速したり、体重移動で進行方向を変えたりできる。車輪の音も控えめで、住宅街の中にある公園でも、さほど気兼ねなく乗れるところも好もしかった。二枚の板を繋いだ形も、見ようによっては、さくらの花びらを二枚つなげたようで、粋なデザインだと思う。
一般的には、キャスターボード、というらしい。妹は、もっと可愛らしい商品名で呼んでいた。
クリスマスのすぐ後に誕生日を迎える妹は、今、同級生たちの間で大流行だというその遊具を、「お誕生日プレゼントは無しでいいから」とねだって、サンタさんに届けてもらったのだ。
早く乗れるようになりたいから、と、冬休みの間中、妹は学区外のこの公園に通い詰めた。交通安全公園、と呼ばれているここは、ミニサイズの横断歩道や信号機が設置されたアスファルト舗装のサーキットがあり、自転車や一輪車、スケートボードやキックボードといった、他の公園では禁止されがちな乗り物系遊具の持ち込みが許可された、近隣では数少ない公園だった。
小学生の妹にとって、学区外の公園は、保護者同伴でなければ行くことのできない、冒険の地である。パートで忙しい母の代わりに「お姉ちゃん、連れて行って」とねだられれば、部活もなく家でごろごろしているだけの高校生の身分としては、重い腰を上げざるを得ない。
妹のおねだりには、家族全員がついつい甘くなってしまうところがあった。
そうして、妹が練習しているのを、スマホで音楽を聞きながらぼんやりと眺めているうちに、わたしも、なんとなく、その遊具に興味を持ったのだった。
妹は、練習を始めて二、三日後には、どうにかこうにか、雨水を側溝に流すためにごくゆるやかな傾斜がついているサーキットの横広場の舗装面で、補助なしでボードの上に乗ったまま、傾斜を下れるようになっていた。そうなれば後は順調なもので、四、五日で、ボードに乗せた足の、後ろ側の方のひざから下をかるくゆするようにして、ボードを漕ぎながら、地面に一度も足をつかずにサーキットを一周できるようになっていた。
周りを見渡せば、沢山の小学生が思い思いの速さで、妹と同じボードに乗っている。妹がこだわって選んだミントグリーンのモデルは女の子に人気だった。他にも、淡い紫やピンクといった甘いカラーのモデルは女の子たちが好んで使っていたし、辛口の黒や赤、ネイビーのモデルを持っている男の子たちも沢山いた。
みんな、すいすいと、まるで魔法のホウキか雲にでも乗っているようにそれを乗りこなしている。その自由な動きに、ちょっと、いいなあ、と思ったのだ。
だが、ただでさえ冬休みの公園で、イヤホンを耳に突っ込んだままぼーっと、水の止まった噴水の縁に座っている女子高生というのは、周囲から浮きまくった存在だ。それが、小学生がすいすいと乗りこなしているスケートボードに手を出した挙句、無様にすっころんだら……と思うと、妹に、「ちょっとわたしにもやらせて」とその場で頼むのは気が引けた。
それでも、妹が二、三日で乗れるようになった代物なのだ。こちらは高校生である。一時間も練習したら、そこそこ見られるレベルになるのではないか、という、根拠のない自信はあった。それで、公園に人気の少ない時間を狙って、春まっさかりの日曜日、朝六時という妙な時間に、寝ぼけ眼の妹に「ちょっとボード借りるね」と断って、いそいそとやってきたのである。
公園は、時折通り抜けの通勤者やウォーキング中のお年寄りが通るくらいで、狙い通り、閑散としていた。
まったく、狙いと違ったのは、ボードの難易度である。
漠然と、「漕ぐのにちょっとコツがいりそうだな」とは思っていた。まさか、ボードの上に立つことから苦戦するなんて、思っても見なかった。
だが、準備してここまで来てしまった以上、早々に帰るのも癪だ。
妹は、自分の得意分野に姉が興味を示したとなれば有頂天で、次に公園に一緒に来た時には、「お姉ちゃんも乗ってみせて!」とねだってくるに決まっている。それも、いつも自分より何でもできる、自慢の姉は、どんなにかっこよく乗りこなして見せるか……と言わんばかりにきらきらしたまなざしで見てくるに違いないのだ。
もちろん、わたしだって分をわきまえている。これを先に練習し始めたのは妹なのだから、妹より上手に乗れなくたってもちろん構わない。だが、ちょっと練習したから少しは乗れますよ、くらいの格好はつけたいではないか。
とにかく、ボードの上に立って、数メートル漕げればそれでいいのだ。なのに、なぜか、ボードは妹たちが乗っていた時とは比べ物にならないくらい不安定にぐらぐらして、わたしは一向に、しがみついた防犯常夜灯の支柱から手を離せないでいた。
「なあ」
背後から声をかけられて、喉から心臓が飛び出しそうになった。まさか。
「あ、やっぱり。家島じゃん。返事ぐらいしろよ」
「――――――!」