729:回る世界
「ギギギ……。
何トカ……ココカラ……。」
『そう簡単に、俺が逃がすと思ってるのかよ?』
ネズミくらいの大きさになった黒い何かが、俺達に見つからないようにモゾモゾと離れていこうとしていた。
このバカ騒ぎの中で、普通の人間なら見落とすだろう。
だがマキーナが一度ロックした以上、それは通用しない。
俺はその黒い塊の前に回り込むと、少しだけ距離を取ってしゃがみ込む。
「マ、待ッテクレ!!
俺ナラ、オマエの役に立ツト思ウゾ!!
ソ、ソウダ、オマエノ記憶二アッタ、神ノ居ル場所ニモ心当タリガ有ルンダ!!」
小さくなったシャドウは、必死に命乞いをする。
俺は何も言わず変身も解かず、ただしゃがんだまま見下ろす。
それを見たシャドウは、俺が興味を持ったと思ったらしい。
不明瞭だった音声が聞き取りやすい音になり、色々と話し始める。
「お、お前の記憶にある“神の座標”だがな、スタンド公爵家の秘蔵の図書館に赤い本がある!
その本に書いてあることはスタンド公爵にも俺にも理解出来ないが、見たものをスタンド公爵は完璧に記憶している!!
それを俺が写し描けば、お前が見たらきっと役に立つはずだ!!」
『……それ、俺がスタンド公爵に頼み込んで見せてもらえば良いだけの話だよな?』
冷たく言い放つ俺の言葉に、シャドウは小さく身震いをする。
「へ、へへ、“秘蔵の”図書館だぜ?この世界の貴族は秘密主義だ。
一族以外に見せる事は無いだろうさ。
俺を助けてくれれば、お前の仲間にでも何でもなるからさ!何でもするぜ!
記憶を読み取りたい奴の記憶も、俺がいれば覗きたい放題だぜ!!」
ん?今何でもするって?
いや、そんな事はどうでも良い。
コイツ相手にネタをやっても意味は無いしな。
俺はゆっくりと立ち上がる。
『くだらんな。
お前、本当に俺の記憶を見たのか?
元の世界に戻ろうとした俺が、二億年近くも時間をかけた俺が、何で体を鍛える合間に元の世界の41年間の記憶を何度も何度も刷り込んだと思う?』
「そ、それは……。」
言い淀んだシャドウに数歩歩み寄り、足を上げる。
「チクショウがぁ!!」
案の定、反撃の手段を残していたらしい。
黒い影から伸びた針のような攻撃をかわし、そのまま踏みつぶす。
ユイの、歌姫の加護付きだ。
水が急速に蒸発していく音と共に、ゴムが焼け焦げたような臭いが漂い、そして消えていった。
『忘れたくなかった、奪われたくなかった、新しい膨大な虚構の記憶に、本当の俺自身を押し流されたくなかったんだよ。』
マキーナの変身が解除される。
完全に、シャドウは消滅したらしい。
顔を上げるとユイがファン達にアンコールをせがまれていた。
その顔は困ったような、だがとても嬉しそうな表情だ。
“あるべき場所に帰った顔”
何故だか、俺にはそう思えてならなかった。
少しだけ、“羨ましい”という妬みも感じていたかもしれない。
それから数週間、事態は少しずつ、だが確実に変わっていった。
先の、シャドウとの戦い。
スタンド公爵が、自身の敗北した動画を公開したのだ。
その後に、ユイと俺……と、ファン達の戦いの動画を紹介した事で、世論が一気に動く。
“魔物退治は貴族の専売特許”と思われていた認識が、“歌姫とプロデューサーだけでなく、人々も力を合わせれば対応できる”という風に変わっていったのだ。
また、スタンド公爵の働きかけもあり、少しずつだが貴族も独占を止め、冒険者ギルドと同調する動きを見せだした。
あの戦いの後、スタンド公爵を見舞いに行った際に“私なりの罪滅ぼしをしようと思う”と、真っ直ぐな目で言っていたが、どうやらこれがそうらしい。
もはや歌姫は狭き門をくぐり抜けた一部の人間しかなれぬモノ、ではなくなり、才能を持つ少女達が夢を持って挑む、希望溢れる職業になっていっていた。
「あ、セーダイさんここにいたの!?
そろそろスタンド公爵様のお家に行く準備しないと!!
もう迎えの魔導馬車来ちゃうよ!!」
ユイもあれから一気に有名になった。
それこそ、先程言っていた“才能ある少女達の希望”そのものと言っていいだろう。
今やヌコチューブは元より、国営放送にも呼ばれる程の人気を得ていた。
それでも、本人がこうしてプレッシャーに負けることなくいつも通り伸び伸びとしているのは良い事だろう。
「あ、悪い悪い。
そういや今日だったな。
ちょっとのんびりし過ぎてたわ。」
<ユイ、勢大はこう言っていますが、実際は準備をとうに済ませていますのでご安心ください。>
“なぁんだ、アタシより楽しみにしてんじゃん”とユイは笑う。
マキーナさんや、そこはもうちょっとこう、男のニヒリズム的な……。
<馬鹿な事を言っていないで行きますよ。>
俺はやれやれと頭をかくと、準備していた荷物を持ってユイの後を追い、馬車へと乗り込む。
最近は忙しい合間に、こうしてスタンド公爵と打ち合わせる事が増えていた。
世の中の空気が変わってきた事もあり、魔物の王の復活を世間に公表する時期に来ているのではないか。
その議題に関してのアドバイザー的な話であり、その際のユイを国民的なアイドルとして旗印にしたい、という内容でもある。
「しかし、ユイはどう思ってるんだよ?
この話、受ける気なのか?」
「うス、自分受けるッス!
……でも、ホントにアタシ何かに務まるかな?
セーダイさんはどう思う?」
ユイの体育会系言葉は久々に聞いたなぁ、と何だか懐かしく思いながらも、ユイの顔を見る。
まだどこか幼さが残る、年端もいかぬ少女。
その印象を感じながらも、その瞳にはしっかりとした意志が宿っている。
「さぁな、まぁ、大丈夫なんじゃないか?」
「もー!すぐそうやって誤魔化すー!!
しっかりしてよプロデューサーさん!アタシの未来は、セーダイさんの手腕にかかってるんだからね!?」
ほんの少しだけ、答えに詰まる。
多分、自分でも気付かないくらいに、僅かに表情に出ていたらしい。
何かを感じ取ったユイは、途端に不安そうな表情になる。
「あ、あのさ、セーダイさん。
前に言ってたさ、その、元の世界って、どういう所なの?
お、奥さんって、やっぱり可愛い人なの?」
ユイの言葉に、俺の脳裏には一人の女性が浮かぶ。
今、彼女は何をしているのだろう。
いや、俺は戻れるならばあの瞬間に戻れる筈だ。
ならば彼女には一瞬にも満たない、瞬きすらも時間が経っていないはず。
……もし、あの神を自称する少年が約束を反故にしているとしたら?
心の内側から、じわりと黒い何かが染み出してくる。
<勢大、ユイ、到着したようですよ。>
いつの間にか馬車は止まっていて、ドアを開けるガチャガチャという音が聞こえる。
俺とユイは奇妙な沈黙に包まれながら、スタンド公爵家へとたどり着いていた。




