第6話 終末は飲み放題
少年パートに戻ります
薄暗い酒屋。
少年はナイフを握り、息を潜ませていた。
視線の先には一体の保有者がいる。
何やら呻きながら壁を叩いていた。
こちらにはまだ気づいていない。
保有者には理性が存在しない。
無意味に壁や地面を叩く個体も珍しくない。
一体何を考えているのかは分からないが。
慎重に足を送り、接近していく。
足音は壁を叩く音が掻き消してくれる。
何とも好都合だ。
柄を握る手に力を込めた。
相手の背中がすぐ前に迫る。
刹那、一気に踏み出した。
後ろから髪を掴み、側頭にナイフを突き立てる。
呻きと共に痙攣した屍だったが、やがて倒れた。
そのまま素早く駄目押しの一撃を入れる。
これで確実に死んだ。
もう起き上がることはない。
念のためにライトで辺りを照らしながら周囲を確認する。
商品棚や転がった酒瓶が露わになった。
しかし、保有者の姿はない。
「――さて、お買い物といきますか」
軽い口調で呟き、リュックを下ろす。
お目当ての酒はそこら中にあった――。
家に戻った少年は、すぐにビール缶を開けた。
空気が漏れる音が響き、アルコール特有の香りが鼻をくすぐる。
溢れる泡に口を付け、液体ごと喉に流し込む。
苦味が炭酸と共に舌を刺激する。
温い液体が喉を通り、身体の奥へと吸い込まれていった。
――不味い。
少年は息を吐いた。
それでも止めることなく、二度三度と液体を口に含んだ。
少年は高校一年生だ。
当然成人しているはずもなく、法律によって飲酒が規制されている身分である。
しかし、法律など何の意味もない。
飲酒ごときで誰に咎められるというのか。
法とは、社会秩序を維持するための行為規範である。
その通り、法は社会の存在を前提としているが、最早そんな概念はない。
同様に、法は強制力を伴うことで規範としての意味を為す。
つまり、違反者に対する処罰を規定し、実行することでその機能を発揮する。
しかし、それを行うべき裁判官は権威を失い、法執行機関もまた遺物となってしまった。
気が付くと、一本350ミリリットルを飲み終えていた。
缶を投げ捨てる。
僅かに残っていた琥珀色の液体がこぼれ、床に小さな染みを作った。
お代わりはいくらでもあった。
大量に回収するため、車で回収しに行ったのだ。
もちろん免許はないが。
再び蓋を開け、中身を身体に入れる。
段々と身体が火照り、意識が薄れていく。
そう、まるで少しづつ死に落ちるような。
少年はこの感覚がこの上なく好きだった。
やがて朧気に、懐かしい姿が脳裏に浮かんできた。
淡い茶髪、日に焼けた肌。
それは、かつての『仲間』の姿だった。
むず痒さと激しい後悔が胸を締める。
「――三笠莉沙」
少年が虚ろに呟く。
三笠莉沙、それがかつての仲間の名だ。
小学校以来の幼馴染であり、クラスメイトでもあった。
少年は更に量を重ねた。
酒を飲むということは何より雰囲気が重要だということを噛み締める。
誰とどこで何を話しながら飲むのか。
薄暗い部屋で独り飲むアルコールが美味い訳がなかった。
それでも摂取せずにはいられない。
アルコールが完全に回ってくる。
次第に仲間との日々が脳裏に蘇ってきた――。
感染爆発が起きた七月のあの日。
少年は学校の終業式に出席していた。
しかし、保有者が乱入。
血の惨劇と化した体育館を幼馴染の三笠莉沙と脱出した。
それからも事態は悪化し、二人はこの家で共同生活を送ることになった。
彼女に振り回されつつも、着実と生き残っていた。
飲酒を覚えたのもその頃だ。
彼女に唆され、酒を飲むようになった。
『ルール』を作ったのも三笠だ。
全てで七つあると言っていたが、その七つ目を教わることはできなかった。
その前に彼女は去ってしまった。
共同生活から一か月が経った頃、三笠が感染したからだ。
情景が今でも頭から離れない。
記憶と思考にこびり付いている。
目から溢れる血。諦めを含んだ目。
少年にできることは一つしかなかった。
人間である内に殺すこと。
しかし、できなかった。
そして、彼女は少年の前から去った。
「また会うことがあったら、殺してね」との言葉を残して。
今頃は保有者に転化し、どこかを彷徨っているだろう。
それから少年は、保有者をより強く憎むようになった。
できる限り、殺す。
幼馴染を失った悔しさを晴らすため。
これ以上“日常”を破壊されることのないように。
彼等がいなければ日常が終わることもなく、彼女が感染することもなかったのだ。
そして、三笠を探し続けている
今度こそ彼女を殺せるように――。
記憶を噛み締め、また一口含む。
三笠が去ってからも飲酒の習慣は残っていた。
週に数回はアルコールを摂取している。
褒められたものではない。
『いいんだよ。誰にも叱られないんだから』
懐かしい三笠の声が響く。
忘れられない明るい語調。
はっと辺りを見渡した。
部屋には自身以外に誰もいない。
幻聴だった。
懐かしい言葉だった。
彼女はそう唆して少年に酒を飲ませた。
今でも印象に残っている言葉だ。
――身体がだるい。
少年はふらつく足で部屋に上がり、布団に飛び込んだ。
横になり、それでもまた一杯煽る。
力が抜け、意識が朧になる。
同時に、抱えた後悔が堰を切って溢れ出した。
何故あの時、三笠を殺さなかったのか。
どうして救ってあげなかったのか。
怠さが身体を包んでいた。
心地の悪い睡魔だ。
死ぬ時はこんな感覚なのだろうと思う。
ほとんど中身のなくなったコーラサワーを投げ捨てる。
床に落ち、残った滴がこぼれた。
そんなことに構うつもりもない。
時刻は夕方の六時。
寝るには早いし、夕食も取っていない。
しかし、どうせ食欲もなかった。
――食料の節約だ。
そんなことを嘯きながら目蓋を閉じる。
眠りという名の暗闇が思考を閉ざしかけた。
しかし……。
眠りに落ちる寸前、窓越しに響きが聞こえた。
本能に叩き込まれた忘れがたい咆哮。
――保有者だ。
眠気が冴える。
殺すべき存在が近くにいる。
悠々と寝てもいられなかった。
「クソが」
重い身体を無理やり起こし、枕元のフラッシュライトをズボンに押し込んだ。
そして手斧を取り、部屋を出る。
階段を下りる最中、ふらついて転びかけた。
それでも止まることはない。
まるでそれが義務であるかのように、斧を握りながら進む。
明かりの消えた一階を抜け、玄関を出る。
一段と呻き声が大きく聞こえる。
備え付けの柵を出ると、路上で彷徨う二つの影が見えた。
六時とはいえ、冬の夕方は暗い。
人影の容貌や性別は判断できなかった。
しかし、正体をあれこれ考える間でもない。
生きた人間などいるはずもないのだから。
左手にライトを握り、右手で斧を構える。
ライトに照らされた先、制服を着た二人の高校生がいた。
片方は男、もう片方は女。
挙動は明らかに不審で、保有者であることがすぐに分かった。
次の瞬間、少年は勢いよく駆け出した。
女の頭頂部に斧を叩き込む。
赤い雫が飛ぶ。
顔が返り血で染まった。
刃は頭蓋骨を割り、脳をどろどろのプリンの様に潰した。
更に男に足払いをかけ、その場に引きずり倒す。
間髪入れず、顔面を斧で両断した。
しかし、致命傷には至らない。
短く息を吐きながら、再び振り下ろす。
二度、三度……。
気付けば、屍の頭は原型を留めていなかった。
顔に付いた血を手の甲で拭いながら斧を仕舞う。
保有者の血液の臭いや味は独特だ。
人間のとは、また違った不快感がある。
涼しい風が吹いた。
顔を撫でた後、濃紺の闇へと去っていく。
いくらか気分が和らいだ。
女子高校生の死体の傍らにしゃがみ込み、顔を照らす。
血が混ざった金髪が露になった。
斧で切った傷が醜く広がっているが、それは大した問題ではない。
――違う。
少年は急に関心をなくし、深い息を吐いた。
その亡骸は探し求める幼馴染ではなかったのだ。
彼女は金髪ではない。
少年の表情が歪む。
諦めと執着という相反した感情が混ざった複雑な面持ち。
「――帰るか」
静かな夜空の下、家へ歩き出す。
満点の星だけがそれを見ていた――。