第11話 歩く屍のなく頃に
書店の中、少女は保有者と向き合っていた。
機動隊員だった保有者が歩み寄ってくる。
間に立ち塞がったゴロが威嚇するように鳴く。
少女は包丁に手に握ったまま、逡巡していた。
グローブに包まれた屍の手が迫る。
少女は身を翻し、それを避けた。
座り込んだ態勢のまま足で蹴り上げる。
スニーカーが脛のプロテクターに食い込んだ。
機動隊の防護具は、投石や刃物に備えるためのものだ。
素手の打撃では露ほどのダメージを与えられない。
何より、保有者の痛覚は麻痺しており、致命傷以外はその場しのぎに過ぎない。
腰を付いたまま後ずさる。
その瞬間、後ろのドアが激しい音を立てた。
肩越しに振り返る。
ドアの向こうに保有者たちが押し寄せていた。
五体を上回る数。
どれも一心不乱にドアを叩いている。
閂代わりに挿した傘が折れかかっていた。
前にも後ろにも保有者。
逃げ場はない。
機動隊員を倒さなければ、他の屍にも侵入されてしまう。
視界の隅を茶色い塊がよぎった。
ゴロだった。
小さな身体で機動隊員の足を掴む。
猫なりの必死の抵抗だった。
しかし、すぐに振り払われて飛ばされた。
高い鳴き声と共に床に打ち付けられる。
あまりにも無力だった。
保有者が迫る。
勢いよく手が伸ばされた。
指先が少女の肩に食い込む。
死がすぐそこにまで近付いている。
――離れて!
保有者を突き放そうと、胸を突いた。
しかし、頑丈な防護ベストの前にはあまりに無力だった。
屍が顔を突き出す。
腐臭が鼻腔を刺した。
人を歩く屍に変える歯がすぐ目の前に――。
――死にたくない。
右手に握った包丁。
これを使うしか生き残る術はない。
自分も、ゴロも……。
諦めに似た決意が固まった。
強く握り締め、振りかぶる。
ヘルメットの防護面は下ろされていない。
刃先を相手の眼球に突き立てた。
柄を通して手に伝わる感触。
この上なく気持ち悪い。
刃を引き抜くと、返り血が飛び散った。
致命傷にはならなかった。
保有者が激しく呻く。
肩を掴む力が一層強くなった。
――死ね。
抑え込んだはずの本心が姿を覗かせた。
危険を目前にし、生存本能が露わになったのだ。
もう一度刺す。
保有者の身体から力が抜け、その場に倒れた。
しかし、手を止めることができなかった。
少女が馬乗りになる。
再び刺す。
刺す、刺す、斬る、刺す――。
返り血に染まるのも厭わずに。
気が付くと、包丁の刃が折れていた。
床に投げ捨て、顔を手で覆う。
全てが真っ赤に染まっている。
足元の死体を見た。
顔面は潰れ、面影がない。
切創からは脂肪や骨が覗く。
――私が殺した……。
胃液が食道を駆け上がってくる。
朝に続いて二度目。
必死に堪えるが、その甲斐なく床に撒いた。
胃の内容物は朝に出し切ったため、少量の胃液が漏れただけだった。
短い息を吐きながら、床に手を付く。
父親を殺してから、徹底的に殺害を避けてきた。
保有者を殺したのは、これでまだ二度目だ。
少女自身、自分が異端なのは分かっていた。
殺すか殺されるか。
それがこの世界の摂理だ。
少女自身もそれを否定する気はない。
躊躇が命取りになることも。
実際に、父親や機動隊員を殺さなければ死んでいただろう。
しかし、理解していても、素直に割り切ることは難しかった。
保有者は人ではない。
それは自明だ。
理性はなく、人間としての能力もない。
とはいえ、彼等もかつては人であり、生きていた。
その事実は変わらない。
背後のドアは未だに音を立てていた。
口から胃液を垂らしたまま、少女は立ち上がった。
入口の脇にあった週刊漫画の棚に手を掛ける。
一気に力を込め、商品棚を引き倒した。
棚でドアが塞がれる。
それでも、安心はできない。
新刊漫画が載せられたカゴ台車を運び、更に塞いだ。
――もう大丈夫。
肩で息をしながら、口に残った胃液を吐き捨てる。
黄色い滴が床のタイルに落ちた。
血に濡れたパーカーを脱ぐ。
パーカーの内側で手と顔を拭い、放り投げた。
それも気休めに過ぎない。
セーラー服の襟や袖口にも飛沫血痕が付着していた。
――もう、歩けない。
機動隊員の亡骸の傍に座り込む。
体力が限界だった。
外にも保有者が待ち受けている。
しばらくここでやり過ごすしかない。
改めて死体に目を向ける。
腰に吊られたホルスターが見えた。
無意識の内に手が伸びていた。
革の冷たい感触が指に伝わる。
しかし、途中で手を止めた。
拳銃は包丁とは訳が違う。
一度手にしてしまえばもう前には戻れないような予感がした。
しかし、武器がなければ……。
包丁がなければ、既に死んでいただろう。
同じように、この拳銃を取らなかったことで死ぬかもしれない。
何としても、死だけは避けたいのだ。
諦めが浮かび、ホルスターを開ける。
ニューナンブ。
五連装の回転式拳銃だ。
拳銃を手に取った。
ずしりと重い感触。
手が痺れるような感覚に襲われた。
銃という圧倒的な暴力。
それを握っているということが信じられない。
高校生にはあまりも無縁な代物。
ここまで自分は変わってしまったのだと思えた。
帯革ごと死体から取り、拳銃の吊り紐を外す。
これでニューナンブは完全に少女の物になった。
床に落ちたリュックを手繰り寄せる。
拳銃を仕舞うために開けると、中のポケットに入れていた生徒手帳が滑り落ちた。
『桜ヶ原優里』
少女の名前が記されていた。
貼付された写真の自身はまるで別人のような表情をしている。
多くのものに恵まれ、失うことを知らなかったあの頃。
住所に年齢、生年月日。
どれも昔ほどの意味を持たない。
高校生という身分も、何ら意味はない。
ある種、生徒手帳は日常の象徴であり、過去の産物だ。
それを提示したところで、保有者が見逃してくれる訳でもなく、ましてや暴徒が手加減してくれることもない。
それでも捨てられなかった。
未だに制服を着ているのと同じ。
かつての日常を捨て去ることを望んではいない。
多くを失っても、否、失ったからこそだ。
生徒手帳と拳銃。
日常と非日常の象徴。
本来交わるはずのない、対極に位置する存在だ。
拳銃と生徒手帳を仕舞う。
――これでいい。
自分に言い聞かせ、息を吐いた。
突然、膝の上にゴロが飛び乗ってきた。
労わるような視線。
少女は撫でようとしたが、手が汚れていることに気付いて止めた。
しかし、ゴロが強引に自らの頭を血塗れの手に押し付ける。
撫でてくれ。
そう言っているようだった。
少女は、遠慮がちに頭を撫でた。
茶色い毛並みに血の赤が広がる。
しかし、当のゴロは返り血など構わず、甘えた声を漏らした。
――ありがとう。
少女は、涙を浮かべながらゴロを抱き締めた。
小さい身体ながら、二度も保有者に飛び掛かってくれた。
この相棒がいなければ、自分は噛まれていたはずだ。
強く抱きしめる。
ゴロが鳴いた。
こちらの想いに答えるかのような鳴き声。
確かな温もりがそこにあった――。
次回からまた少年パートです。
今回のお話は次話とリンクしてくるのでお楽しみにしていただければと。




