第30話 公正世界仮説
少年視点に戻ります
少女を和室に押しやった少年は、自室の椅子に座っていた。
手には、『保有者等に関する基礎事項』と題された警察の文書。
少女から受け取った内の一つだ。
あれから少女と顔を合わせることもなく、昼食も部屋で済ませた。
彼女がいる一階は落ち着かない。
今や二階の自室こそが唯一の聖域だった。
この書類には、保有者に関する情報が詰め込まれている。
その中でも、いくつか気になる記述があった。
一つが“予備者”という概念だ。
『感染したが、死亡していない状態の者を予備者と呼称する。発症し、死亡状態の後に再起した段階から保有者と定義される。』
つまり、噛まれてから死ぬまでは予備者と定義される。
死亡し、起き上がったら保有者ということだ。
二つ目が“走る保有者”の存在だ。
『保有者の筋力は常人よりも強力であることが確認されているが、歩行速度は比較的遅いと考えられる。しかし、米国担当機関から、走るような挙動の保有者を少数確認したとの情報があり、対応時には留意が必要――』
走る保有者については、今まで見たことはない。
遭遇しないことを祈るばかりだ。
走る標的の急所を確実に撃ち抜くのは難しい。
予想以上の収穫だった。
警察の文書ということもあり、より実践的。
専門的な医学知識は省き、必要な要素を抽出してある印象を受けた。
続いてもう一つの書類を手に取る。
『大規模感染発生時における初動対応計画』
こちらには、避難所や警察の拠点が記されている。
『県警第二分駐所 粕谷区共栄2丁目3番地5』
この家から遠くない場所にも拠点があった。
三階建てで発電設備や高度な浄水設備を完備。
細かい記載を見ると、緊急時には自衛隊との共同使用も想定していたようだ。
装備が残されている可能性がある。
懐かしい場所の名前もあった。
『県立喜多高等学校 千磨代区大袋3丁目6番地2』
少年が通っていた高校だ。
つまり、少女の高校でもある。
――いつか行きたいけど……。
最後に学校に行ったのは、パンデミック当日。
それ以来、校舎を見てすらいなかった。
学校という施設の特性上、相当の危険が予測される。
実際問題、パンデミック当日は保有者が溢れ、大混乱だった。
今でも多くの保有者がいると考えるのが自然だろう。
その分、避難物資が使われずに残っているかもしれない。
単独で探索するよりも、少女を連れて行くべきだろう。
しかし、すぐに学校の探索に取り掛かることは危険だ。
まずは少女がどういう人間か見極める必要がある。
どの程度役に立つのかも未知数だ。
簡単な探索で様子を確認してから、本格的な探索に同行させるべきだろう。
書類を一通り読み終えると、時刻は午後三時を回っていた。
ふと思い立ち、プレートキャリアを手繰り寄せる。
ポーチから免許証を取り出す。
少女を襲っていたあの男の遺品だ。
『今関 優斗』という氏名と住所。
顔写真の表情は随分と穏やかで、最期の様子とまるで違っている。
記載された住所はここからそう遠くはない。
手持ち無沙汰となった今、男の家を探索するのもいいだろう。
アパートに残した狙撃銃の回収も必要だ。
何より、他人が居候している家というのは居心地が悪い。
装備を身に着ける。
武器を入れたクローゼットにロックが掛かっていることを確認し、部屋を出た。
あの少女を残す以上、武器から隔離しなければならない。
MP5に弾倉を叩き込み、チャーチングハンドルを弾く。
ダットサイトの点灯を確認しながら、階段を降りた。
リビングに少女の姿はない。
和室の襖越しに耳を澄ますが、物音はなく、人気もない。
――何をしている?
まさかこの家を出たわけではあるまい。
MP5を握り、襖を少し開ける。
何のことはなく、布団の上で熟睡している少女がいた。
完全に無防備なその表情は、年相応のあどけなさを感じさせる。
いくらか落ち着いたようだった。
少女が寝返りを打った。
薄い紅色の唇がわずかに動く。
自分の家だというのに、罪悪感が湧き上がる。
そっと襖を閉め、家を出た。
彼女が寝ているなら好都合だ。
留守の間に余計なことをされても困る。
どうせあと数時間は寝ているだろう。
車に乗り、アパートに向かった。
そこに残した狙撃銃と弾薬をトランクに詰め込む。
そして、男の家を目指し、発進した。
ゆったりと夕暮れの景色が流れる中、どこか夢心地だった。
まるで入学式の後のような感覚。
幾ばくかの期待と得も言えぬ不安が入り混じっている。
そして、じんわりと胸を縛るむずがゆさ。
男を射殺して以来、ずっとつきまとっている。
自分が人を殺したという事実が現実味を帯びていない。
保有者と生きた人間では、殺すことの重みは違う。
あの発砲は正しかったのか。
そこに争いの余地はない。
撃たなければ、撃たれていた。
自分が、そしてあの少女が。
殺す以外に選択肢はなかった。
現に、あの男は殺されるだけのことをしてきたのだから。
しかし、理屈では割り切れないのが感情というものだ。
気が付けば、目的地の付近に来ていた。
車を止めて窓から電柱の表示を見ると、かなり近くであることが分かる。
男の遺品である写真を取り出した。
家族の背景に写った一軒家。
それはすぐに見付かった。
ありふれた二階建ての住宅で、男の蛮行とは程遠い雰囲気だ。
車を降り、MP5をハイレディで構える。
前の路上には、血の靴跡が残っていた。
あの男がここを拠点にしていたことは間違いないようだ。
セレクターを単射の位置に押し込んだ。
男の家族がまだ残っている可能性がある。
あの男と同じように、野蛮である恐れも否定できない。
とはいえ、このまま乗り込めばこちらが加害者だ。
玄関のドアを叩く。
反応はない。
「誰かいますか? お聞きしたいことがあります!」
声を張り上げる。
まるで家宅捜索の警察官のようだと思いながら、繰り返した。
それに反応し、微かに聞こえる声。
耳を澄ますと、確かに聞こえてくる。
“あの声”が――。
「クソったれが」
ドアを引く。
鍵は掛かっていなかった。
MP5を構え、土足のまま玄関に上がる。
その先のドアを勢いに任せて蹴り開けた。
シャッターが閉まって薄暗い室内。
MP5のハンドガードに載せたライトを照射する。
声はより鮮明に聞こえた。
重なるように二つ分。
こちらに気付いたのか、随分と激しさを増している。
リビングには、食品の容器が散乱している。
それに混じって刃物が剝き出しのまま放置されていた。
まるで自分の部屋を見ているようで、気味が悪い。
声に引かれるまま、浴室の方へ向かう。
そこには、二つの影があった。
髪を振り乱し、喚く女性。
そして、その脇で同じように呻く男児。
そのどちらも、目から血を垂らし、歯を剥き出しにしている。
――保有者だ。
特有の呻き声と粘膜からの出血。
対話などまともに望めない様子。
もはや疑いようがない。
二体とも、手錠で手すりに繋がれ、動きを封じられている。
しかし、今にも掴みかからんばかりの迫力だ。
獲物を前に、衝動を抑えることができないのだ。
男が遺した家族写真と見比べる。
妻と息子。
血や吐瀉物で汚れてはいるが、顔や体格には面影が窺える。
――正気の沙汰じゃない。
男は、保有者に転化した妻や息子と共に暮らしていたのだ。
この呻き声を聞きながら日々を過ごすなど信じられない。
まともな精神状態を保てるはずもなかった。
どうして男はこの二人を殺さなかったのだろうか。
躊躇したのか、あるいは転化してもなお近くで過ごしたかったのか。
死んだ男にその答えを聞くことはできない。
しかし、その心情を理解することはできる。
少年自身もそうであるからこそ。
感染した幼馴染を殺すことができなかった自分。
そして、後悔と憎悪の吐露として保有者を殺している現状。
あの男と自分の間に明確な違いはない。
男は家族の転化により、気を病んだ。
そして、生存者を殺して回り、女性を凌辱した。
単に結果が違うというだけで、本質は自分と変わらない。
あの男は自分であり、自分はあの男だった。
もっとも、だからどうということもなかった。
客観的な正しさを追求する気など毛頭ない。
自分にとってあの男は不正であり、脅威だった。
この世界では、善悪の基準など個人の価値観によってのみ決まる。
自分が正しいと思えば、それは正しいのだ。
「――さて」
小さい呟きは、二体の呻き声に掻き消された。
物資を漁る前にやるべきことが残っている。
銃口を振り上げ、三点射の位置にセレクターを押し込んだ。
引き金を引く。
三発ずつ叩き込んだ。
血が風呂の床に迸り、呻き声が消えた。
吐き出された空薬莢が乾いた音を立てて転がる。
後に残ったのは、手錠に繋がれたまま重なるように倒れた二つの骸。
少年は踵を返し、浴室を後にした――。




