702:新しい始まり
「……で、ここがその“事務所”って奴か。」
両手にスーツケース、首から後ろには俺の身長くらいはありそうな荷物を背負い、そこにたどり着く。
あ、少し言い訳するなら、今両手と背中に持っている荷物は俺のものではない。
俺の荷物は胸前にぶら下げている荷物袋1つで事足りている。
要は、これらの荷物は全てユイの私物だった。
歌姫ギルド養成所の宿舎に住んでいたのだが、今回の件を受けて引っ越す必要があるからだ。
「……何か、殺風景な箱、って感じだね。
もうちょっと華やかで豪華な感じを想像したのに……。」
この世界に住んでいるユイから見ても、俺と同じような感想を持つということは、本当に簡素な建物、と言う事なのだろう。
その建物は、元の世界の雑居ビルによく似ていた。
1階が飲食店であり、2階が事務所。
そして3階と4階が、元は何かの事務所が入っていたが、今は改装されていて居住区になっているらしい。
「とはいえ、ここが今後俺等の拠点になるんだから、諦めろ。」
周りを見渡しても、似たような建物が雑然と並び、その隙間を縫うように馬車を走らせる道が、アチコチ通り抜けている。
「わかってるけどさぁ……。
でも、ここって前の歌姫が辞めちゃって、今活動してる人いないって噂を聞いたよぉ?大丈夫なのかなぁ?」
「さぁなぁ。
そも、それを今あれこれ考えても仕方ねぇだろう。
とりあえず、行ってみるしかねぇだろうな。」
店舗脇にある狭い階段を、何とか荷物を左右にやりくりしながら登っていく。
二階の入口には、錆びて殆ど読めなくなった金属のプレートがかかっている。
(……?5……3……事務所?
53事務所ってか?まさかなぁ。)
「ごめんくださーい、今日からこちらでお世話になるユイなんですけどもー!」
こういう時、若者は物怖じせずに前へと進むから良いなぁ、と、酷く年寄りじみた事を思ってしまう。
若いうちはこうして、まずは飛び込んでみる事も良いだろうからな。
間違った方に飛び込みそうなら、それは大人が止めればいいだけだ。
「……返事ないね?
どうしたんだろう?奥に行ってみようか?」
「そうだな、だが、それなら俺が先に行く。」
荷物をドサリと置き、何も持たない状態になると忍び足で進む。
扉の先は廊下が続き、左右にいくつかの部屋への入り口がある。
古びた扉の上には、“会議室”や“給湯室”などとプレートが付いている。
(正面突き当たりに人がいそうだな。)
そっと進んでいると、突き当たりの扉の向こうから何かの話し声が聞こえる。
扉まで近付くと、それは口論?のような会話だ。
何を言っているか聞き取れないが、怒っているような女性の声と、言葉少なく何かを返事している男性らしき声が聞こえる。
「何?セーダイさん突然止まってどうしたの?
誰かいるの?」
聞き耳を立てていると、不意に後ろから能天気なユイの声がする。
途端に、部屋の中の会話がピタリと止まる。
「こんにちわー!今日からお世話になる、歌姫のユイでーす!!」
本当に、勢いがあるのか能天気なだけなのか。
俺が止める間もなく、ユイは扉を開けて元気よく中に入っていく。
気後れしながらも、俺も後に続いて入る。
部屋の中には小太りのおっさんと、そして巻いた髪を上の方で止め、眼鏡をかけたスーツ姿の女性。
「アラ、貴方がたが今日から配属される新人さん達ね。
ホラ所長、ご挨拶を。」
「あ、あー、よ、よく来たな。
ここは歌姫ギルド公認事務所で、ナンバー53の事務所だ。
私は所長のデリック、こちらは秘書のオルウェンだ。
実質的な事は彼女が仕切っているから、詳細は彼女から聞いてくれ。
……あまり怒らせないように。」
オルウェンと紹介された彼女はキッと睨むと、すぐにデリック所長は目をそらす。
「所長、この後少し……。」
「あぁ!いかん!もう仕込みの時間だ!!
ささ、君達、後の事はオルウェン君から聞いてくれたまえ!それじゃあまたな!!」
オルウェンが何かを言いかけた瞬間、デリックは慌てて立ち上がるとドタドタと部屋を出ていった。
恐らくは、これもいつもの事なのだろう。
オルウェンはため息をつくと、改めて俺達に向き直る。
「貴方がたの経歴はあらかじめ確認させていただいております。
ようこそ、ユイさん、セーダイさん。
まずはこれから住まう部屋へ荷物を運び込む必要があるでしょう。
特に異論がなければこの上の4階に空き部屋が2つありますので、そちらを使っていただきますがよろしいですか?」
俺としては別に問題はないし、どうやらユイもそれは同じようだ。
2人ともそのまま頷くと、とりあえず荷物を運び入れようという話になったので、そのまま部屋へ荷物を運ぶ。
ユイの荷物を運び入れ、“後は自分でやるから”と追い出されたので俺も割り当てられた自室へ。
ドアを開けると、目の前に広がるのは家具も何も無い一人暮らし用の1K部屋、という感じだ。
小さいながらもキッチンがあるし、トイレに風呂もついている。
魔法がある異世界とはいえ、ここだけを見たら元のような科学文明の世界なのかと錯覚するほどだ。
<とはいえ、キッチンのコンロも水道関連も、動力は魔力のようですね。
魔法と科学が、随分とバランスよくミックスされている世界ですね。>
マキーナがそういうのも無理はない。
割とこれまでの異世界では、何と言うかこういう調和をしている世界は少なかった。
元いた世界に限りなく近い繁栄をしているし、建物も鉄筋コンクリートなのだが、動力は魔法で魔物までいる。
こんなに安定しているのに、近々人類を脅かす魔物の王が復活すると来てやがる。
「魔物云々が無ければ、きっとここは過ごしやすい良い世界なんだろうな。」
ベランダに出て、タバコに火を付ける。
元の世界じゃ、もうこんな事が出来るビルやアパートは少ないだろうが、ここはOKらしい。
ベランダの手すりにもたれかかりながら、周りの風景を見回す。
(……ホント、ここだけ見れば元の世界の住宅街と言われても、思わず信じちゃいそうなんだがなぁ。)
少し、懐かしい気持ちになる。
魔導馬車で混雑している道路、雑然と並ぶ魔力を伝達するための電柱、人々の喧騒。
少しだけ形は違うが、懐かしい雑音の中に俺はいた。
「セーダイさん、オルウェンさんが、片付けがある程度終わったら事務室に来いって。」
ノックもせずにドアを開けて、ユイが俺を呼びに来る。
やれやれ、落ち着いたらマナーを教えるところからかな。
そんなことを思いながら、俺は近くに置いてあった吸い殻入れでタバコを揉み消していた。




