第13話 埋もれた一枚
今回は久々に戦闘シーンあります。
書店の探索から一日。
街が夕焼けに染まる中、少年は自室に籠っていた。
LEDのランタンが部屋を照らす。
カラスの鳴き声が静かに響いている。
少年は渇いた息を吐き、本を閉じた。
読んでいたのは、一冊のゾンビ小説。
映画化された有名作だ。
三時間かけて読み終わったところだった。
ゾンビは長らく空想の存在として人々に愛されていた。
小説、映画、漫画、更にはゲーム。
ありとあらゆる媒体に彼等は登場した。
宗教上の伝承でしかなかった存在が世界の創作物を圧巻したのだ。
しかし、現実にまで出現することを誰が予想したであろうか。
変異型狂犬病の存在によって、歩く屍は空想の存在ではなくなった。
実際の恐怖を伴う至って現実的なものになったのだ。
――皮肉なもんだ。
小説と今の現実を比べ、少年はそう感じた。
作中では、世界は復興したことになっている。
軍隊が画期的な装備と戦術で屍を掃討。
その後、人々が力を合わせて復興を推し進めていく。
お決まりのハッピーエンドだ。
しかし、現実がそうなることはなかった。
自衛隊が組織的作戦を行っている様子はないし、政治が機能している痕跡もない。
小説や映画のようには上手くいかないのだ。
アメリカでは違うかもしれない。
かの国では銃が広く流通し、政府機関の権限も充分だった。
日本より多くの生存者がいる可能性もある。
しかし、それを確かめる術はなかった。
少年は小説を机上に放り、そっと身震いした。
今日から十二月に入っていた。
いよいよ冬も本番となり、室内といえども冷たい。
窓から外を眺めた。
陽が落ちかけ、辺りが暗くなり始めている。
道を挟んで向かい側には、公園が広がっている。
そこに並んだ木々は風に揺れ、凍えているように見えた。
しばらく木の動きを見ていると、不意にある言葉を思い出した。
『もし映画みたいに世界が滅んだらどうなるんだろうね』
牧場という担任の社会科教師の言葉だった。
現代社会の授業の雑談中ににぽつりとそう言ったのだ。
その時は深く考えもしなかった。
教師自身、何気ない呟きだったのだろう。
しかし、世界がこうなってから思うと皮肉な話だった。
人間が完全に消えても、自然は存在し続けるだろう。
むしろ生き生きとしているかもしれない。
少年は、自分がえらく小さなものに思えた。
――先生はどうしているだろうか。
懐かしい担任教師の顔を思い浮かべる。
二十代後半と若く、端正な容姿から生徒の人気も高かった。
特に女子生徒から。
と、懐かしんだのも束の間。
地獄と化したあの高校で死んだのだろうと思い直す。
一層の孤独感が募り、少年は思考を切り替えることにした。
深い息を吐き、書架から新たな本を取る。
『変異型狂犬病の基礎と対策』
昨日、書店から回収した専門書だった。
何事も情報収集が肝要だ。
特に戦闘は肉体的な作業だけでは成り立たない。
敵を知った上で行われるべきである。
少年はこの手の本を何冊も読んできた。
しかし、新興の感染症であり、どうしても情報が少ない。
また、正確性に乏しい書籍も少なくない。
だからこそ、複数の書籍を自身の経験と参照しながら読む必要があるのだ。
少年は頁をめくった。
まず、ウイルスと感染経路について記載されている。
根本的な原因が狂犬病の変異ウイルスであることは議論の余地がない。
『通常のリッサウイルスとは異なり、人間への影響が特異である。』
その他にも記載があったが、少年には理解できない領域だった。
感染経路については、一般の狂犬病と概ね同様だ。
噛まれることによる接触感染。
ウイルスが咬傷から体内に入ることで感染する。
更に先を読み進める。
海外の事例から推測される症状や保有者の習性だ。
『発熱、倦怠感、粘膜からの出血等の症状が見られる。』
『感染から死亡までは最長で二十四時間程度とされているが、急激な多臓器不全を呈し、数分で死に至る症例も多く確認されている。』
『感染者は死亡した後、再起する。このメカニズムについては、詳細が――』
発症から死亡までの時間は個人差が大きい。
噛まれた場所や年齢等の影響があるとされるが、詳細は不明。
つまり、噛まれてから転化するまでの時間は予測不可能ということだ。
『通常の狂犬病と比較して著しい恐水症状を呈する。』
狂犬病の症状には、恐水というものがある。
神経が過敏になり、水を飲むことができなくなるのだ。
変異型狂犬病の場合、通常よりも恐水症状が増しているという。
確かに、雨の日はあまり保有者を見かけない。
恐水症状を利用したいところだが、現実的には難しい。
家の近辺で常に水を流せば安全かもしれないが、水を浪費はできない。
そもそも、三笠を探すという本来の目的には不適当だ。
次の問題は、治療法だ。
他の書籍では、あまり触れられていない点だ。
『日米合同の研究チームにより、一定期間の発症を抑える効果を期待できる治療薬が発見されたとの中間報告が――』
『しかしながら、本質的な方策は依然として明らかになっていない』
要するに具体的な治療法は分からない。
現状、噛まれたら諦めて自分の頭を吹き飛ばすしかないのだ。
身も蓋もないが、受け入れるしかなかった。
――自分は間違ってない。
治らないのなら、殺すしかない。
そうする他に歩く死者を供養する術はない。
本を置き、息を吐いた。
結局、現状を打破する情報はなかった。
もっとも、そんな情報はこの世にないのかもしれない。
擦り切れていく感覚。
一日を過ごすごとに自分の心身を削っているようだった。
心のどこかで期待しているのだろうか。
いつか、この生活が終わることを。
しかし、それは認められないことだった。
ルール2『現実を受け入れろ』
これに従って生きるしかない。
諦めることも、この世界では必要だ。
――自分よりも悲惨な目に遭った人間は掃いて捨てるほどいる。
例えば、かつての仲間のように。
歩く屍にならずに生き残っている自分はまだ運がいい。
そう思うことで何とか踏みとどまっている。
仲間の姿が脳裏に蘇り、机の引き出しを開く。
そこには小振りな拳銃と一枚の写真が入っていた。
SIGP230JPだ。
滑らかで女性的なシルエットが特徴的な自動式拳銃。
少年が愛用するP228と同じメーカーの製品だが、デザインは対照的だ。
この銃は幼馴染の遺品だった。
終末の時を共に過ごしたかつての仲間、三笠莉沙。
彼女が警察車両から回収し、使っていたものだ。
少年自身は一度も撃っていない。
使うことがどうしても躊躇われた。
傍らの写真を手に取る。
チェキカメラで撮影された一枚。
写真には若い男女が写っている。
少年と三笠だ。
三笠は少年の貸した服を纏っている。
健康的に日焼けした肌と淡い茶髪のショートボブ。
彼女は水泳部に所属していた。
髪の色も日焼けの産物だと言っていた。
写真の中の彼女は満面の笑みを浮かべている。
ちらりと八重歯が覗く、人好きのするような笑顔だ。
一方の少年も、今よりいくらか穏やかな面持ちで写っている。
二人とも両手に拳銃を握っていた。
少年はP228、三笠はP230。
パンデミック後、拳銃を回収した記念に撮ったのだ。
椅子の背もたれに身体を預けた少年は写真を仕舞った。
感染し、自分の元を去った幼馴染。
いつ再会できるのだろうか。
――いつか、必ず。
この街に住み、探索を続けていれば、必ず会える。
そんな気がしていた。
そして、その時こそ彼女を殺すのだ。
少年は、息を吐きながら顔を掌で撫でた。
悲壮感がのしかかってくる。
しかし、世界は甘くはなかった。
窓の外から、呻き声が聞こえてくる。
思わず机を拳で叩き付けた。
悲しみに浸る時間さえ屍たちに奪われるとは。
冬の夕方に響く言葉にならない呻き。
保有者特有のものだが、少し声が高いようだ。
「クソが……」
ある予感を抱きつつ、椅子から立ち上がる。
腰に吊った拳銃を確認しつつ、斧を取った。
家の近くをうろつく屍を放置してはおけない。
外に出ると、夕方の寒さが体を包んだ。
何か羽織ってくればよかったと思いつつ、柵を開ける。
道に出ると、呻き声がより明瞭に聞こえてきた。
家の前に広がる公園。
遊具の傍らに、“それ”はいた。
ブランコの鎖を揺らす小さな人影。
少年は思わず舌打ちした。
予想が当たったのだ。
当たって欲しくない予感ほど的中してしまう。
ルール6『ヤバい予感は当たると思え』だ。
沈みかけた夕陽に照らされたその姿。
血まみれの園児服を着た男児。
一心不乱にブランコのチェーンを掴んでいる。
「――おい」
少年が声を上げた。
平静を装っていても、声が掠れる。
声に反応し、男児が振り返る。
赤黒く汚れた顔。
歯には干からびた肉のようなものが挟まっていた。
紛れもなく保有者だ。
噛まれれば感染し、転化する。
それには大人も子供も関係ない。
子供の保有者。
目にするのは初めてではなかった。
決して珍しいものではない。
しかし、それでも心を乱される。
保有者の殺害には慣れている。
だからといって無感情な訳ではない。
むしろ彼等を憎み、そして憐れむからこそ殺しているのだ。
このような保有者は特に。
「仕方ない」
この世界で何度も繰り返した言葉を呟き、少年は踏み出す。
保有者が呻き声を上げた。
仲間を呼び寄せようとする死の咆哮だ。
小さな頭に斧を振り下ろす。
泣きたかった。
それでも、表情はいつも通りに。
それが流儀だ。
手に伝わる感触。
その一撃で、保有者は力を失った。
砂利に倒れ込み、割れた痕から脳漿がこぼれ落ちる。
ブランコで遊んだ生前の記憶が残っていたのだろう。
僅かに残ったそれを頼りにここまで来たのだ。
周囲がにわかに騒がしくなる。
呻き声に反応した屍たちが集まってくる。
数は三体。
住宅街の保有者はほとんど排除していた。
しかし、保有者はどこからともなく彷徨って来る。
何度殺しても次から次へと湧いてくるのだ。
少年は公園の柵を乗り越え、走り出した。
斧を振り上げる。
まずは一番手前の作業服を着た男だ。
勢いを止めぬまま蹴り上げる。
バランスを崩した隙に刃を叩き込む。
側頭部が割れる。
更にもう一回。
崩れ落ちる死体から斧を引き抜き、残りの二体と向かい合う。
三つ編みの高校生と金髪の男。
どちらも歯を剥き出して歩み寄ってくる。
高校生が右手を突き出してくる。
掴まれないように横に避け、腕を切り落とした。
そのまま手首を返し、顔面に刃を立てる。
斧を抜きながら、突き飛ばした。
高校生の死体に足を取られた金髪が転倒する。
少年は後ろから髪を掴み、無理やり立たせた。
勢いよく押し込んで公園の柵に叩き付ける。
三回やったところで頭部が割れ、動かなくなった。
死体を放し、息をつく。
顔も服も返り血で汚れていた。
その心地悪さに身体中に悪寒が走る。
叫びたい衝動に駆られた。
しかし、必死に堪える。
殺すことこそが自分自身の責任だから。
辺りに転がる血塗れの死体たち。
彼等がもう二度と動くことはない。
少年は斧を握り締めながら、家へと歩き出した――。




