第10話 Same corpse different day
明るい日が照らす街。
消防分署を出た少女は、自転車で駆けていた。
肺一杯に新鮮な空気を吸い込む。
田園風景に広がるのどかな雰囲気。
冬の割に温かく、幸先の良い天候だ。
しかし、これから向かう北部ではそう呑気にいられない。
中規模の駅があり、店舗や住宅も多い。
当然、この地域より保有者が多いはずだ。
前カゴに乗せた猫が喉を鳴らした。
ゴロと名付けた小さな猫。
風が心地よいのか、顔を前足で撫でている。
その姿がとても愛らしかった。
ゴロと出会った商店の前を通り過ぎる。
忘れ去られた小さな店。
今後、足を踏み入れる人間はいるのだろうか。
やがて、田畑に囲まれた道に出た。
正面衝突した二台の車が止まっていた。
以前も目にした事故車両だ。
フロントガラスに頭を突っ込んだ死体が見えた。
飛び回る蠅が鬱陶しく、左手で払う。
ゴロも気になるのか、低い声で鳴いた。
――死にたくない。
実感が改めて湧く。
ペダルの漕ぐ足に自然と力がこもった。
肉を食い荒らされ、蠅に囲まれて死に様を晒す。
そんな風には絶対になりたくない。
何としても生存者を見付け、取り入る必要がある。
角を曲がり、腕時計を一瞥する。
時刻は午後二時。
気温も上がり、過ごしやすい時間帯だ。
目的地の駐在所までは二十分ほど。
もっとも、地図通りに進むことができた場合だ。
この世界ではそう簡単に物事は進まない。
むしろ多くの障害が待ち受けていると考えるべきだろう。
少女の人生自体がそのようなものだった。
女子高校生が歩く屍に怯え、独りきりで暮らす。
本来とは比較にならないほど困難な生活を強いられている。
こんな世界を誰が予想しただろうか。
北部に続く裏道を行く。
大通りは敢えて避けた。
自転車で屍の群れを突っ切る度胸はない。
自転車の利点は隠密性と利便性だ。
車やバイクとは違い、エンジン音は皆無。
また、燃料も要らず、体力さえあれば容易に利用できる。
小回りも効くため、放置された車や死体の影響を受けにくい。
反面、防御力と攻撃力は劣る。
車ならば保有者に襲われても、ある程度は耐えることができる。
また、無理やり轢いて進むことも不可能ではない。
しかし、自転車では簡単に転倒し、襲われてしまう。
田畑ばかりだった景色が変わり、工場が並ぶ一帯へと差し掛かる。
道路にはトラックが乗り捨てられ、作業着姿の保有者が彷徨う。
少女に気付いた保有者が低く呻いた。
ゴロが毛を逆立てる。
保有者に向かって歯を剥き出し、鳴いた。
今まで聞いたことのない鳴き声だった。
猫にも保有者の脅威が分かるのだろう。
実際に見たことはないが、猫も感染すると考えられる。
生物として、本能的に危険だと感じるのだろうか。
少女は保有者と距離を取りつつ、走り抜けた。
しばらくすると、ゴロも落ち着いた。
更に五分ほど走っていると、道路標示が見えた。
北部に入ったことを知らせるものだ。
ここから、保有者も多くなるだろう。
北部の様子は、西部とは比較にならないほど悲惨だった。
横転した自衛隊の人員輸送車。
焼け焦げた雑居ビル。
そして何より死体の数が桁違いだった。
道端に生えた雑草の中に転がった頭蓋骨。
ガードレールに身を投げ出す腐乱した高校生。
靴を履いたまま千切れた右足。
至る所に死の痕跡が色濃く残っていた。
――これは……。
分かってはいたが、実際に目にすると辛い。
かつて住んでいた地域が一変していたのだ。
死体そのものは見慣れている。
しかし、彼等の人生に思いを馳せると精神が剥がれるような感覚に襲われた。
一度路肩に止まり、地図を確認する。
この先は店舗が並ぶ通りだ。
一番の危険地帯。
ルート上、避けては通れない。
何よりも回避優先。
保有者に対処するのは目的外だ。
しかし、リュックに入れた包丁の存在が否が応にも脳裏に浮かんだ。
地図を仕舞い、再び進む。
通りに入ると、ゴロの様子が変わった。
先程のように毛を逆立て、歯を剥いている。
耳を澄ますと、保有者の呻き声が聞こえた。
それも複数。
脈が速くなり、冷たい感触が背中を走る。
書店、スーパー、レストラン……。
通りの両脇に居並ぶ店の数々。
そして、放置された車。
中には、機動隊のハイエースもあった。
これらのどこにどれだけの屍が潜んでいるのか。
できる限り音を立てずに進む。
十一月だというのに、額に汗が浮かぶ。
視線を周囲に油断なく走らせる。
しかし、少女は未だ気付いていなかった。
放置されたトラックの下から伸びる手。
周りに気を配るあまり、足元が疎かになっていた。
その手が少女の足首を掴んだ。
突然の攻撃。
ペダルを漕ぐ右足を封じられ、思考が混乱する。
一秒が経ってからようやく状況を把握することができた。
しかし、遅かった。
凄まじい力で引かれる。
抗うことができず、体勢を崩した。
自転車が揺れる。
危険を察知したゴロがかごから飛び出した。
しかし、少女は車体ごとアスファルトに転がった。
打ち付けた身体に痛みが走る。
地面に擦ったタイツが裂けた。
しかし、それどころではない。
トラックの下から、保有者が顔を覗かせた。
少女は必死に足を振った。
更に左足で蹴り付ける。
何度も、何度も……。
そうしている間にも、他の保有者が集まり始めていた。
一触即発。
これ以上の猶予はない。
刹那、ゴロが跳躍した。
少女を掴んでいる保有者の人差し指に噛み付いた。
そのまま首を振り、肉を千切る。
指が欠け、手の力が緩んだ。
――今だ!
少女は渾身の力を込め、足を引いた。
ようやく解放された。
息をつく間もなく立ち上がり、ゴロを抱えて走り出す。
迫り来る保有者たち。
生きた肉を目前にし、歓喜の呻きを上げる。
通りを抜けることはできそうにない。
近くの書店へと走る。
掴みかかってくる手をかわし、屍たちの間をすり抜けた。
荒い息を吐きながら脚を懸命に躍動させる。
書店のドアを体当たりで開く。
ゴロをレジ台に置き、傘立ての傘を取った。
閂のようにドアの取っ手に噛ませ、一応の封鎖をする。
そこで、ようやく少女は息を吐いた。
背負っていたリュックを床に放に投げ、しゃがみ込む。
疲労と痛みが身体に沁みていた。
破けたタイツの下には血が滲んでいる。
掌にも擦り傷があった。
ゴロに目を向ける。
返り血を浴びてはいるが、幸いにも傷はないようだった。
しかし、様子がおかしい。
店の奥に向かって低い声で鳴いているのだ。
――まさか……。
少女も同じ方向に視線を向ける。
やがて足音と呻き声が聞こえてきた。
姿を現したのは、機動隊員だった。
出動服の上に着込んだプロテクター。
頭部を覆うヘルメット。
そして、腰に吊られたホルスター。
その顔は異様に血の気がなく、目も虚ろだった。
鼻からは血が垂れ、剥き出しの歯も赤に染まっている。
――保有者だ。
おぼつかない足取りで迫ってくる。
身体を揺らす度、腰の拳銃と警棒が小さな音を立てた。
少女の手が、がくがくと震え出す。
初めて殺した保有者、つまり父親の姿が蘇る。
まるでその時と同じ状況。
――どうする、どうする……。
思考が縺れる。
機動隊員と父親の面影が重なった。
ゴロが激しく鳴く。
保有者が低く呻く。
自身の吐息が響く。
全てが混ざり合って思考をかき混ぜる。
しかし、手は自然とリュックに伸びていた。
タオルに包まれた包丁。
身を守る唯一の武器。
少女は、包丁の柄に手を掛けた――。
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