第123話 美のために
着替えてきた幸が突然三つ指を付いたことで、キルスと玲奈以外が困惑した。
というのも、この世界には床に座るという文化も頭を下げるという文化もないからだ。
「あははっ」
玲奈もキルスも苦笑いしている。
「えっと、これは?」
困惑した伯爵はキルスに尋ねた。
「これは、三つ指といって、あたしたちの故郷の最も丁寧な挨拶なんです」
キルスの代わりに玲奈が応えた。
「なるほど、まぁ、えっと、幸と言ったな。かまわん、立つといい」
「はい、失礼いたします」
そういって、立ち上がった幸。
余談だが、幸は武家の娘でも大店の娘というわけでもなく、いうなれば大工の娘だ。
その父親も特に飲んだくれているわけでも賭博にせいを出すわけでもなく、ただまじめな大工である。
母親も同じくそんな父親を支える普通の妻であった。
そんな幸がなぜこのように美しいと表現できる所作が出来るのかというと、これは幸が奉公先で身に付けたものであった。
幸がいた世界では花嫁修業の一環として武家や商家などに奉公に上がり、礼儀作法を学ぶというものが流行っており、幸もまたさる武家屋敷に奉公していた。
また、そこの主が大工の父親の身分を越えた友人であったことや、幸自身を気に入ったこともあり、まるで娘のように作法を身に付けさせた。
それにより、このような所作が出来るのである。
「あら、かわいいわね」
「うむ、先ほどの所作もそうだが、美しいな」
伯爵の言う通り、今の幸はまさに美少女である。
その後、伯爵と婦人によりいくつかの質問を受けていくこととなった。
そうして、着物について聞き終えた伯爵達は続いてメイクの話へと戻っていった。
「はぁ、それにしても、レイナさんにしていただいたメイクはすばらしいわ。そうだ、レイナさん、わたくしの専属になりませんか?」
突然のスカウトであった。
「えっと、それはとても、光栄ですけど、あたしには他にもやりたいこともあるし、それに今はキルスのところで結構楽しいので、すみません」
「あら、そうなの。残念ね」
そういう伯爵夫人はそれほど残念そうではなかった。おそらく断られると思ってのことだろう。
「断られたようだな。はははっ」
それは伯爵も同じようで笑っていた。
「それで、やりたいことっていうのは、なんだ」
伯爵は玲奈がやりたいことが気になった。
「はい、そうですね。例えば化粧水とか乳液とか、他にも色々作りたいものがあるので」
「ケショウスイ? それは一体」
「それって、先ほどわたくしに使ったものですわね」
「はい」
どうやら、玲奈はエリーゼのメイクの際にすでに使用しているようだ。
「ほぉ、それは一体どんなものだ」
伯爵は気になったので玲奈に尋ねた。
「えっとですね……」
その後玲奈は化粧水とは何か、それを語って聞かせた。
「ほぉ、そのようなものがあるのか」
「本当ですね。わたくしも知りませんでしたわ」
その話を聞いた伯爵夫妻は素直に感心していた。
「ああ、そうだ、伯爵様」
キルスは別の用事をすますいい機会だと思って話し始める。
「なんだ?」
「実は、今回訪問する際に姉から預かっているものがありまして」
そういってキルスは鞄から木でできた宝箱のような箱を取り出した。
「これは?」
「石鹸です」
そういってキルスは宝箱を開けた。するとそこには大量の石鹸がぎっしりと詰まっていたのだ。
キルスとしては、贈答用の石鹸として紙の箱に1つ1つ紙で包んで、を考えたがさすがにそこまでキルスも用意できなかったので仕方なくこの状態での贈ることとなった。
「石鹸とは、高級品ではないか、それもこんなに、よいのか?」
この世界において石鹸というのは、モリッティノ商会が独占販売しており、製法も公開していない超高級品だ。
それが、大量に無造作に収められていることに驚愕している伯爵夫妻であった。
「ええ、これらは姉が趣味で大量に作っていますから」
「作る? まさか、製法は誰にも知られていないはずだが」
「まぁ、たまたま、知っていましたから、それに最近では玲奈の知恵も使っているので大幅に進化したんですよ」
キルスがトーライドに向かっている間に玲奈とエミルにより改良がおこなわれて、今ではモリッティノ商会のものよりも優れたものとなっていた。
「まさか、これほどの物をな。そうか、ありがたく受け取らせてもらおう」
「ええ、ありがとうございますわ。キルスさん」
「いえ、ああ、それと、ついでなのでこれもどうぞ」
そういって、キルスが取り出したのはクリームだ。
「今度はなんだ?」
「これは、ハンドクリームというものです」
「ハンドクリーム、名前からして、手に使うものか?」
「はい、まぁ、これは奥様に、というより、メイドの方々にですが」
「メイドに、それはどういうことだ」
「俺の実家は食堂です。そのため、多くの食器を洗う必要があります」
キルスはハンドクリームの説明と、それを作った経緯を語った。
それは、数年前水仕事をする姉や母、兄弟たちをの手が水により荒れているのを見た。
それを見たキルスが思い付きで作ったのがこのハンドクリームだ。これは、バイドルの薬剤師によって作られ現在バイドルの女性たちに広まっていた。
「なるほど、そういえば、そのようなものがバイドルで開発されたと報告があったな」
「これには、保湿や手荒れを治す薬効成分が含まれているのでよく効きますよ」
「なるほど、それならメイドたちも手袋をしなくても済むというわけね」
この世界のメイドはみんな若いころに洗濯や食器洗いなどの水仕事を行う、その際に荒れた手はそう簡単に治らず手袋をすることで客や主人の眼から隠しているのであった。
その後、試しにとまだ若いメイドを呼び、ハンドクリームを使わせてみると、わずかながら手荒れが治ったと喜んでいた。
「喜んでもらえたようでよかったよ。ということで、これを皆さんで使ってくれ」
そういって、キルスはハンドクリームを複数そのメイドに手渡した。
「あ、ありがとうございます」
受け取ったメイドは嬉しそうに部屋を出ていった。
こうして、キルスと玲奈、幸、ターナーの4人は伯爵家での納品を終え、その足でバイドルに戻ったのであった。




