第40話 ②School Live
体育館のキャットウォークに立った少年と三笠。
館内には悲鳴が響いていた。
眼前で繰り広げられる映画のような光景。
夢の中にいるような感覚に囚われる。
鉄道各線のトラブル。
不穏なSNSの投稿。
そして目の前の惨状。
「変異型狂犬病」という言葉が浮かび、一つに繋がった。
――パンデミック。
少年がようやく確信した瞬間。
どこかで爆発が起き、窓ガラスが振動した。
窓越しに見えるビルからは黒々とした煙が。
悲鳴が一層大きくなり、ヘリコプターの飛行音と混ざって思考をかき混ぜる。
これがパンデミックなら、侵入者の女は保有者ということになる。
それに噛まれた加島や生徒たちも、同様に感染した――。
つまり、今の体育館は紛れもなくホットゾーンという訳だ。
「あんな奴ら、どうすれば……」
眼前で繰り広げられる惨状を見、少年が呟く。
彼らは人の形をしているが、その挙動は狂暴そのものだ。
「止めるには殺すしかない」
三笠は一切言い淀むことなく断言した。
「殺すって……」
「見れば分かるだろ。言葉なんて通じない」
彼女の言葉を裏打ちするように、呻き声が響いた。
首を噛まれて倒れていた生徒の死体が痙攣する。
それはゆっくりと起き上がり、歯を剥き出しにした。
壁に追い詰められて泣き叫ぶ女子生徒の下へと歩み寄っていく。
そこからは凄惨を極めた。
服を剥ぎ、皮膚を裂き、肉を食む。
生徒は保有者の群れに呑まれ、すぐに肉塊と化した。
「奴らは人じゃない。だから殺すしかないんだ」
噛み締めるように、三笠が言う。
目の前の光景は、有り余る説得力をもって少年に突き刺さった。
「躊躇うな。それがルール1だ」
力強く、そして揚々と彼女は答えた。
「ルールって?」
「私が決めた。全部で七つ。これに従えば生き残れる」
――『ルール』?
少年の疑問は晴れなかった。
普通に生活している限り、こんな事態に役立つルールなんて考えるはずもない。
しかし、彼女はまるでこの状況を予測していたようだ。
あるいは、待ち望んでいた……。
少年の複雑な内心を尻目に、三笠は窓を開けた。
サイレンとヘリのローター音が明瞭に聞こえた。
煙たい空気が鼻腔を掠める。
「今は逃げるしかない。飛ぶよ」
三笠が指をさしながら言った。
その先には、プールや運動部の部室がある通称“部室棟”という建物がある。
体育館と部室棟は連絡通路で繋がっていた。
しかし、それは一階のみ。
このキャットウォークからは通れない。
三笠は連絡通路の屋根に飛び降り、そこを通ろうと言うのだ。
窓から連絡通路の屋根までの高さは三メートル程度。
決して飛べない距離ではないが――。
「じゃ、レディーファーストってことで」
彼女は身を乗り出し、大きく跳躍した。
肉感的だが、しなやかな脚が空を切る。
体勢を微塵も崩さず、屋根に着地した。
「ほら、おいで」
連絡通路の屋根で三笠が手招きする。
少年は息を呑み、窓枠に足を掛けた。
その時――。
「上にいるんだろ! 助けてくれよ!」
階下で誰かが叫んだ。
聞き覚えのある声。
少年は飛びかけた足を止めた。
「ルール2、現実を受け入れろ!」
三笠が向こう側で叫んだ。
――現実。
少年の脳にその二文字が刺さる。
屍が歩き、人を食う。
フィクションじみているが、これは確かにパンデミックという名の現実なのだ。
だからこそ、受け入れなければならない。
躊躇えば死が待っているのだから。
「助けてぇ!」
悲鳴の主が少年の名を呼んだ。
その声は明らかに友人である藤堂――。
少年はその方を見ることなく、一気に飛んだ。
身体が浮いた後、重力に引かれる感覚に包まれる。
気付くと、三笠の横に着地していた。
助けを呼ぶ声はもう聞こえない。
罪悪感はなかった。
感覚が麻痺しているのか、あるいは――。
「ナイスジャンプ」
三笠に肩を叩かれる。
明るい声が甘美な響きを伴って鼓膜を震わす。
通路の屋根を通り、部屋の窓に手を掛ける。
「ここ、いつも開いてるんだよね」
彼女がドアを開けた。
鍵はかかっていない。
窓枠に足を掛け、乗り上げる。
入った先は水泳部の部室だった。
薄暗い。
プール棟の中は体育館と対照的に静かだった。
終業式で全校生徒が集まっていたのだから当然だ。
とはいえ、悲鳴に慣れた耳には沈黙がかえって不気味に響く。
「ちょっと一休みしようか」
三笠が冷蔵庫から二本の缶ジュースを取り出し、片方を差し出した。
どうも、と少年が受け取る。
状況を考えれば、ジュースを飲んでいる場合ではないのかもしれない。
しかし、時期は七月下旬。
館内の気温は三十五度を超えていた。
興奮で気付かなかったが、喉は乾ききっている。
冷えたジュースを流し込む。
オレンジの味が広がっていく。
身体が活気を取り戻しているような感覚が走る。
「あちー」
三笠が腰掛け、ワイシャツのボタンを緩めた。
汗に濡れた肌と青いインナーが露になる。
鼻腔を爽やかな匂いが撫でる。
甘いが、どこか酸っぱい香り。
三笠の制汗剤の匂いだった。
それはしばらくこびりついて離れなかった。
少年は目を反らし、スマートフォンを取り出す。
まずするべきは通報だ。
「水着だから大丈夫」
からかうように彼女が笑う。
インナーに見えたのはスクール水着だった。
それでも少年は顔を反らしたまま端末を操作した。
「繋がらないな」
110番に掛けた少年は息を吐いた。
呼び出し音が虚しく響く。
予想できたことだ。
自衛隊まで出動したとなれば国中が大混乱。
通報できたとしても高校生二人を助けに来る余力などないだろう。
「じゃ、このまま私と二人きりだね」
笑みを浮かべる三笠。
その笑顔はどこか歪んでいた。
本当に楽しんでいるようだ。
三笠の真意を掴みかねたが、今はそれどころではなかった。
とにかく彼女が頼りになるのは間違いない。
共に行動すれば、生き残れるという予感がある。
通報は諦め、SNSを開く。
新聞社の公式アカウントが速報が大量に投稿していた。
『大阪暴動 機動隊が発砲』
『巡ノ丘市 私立高校で死傷者多数』
『自衛隊が調査出動 首相発表』
『錦糸町 商業施設に自衛隊突入』
どの見出しも、物々しい。
見る限り、感染は全国規模で広がっているようだ。
「取り敢えず使えるもん全部回収しようか」
三笠がロッカーからバックを取り出し、冷蔵庫の中身をあるだけ詰め込んだ。
暇つぶしのつもりなのか、漫画や小説も手にしている。
「そうだな」
少年も粉末タイプのスポーツドリンクや応急処置用品を回収した。
「スク水もう一着あるけど持ってく?」
三笠がにやけながら女子用の水着を見せびらかす。
濃紺のありふれたものだ。
「何に使うんだよ、そんなの」
「こういうの好きなんじゃないの?」
「遠慮しときます」
少年は思わず笑みをこぼした。
パンデミックという状況には似合わない会話。
緊張がいくらか解れ、思考が少し冴えてきた。
「次は武器が要るな」
三笠の目を見つめながら言った。
ご名答、と彼女が頷く。
「ルールその3、常に武器を持て」
三笠が部屋を出て一階の倉庫に向かう。
少年もその後に続いた。
倉庫にはありとあらゆるものがあった。
工具や肥料、新聞の束……。
「定番はこれだよな」
少年はバールを手にした。
イメージよりも重い。
学校の倉庫から無断で持ち出すのは、社会的にグレーだ。
街中でバールを持ち歩くのも色々と問題になりかねない。
しかし、保有者に殺されかけたのだ。
この状態では、学校の外もホットゾーン。
法的な問題はひとまず置いておくしかないだろう。
「私はこれにしよう。好きな漫画に出てくるんだ」
三笠が取ったのはシャベルだった。
サイズが比較的大きいもので、いかにも頑丈そうだ。
「シャベルって……。どんな漫画だよ」
「ゾンビものだよ。アニメもやってるやつ」
「この状況だと笑えないな……」
「それじゃあ行こうか」
三笠がシャベルを軽く振りをながら言った。
「どこに?」
少年が至極まっとうな疑問を口にする。
こんな状況では避難所が機能している訳がない。
なぜなら、この高校自体が避難所なのだから。
「お前の家だよ」
三笠が微笑む。
唇の端にはちらりと八重歯が覗いていた――。




