第19話 コンデムド
今回から少年目線です。
17話で少女が避難所探索してた時と同じ時間軸になります。
少年は、自室の窓越しに外を見つめ、欠伸を漏らした。
空を覆う灰色の雲。
激しい雨が地面に打ち付けている。
朝の九時だというのに、辺りは薄暗い。
――雨、か……。
雨は好きだ。
湿っぽく、煙たい香り。
この上なく心が落ち着き、爽快感に包まれる。
何より、外を彷徨う亡者たちは雨が嫌いだという。
『通常の狂犬病と比較して著しい恐水症状を呈する。』
専門書の一節を脳裏で思い返す。
変異型狂犬病の感染者、つまり保有者は水を忌避するのだ。
濡れることさえ気にしなければ、外を堂々と歩くことができる。
もちろん、その分屋内が危険になるが。
安全な移動ができるのだから、贅沢はいえまい。
――どこに行こうか。
今日の行き先を考えながら、身支度に取り掛かった。
ソフトシェルとチノパン。
年の割に地味な服装だが、動きやすい。
死体としか会わないのだから、これで十分だ。
そして、ベルトパッドに吊った装備一式。
プレートキャリアは必要ないだろう。
予備弾倉は腰のポーチにもあり、軽い探索ならそれで足りる。
最後にリュックの上からレインコートを羽織って外に出た。
じっとりとした空気。
肺一杯に吸い込み、味わった。
――美味しい。
この煙たさが好きだった。
叩き付ける雨。
その雨音で周囲の音がほとんど聞こえない。
保有者に恐水症状があるとはいえ、万が一の可能性がある。
油断はできなかった。
ホルダーから斧を取る。
右手に握り、住宅街をゆっくりと歩き出した。
今日の目的は業務用スーパーの捜索だ。
少し離れた場所にあるが、道中の探索を兼ねて歩くことにした。
スーパーや商店の探索自体は前から地道に続けていた。
しかし、全ての店舗を調べ切ることはできていない。
この近辺だけでも相当の店舗が並んでいるからだ。
まだ食料の在庫は豊富だが、複数の店を確保しておくことで、有事に備える。
目的地に向かって歩いていると、一体の保有者を見付けた。
道の真ん中で腕を振り回す女子高校生。
相当もがいたのだろう。
夏服は破れ、淡い桜色の下着が露わになっている。
その制服は他校のもので、三笠ではない。
専門書にあった『恐水症状』。
内容通り、この保有者は、降雨に苦しんでいる。
彼等に傘を使うなどという知能はない。
近くに雨宿りできる場所がなければ、どうしようもないのだろう。
少年が近付いても、屍は見向きもしなかった。
苦し気に喚き、喉を掻く。
普段はあれほどまでに獰猛な歩く屍が今ではこの様だ。
憐れで儚い。
右手に掴んだ斧を振り上げる。
一瞬の後、精一杯の力で振り下ろした。
固い感触を感じつつ、二度三度と続けて殴る。
四回目で雨と血に濡れたグリップが滑り、斧が落ちた。
反射的に腰のホルスターに手を掛ける。
拳銃を掴んだところで、保有者が崩れ落ちた。
――死んだか。
安堵の息を吐き、斧を拾い上げる。
その女子高生は、可愛げで端正な顔を血に染めていた。
投げ出された肢体は、微動だにしない。
虚ろな目は、ぼんやりとこちらを見ている。
少年は、度々考えることがあった。
保有者の目にこの世界はどう映っているのだろうか、と。
彼等は未だ人間でいるつもりなのだろうか。
あるいは、そもそも思考など存在しないのだろうか。
普通に考えるならば後者だろう。
死体に思考が存在するはずはない。
しかし、保有者の五感は普通の人間と変わらず作用している。
むしろ聴覚は優れている可能性すらある。
だとすれば、何かを感じ、考えていても不思議ではない。
歩く屍の思考と感情。
この疑問は様々なゾンビ作品でテーマとされてきた。
死体に感情などなく、最低限の思考能力しかないとする作品。
転化しても感情は残り、生前親しかった人間を庇う描写のある作品。
あるいは、ゾンビには全てが平和な日常に見えているという設定の作品。
このように、その作品によって答えは千差万別だ。
――では、現実ではどうなのか。
少年には分かるはずもなく、分かりたくもなかった。
答えを知るには、保有者になる以外にないのだから。
一つ明らかなのは、保有者は死んでいるということだ。
彼等を人間に戻すことはできない。
“再び”殺すこと以外に彼等を救うことはできないのだ。
最後にちらりと死体を見てから、再び歩き出した。
駐在所の前を通り過ぎる。
主である警察官を失った建物が静かに佇んでいた。
それから十五分ほど歩くと、目的の業務用スーパーが見えてきた。
その頃には、激しかった雨も穏やかになっていた。
響く雨音が心地よい。
「――ここか」
店舗名が記された看板を見上げながら、記憶を呼び戻す。
ここには、パンデミック前に何度か来たことがあった。
中学校からの帰宅路の途中にあり、こっそりと寄り道したのだ。
――懐かしいな。
ここに寄る時はいつも幼馴染の三笠と一緒だった。
よく放課後にここで菓子を買い、家の前の公園で食べたものだ。
入口へと歩んでいくと、トレッキングシューズが何かを踏んだ。
膝を付き、その固い物を拾い上げる。
土で汚れた空薬莢だった。
――5.56ミリ……。
一般的な小銃に使われる口径の弾だ。
自衛隊の89式小銃や米軍のM4にも使われていた。
脳裏に凄惨な光景が蘇る。
北部の外れにあった空き家。
犯され、嬲られた二つの死体。
そして、そこにも同じ口径の空薬莢が残されていた……。
「クソが」
小さく呟きながら、斧を仕舞う。
そのまま右腰のホルスターから拳銃を引き抜いた。
レインコートのフードを外し、開いたままの入口から進入する。
むせ返るような死臭。
あの空き家と同じだ。
しかし、今回は外から漂う雨の匂いがいくらか中和してくれていた。
視線を巡らせる。
レジ前に男性の死体が一つ。
頭と腹を複数回撃たれている。
ここにも空薬莢が。
両目を開けて視界を確保しつつ、銃口を上げた。
片目をつぶって照準するのは、よほどの精密射撃のみだ。
検索や移動しながらの戦闘射撃には適さない。
酒類が並ぶコーナーを進む。
床に落ちた血痕は、奥のバックヤードに続いている。
腰のホルダーからフラッシュライトを取り出した。
銃を握った右手と交差するように構え、スイッチを入れる。
――行くぞ。
バックヤードのドアの前で立ち止まる。
緊張で乾いた舌で唇を舐め、ドアを蹴り上げた。
薄暗い倉庫。
床で何かが蠢く。
銃口とライトを向ける。
――ネズミの群れだった。
ごそりと、ネズミの群れが逃げていく。
そして、そこに残された白いもの。
衣類を纏っていない死体だった。
舌打ちを漏らしながら、進む。
在庫が保管されたスペースを抜け、事務室へ。
扉を開けるが、何もない。
その後、裏側の搬入口まで確認したが、何も見付からなかった。
死体があった倉庫まで戻る。
ネズミはどこかに逃げ、既に姿は見えない。
無惨な死体が転がっていた。
傍らには、血で汚れた衣類が無造作に散らかっている。
若い女性だ。
両手をガムテープで拘束され、首を刃物で切り裂かれている。
その他にも鈍的外傷が無数にあり、性的暴行の痕跡も見て取れた。
その上、ネズミに食われ、酷い有様になっている。
「クソが……」
やはり、あの空き家の時と同じだ。
5.56ミリの薬莢。
ガムテープを使って拘束。
暴行の上、刃物を使って殺害。
手口も、切創の位置も同じ。
――同一人物だ。
この女性を殺した人間と、空き家の生存者を殺した人間は同じ人物。
しかし、今回は重大性が違った。
前回は北部の外れ。
それが今回は自宅から数キロの徒歩圏内。
家の近傍に危険な人物が潜んでいる。
それも、今回は死体の様子から、ここ一週間の出来事のようだ。
銃声が聞こえたことはなかったが、それも確実ではない。
減音器を使えばかなり音を抑えられる。
何より、自分とて常に気を張っている訳ではない。
風呂や睡眠の最中で聞き逃していた可能性もある。
まして数キロ離れていれば、銃声はかなり小さくなる。
本日二度目の舌打ちをし、倉庫を出た。
レジの前に転がった死体を見る。
こちらは男性。
死因は明らかに銃創だろう。
店内には、空になった食品の袋や箱が散らばっている。
死んでいる二人は、ここで生活していたのだろうか。
こんな近くに生存者がいたとは、知らなかった。
知らないということは、何よりも恐ろしい。
「どうしたもんか……」
いよいよ真剣に生存者との遭遇を想定しなくてはならない。
できるならば、生存者と接触はしたくない。
しかし、こちらが望まずとも、向こうから攻めてくることがあろう。
書店にも生存者の痕跡があった。
何より、危険な性癖を持った小銃所持の男の存在。
少なくとも二人以上の生存者がこの地域にいる可能性がある。
この一帯は、今までにない脅威に晒されていた。
近くに得体の知れない生存者がいる。
それは、黒い害虫が部屋に湧いた時のようなじっとりとした不快感と焦燥をもたらした。
床に散らばった空薬莢の一つを拾い上げる。
二度あることは三度ある。
そんなことわざを思い返し、深い息を吐いた。
三度目が自分でないことを祈るばかりだ。
薬莢を放り投げ、店を出る。
ここに回収するべきものなど残っていない。
少年は拳銃を握ったまま、フードを下ろした。
雨の湿っぽい香りが鼻腔に充満する。
心地よく聞こえていたはずの雨音が、今はひどく不気味に思えた――。
空き家の死体というのは、15話を参照していただければと思います。




