第1話 終末は孤独と共に
『変異型狂犬病』
それは、昨年の一月に発見された。
最初に確認された国は、アフリカの某国。
実際はアジアの“とある国”の方が早かったともされている。
結局、お決まりの情報戦で正確なところは分からなかった。
もっとも、どこで始まったのかは些末な問題だった。
狂犬病による死者が起き上がり、人を襲った。
つまり、歩く屍の出現そのものが世界を震撼させた。
再起した死体はもはや人ではない。
会話はできず、感情もない。
ただ人を噛み、あるいは食うだけの存在。
人間の形をした化物だった。
世界中にゆっくりと広がる死の波。
各国は、あらゆる面で戦いを余儀なくされた。
発祥国に対する追求。
徹底した出入国管理。
感染状況と治療法を巡る情報戦。
冷戦を上回る国際的緊張。
国内にも無数の課題が転がっていた。
騒乱の予防と鎮圧。
報道に対する情報統制。
膨れ上がる歩く屍への対応。
世界中が狂乱する中、日本には猶予があった。
島国という地理的特性からだ。
国内感染者は皆無、空港の検疫で僅かに発覚する程度。
平和なまま、時間が過ぎていった。
しかし、それも長くは続かなかった。
昨年の七月下旬。
国内全域で爆発感染。
それから終末は始まった――。
当時、両親は帰省し、少年だけが残っていた。
両親とは音信不通。
それから一か月は『仲間』と生活を共にしていた。
共に難を逃れた幼馴染だ。
しかし、彼女も今ではもういない。
仲間が去ってから三か月。
少年は、その期間を独りで過ごしてきた。
数字にすれば九十日程度でしかない。
しかし、本当の意味で独りで過ごすにはあまりにも長い。
そして、独りきりの生活は今でも続いている――。
街の北部に位置する住宅街。
そこに少年の家がある。
家屋と庭、そして駐車スペースは備え付けの柵で塞がれており、敷地内に入るには鍵付きのドアを通らなければならない。
柵には板や角材が幾つも固定されている。
梯子やチェーンソー等の器具を使わない限りはとても突破できそうにない。
それだけではなかった。
側面の塀に設置された金属片や刃物の罠。
浄水装置付きの雨水タンク。
閉められたシャッター。
庭には自衛隊の偵察用オートバイとマウンテンバイクが置かれている。
どちらも改造され、銃器用のラックや物資を載せるための荷台があった。
そして、駐車スペースには自家用車が一台。
道を隔てて家の向かいには、公園が広がっている。
池や遊具が並ぶ、それなりに広い公園だ。
視界が開けており、保有者の接近に気付きやすい。
数々のバリケードに設備、そして車両。
家は要塞じみた空気を発し、終末の本質を暗示しているようだった――。
その家の二階、公園に面した自室で少年は目を覚ました。
日の光が差し込み、室内を明るく映し出している。
部屋には無数の書籍が散らかり、その上に折り畳みナイフや九ミリ弾の空薬莢が放置されていた。
少年は毛布を払いのけ、着けっぱなしの腕時計を見た。
『08:57』と表示されている。
時期は十一月下旬。
日が出ているとはいえ、寒さに溜め息が漏れた。
今日は平日。
以前ならば完全に寝坊だ。
しかし、少年は慌てる様子もなく身支度を始めた。
ベルトを腰に巻く。
パッドが付いたミリタリー仕様のものだ。
VTACと呼ばれるアメリカのメーカーが製造した実物装備品。
ホルスターに加え、ポーチや斧のケースが下がっている。
枕元に置いてあった自動拳銃を取った。
SIGP228。
武骨なデザインが特徴で、装弾数は十四。
海保特殊部隊や米海軍犯罪捜査局に採用された高性能なモデルだ。
実弾が装填されたそれをホルスターに収めた。
続いてナイフ入りのホルダーを足首に巻く。
ズボンの下に隠すことができるものだ。
こちらは緊急時の予備として使う。
平日にも関わらず遅い時間に起床し、武器を携帯する。
どちらも常識に反した行動である。
しかし、今ではそれが普通。
学校が機能していないのだから早起きする必要がなく、武器を持つのは身を守るため。
そもそも、今の世界には常識などない。
常識の概念を形作り、運用する社会という存在がないのだから。
行動基準は常識や法令などではなく、個人の価値観によってのみ決定される。
少年にとっての行動基準は、『ルール』だ。
かつての仲間が考案し、少年が今も受け継いでいる。
全てで六つあり、どれも終末を生き抜くために重要なもの。
銃を持つのも、ルールその3『常に武器を持て』として決まっている。
続いて足元に置いてあった靴を履く。
米軍特殊部隊でも使用例があったアウトドアシューズだ。
動きやすさと頑丈さを兼ね備えている。
ルールその4『家でも靴を履け』
万が一の際に行動しやすいように、という理由だ。
急いで逃げる時におちおち靴を履く余裕はない。
武器を帯びた物々しい姿で部屋を出て階段を降りる。
保有者の侵入を防ぐためにシャッターが閉められているため、一階は暗い。
少年があくび混じりに口を開く。
――おはよう。
そう言いかけて唇を結んだ。
この家には少年一人を除いて誰もいない。
しかし、今でもこうして挨拶を口にしかけてしまう。
染み付いた習慣というのはそう簡単に拭い去れるものではない。
たとえ孤独に慣れたつもりでいても。
少年は疲労の色を浮かべ、机上のLEDランタンを点けた。
仄かな灯りが室内を照らす。
太陽光発電のパネルが屋根にあるが、発電量は多くない。
それに朝から明るい照明に晒されたくはなかった。
その中で少年は朝食を摂った。
朝食と言っても乾パンとジュースという質素極まりないものだ。
乾パン自体は決して嫌いという訳ではないが、いかんせん飽きを感じていた。
「あー、分厚いステーキ食いてぇ」
年相応の砕けた口調が響く。
長い間まともな肉を食べていない。
――いつまでこんな日々が続くのか。
心の中でそう反芻する。
少年は息を吐き、立ち上がった。
一階に居座ったところでやることもない。
自室に戻り、敷いたままの布団に飛び込む。
起きてからまだ一時間も経っていなかった。
腰の拳銃が邪魔くさい。
「だるい」
終末といえど、毎日敵と戦っている訳ではない。
現実とフィクションは違うのだ。
たとえどんな状況であっても、休息は必要である。
少年は床に散らばっている中から一冊の漫画を取って読み始めた。
部屋にある書籍のほとんどはミリタリーやゾンビに関するものだ。
パンデミック後、近所にある書店で役に立ちそうな物を集めてあった。
感染症の存在が公表されてからはそれに関する書籍が多く発売された。
当時は感染のほとんどが海外で起こっていたため、日本人はある意味でフィクション的な興味を持っていたのだ。
書籍の中には保有者の性質を解説したものや銃器の扱い方を網羅したものまである。
そうした書籍を読むことで生存のための知識を養っていた。
もちろん、知識だけでは役に立たない。
特に戦闘に関することは。
しかし、実戦の機会など外に出ればいくらでも見つかる。
殺した保有者は数え切れない。
ゾンビや終末世界を扱ったエンターテインメントも読むようにしている。
現実とフィクションは違う。
しかし、応用できる部分もあるからだ。
ルールその5『ゾンビ作品に学べ』
ふざけているようだが、やはり重要な事項だ。
かつての仲間はやたらとゾンビものを愛読していた。
もちろん、娯楽という本来の目的もある。
集めた書籍には、いわゆる萌えやアクション要素を多く含んだゾンビ作品もあり、今読んでいるのもその類のものだった。
娯楽がなければ人間の精神は持たない。
孤独な状況に置かれているなら尚更だ。
『しゅうまつぐらし!?』と題された漫画のページをめくった。
作中では女子高校生たちが荒廃した世界で健気に生活を送っている。
仲間と協力し、時には衝突もしながら。
――もし、今の自分に仲間がいたら。
少年の頭にそんな疑問が浮かんだ。
仲間、その言葉を考える度にかつての悲しみが甦る。
そして、際限ない後悔と憎しみが込み上げてくる。
かつての仲間が去って以来、少年は仲間という存在を忌避してきた。
もちろん、これからも仲間は二度と作らない。
少年にとって仲間とは、過去の産物なのだ。
「仲間か・・・・・・」
小さな呟きが狭い部屋に虚しく響く。
懐かしい情景が脳裏を掠める。
夏の入道雲、制汗剤の香り、滴る鮮血……。
もう思い出したくはない。
少年は掌で顔を覆い、静かに息を吐いた――。