690:ディーヴァ
真っ直ぐこちらに向かって突撃してくる、猪型の魔物。
その口元にある短い牙をこちらに突き立てようとしているのだろう。
速度も相まって、もはやそれは弾丸どころか砲弾に近い。
「それでもぉっ!!」
左手の下腕部にバンド止めしてある小盾を前に突き出す。
右手のナタを逆手に持ちかえて、右手も下腕部の押さえとして差し込む。
激突のその瞬間、体をやや下に潜り込ませながら両足で踏みしめる。
「こなくそぉ!!」
やや斜め下から突き上げるように、猪型の魔物の突撃してくる軌道を上に逸らして、受け止めるというよりは上に受け流す。
地面はひび割れながら俺の両足を飲み込み、ある意味では杭のような状態になってくれる。
小盾は激突の衝撃で粉々に砕け散ったが、俺の左下腕部を犠牲にして何とか受け流す事に、猪型魔物の下に潜り込む事が出来た。
「もぉらったぁッ!……何ぃ!?」
使い物にならない左腕を振り、右手のナタを逆手から順手に持ち替える。
そのまま、地面に固定されている事を活かして柔らかそうな腹部らしき部位に刃を立てるが、“ガキリ”と音がしてナタは根元近くから真っ二つに折れてしまう。
全くの想定外。
“歌姫の支援があって始めて魔物と対抗できる”という言葉を、俺は勘違いしていた。
この世界の人間と魔物では強さに絶望的な隔たりがあって、その差を“歌”というバフで埋めているのかと思っていた。
こうして実際に刃を立てて理解する。
これは“強さ”がどうこうという範疇の話ではない。
言ってみれば“システムの仕様”と言うようなモノに近い。
恐らく、“歌姫の歌”という鍵がこの防壁システムを解除しない限り、こちらからの攻撃は数%しか受け付けない、というイメージが一番近いかもしれない。
現に俺のナタも、ほんのちょっぴり傷をつけていた様で、僅かに青い体液が滲んでいる。
なるほど、歌姫無しでも魔物は倒せるが、人間の側に相当の被害を出した、というのも理解出来る。
ただそれを今理解したところで、どうしようもない。
むしろこの状況だと相手の怒りを更に強くするだけの逆効果とも言える。
「流石にやべえ……!ま、マキーナ、変身……!?」
俺がこの世界とは別に使える、“異世界から持ち込んだ力”。
マキーナ本来の武装、“通常モード”に変身する事により使用する事が出来る。
当然無限に出来るものではなく、エネルギー残量としては100%から徐々に減っていくシステムだが、これのおかげで俺は以前修行した力を、周囲への被害を抑えて使う事が出来る。
また、それ以外にもこのエネルギーが続く限り飲まず食わず眠らずで活動し続ける事も出来る。
ただ、使うと次の世界に行くまでは回復しない事から、使い所は考えなければならない。
とはいえ今この瞬間殺されそうになっているのに出し惜しみはしていられない。
少しの攻撃しか通らないなら、致死量の数億倍のダメージを叩き込んでやるだけだ、そう思いながらマキーナに変身の指示をしようとしたその時、俺の背後から強い輝きが起きる。
「駄目ぇぇぇぇ!!」
ユイの体が光っている。
それまでの旅装束は消え、白を基調としピンクの意匠が施された、フリフリがやたらと付いた服に変わっている。
まるで、どこかのアイドルのステージ衣装だ。
「私の歌、届いて!!
……さーくーらー、さーくーらー、のーやーまーもー、さーとーもー……。」
少しだけ、何だかズッコケた様な気分になる。
元の世界の、古い童謡だ。
それでも久々に聞いた故郷の歌に、俺は随分と懐かしい気持ちになっていた。
<勢大、身体能力が向上しています。
それに、左腕も。>
マキーナに言われて、フッと左腕を見る。
肘から下は血塗れでズタズタの衣服だが、肝心の左腕は傷一つない。
いや、完全に復元している。
「……驚いたな、通常モードの時よりも体が軽い。」
あの、神を自称する少年がいた空間、あそこで1人修行していた時の状態、あれに限りなく近い。
“歌姫の歌というのはもしかしたら、この世界において何かの制限を外すのでは?”という疑問が湧く。
目の前の猪型の魔物も、こうなってしまっては何の障害足り得ない。
この状態ならば、俺にとっては道端にいる蟻を踏み潰すのと大して変わらない。
猪型の魔物は一際大きく雄叫びを上げる。
もうその声ですら、俺には恐怖で本能のまま叫ぶ悲鳴にしか聞こえない。
「はいはい、ご近所さんの迷惑になるからね、静かにしようね。」
右手を猪型の首に回し、軽く捻る。
太い木の幹が折れるような音がし、魔物から全身の力が抜け、俺に覆い被さるように倒れた。
「……これは、すげぇ力だな……、あ、終わった。」
緊張が抜けた途端に、全身を漲る力の奔流が徐々に小さくなっていく。
なるほど、集中力や緊張状態がおさまると解除されてしまうわけだ。
これは便利だが、かといって乱用するには危険な気がしてきた。
特に人前では駄目だ。
こんな強さを見せつければ、人間は確実に羨み、妬み、祭り上げるか排除しようとしてくるだろう。
「あ、あの、セーダイさん、その、何で効果があったんですか?」
「え?いや、そりゃオメェ、歌姫の能力って奴じゃねぇ……のか?」
質問の意図が解らず、思わず質問で返してしまう。
見るとユイは、これまでに無いほど真剣な表情で俺を見上げている。
「それはそうッス。
歌姫の能力はその名の通り、歌で皆を元気付ける事ッス。
その効果は圧倒的な魔物を容易く倒す力や、傷ついた肉体を癒す力や、高位の歌姫の力は、命を落とした冒険者の魂すら繋ぎ止めたと言われる程ッス。」
ほらみろ、やっぱりその力のおかげで俺は助かったんじゃねぇか、と言いかけた時に、ユイに強く否定される。
「そうじゃ無いッス!!
あ、アタシは……。
アタシは今まで、そんな効果を発揮できた事のない、落ちこぼれ歌姫なんスから!!
この歌だって、小さい頃から何故か覚えていて、1番歌いやすい曲だから覚えている歌だけど、試験会場では殆ど効果を発揮しなかった歌なんスよ!!」
それが怒りなのか、悲しみなのかは解らない、ユイの激しい感情を乗せた告白。
その気迫に俺は圧倒される。
これなら先程の猪型の方が、まだ可愛いと言えるくらいの強烈な迫力。
この少女の瞳に、俺はなんと言ってごまかすべきか頭を悩ませていた。




