626:午後の庭園
「……ここが言っていた屋敷、ってやつか。」
通りから、門とその先を見上げる。
当然、向かう前にいくつか下調べをしておいた。
ここは、この世界の有力貴族に出入りしている商人の邸宅だ。
貴族に関してもさして後ろ暗いような事は出てこず、やっているのは大した事のない可愛い脱税やらささやかな賄賂程度だ。
元の世界であればこれも立派な犯罪云々だろうが、それはそれ。
こんな世界で、後ろ暗い事をやっていないヤツの方がおかしいというか、何ならそれが正しいと認識されているフシもある。
そういう、“この世界での倫理”で考えるなら、ここの主とやらは十分に清廉潔白と言っていいだろう。
もしも政界にでも出ようと言うなら、政敵は間違いなくこれを突くだろうと思うが、どうやらそこまでの野望は持っていないらしい。
言ってみれば、“現状の既得権益で満足している中流から上流一歩手前の商人”というところだろうか。
なんとなく、ここの主とやらの考えも読める。
多分、奪われた技術とやらを使えばひと稼ぎ出来るのだろう。
商会も更に大きく出来るのかも知れないが、その場合周囲からの注目の度合いも増える。
注目されるという事は、つまりは狙われるという事だ。
余計な敵を作れば現状の商売にもケチがつく。
だから、ワザと技術を盗んだ奴等を放置したのではないか、と。
もしかしたら、そちらに妬みの目を向けさせたいのかも知れない。
急成長して大儲けする輩など、世見のやっかみの的だ。
「……何か、行きたくねぇなぁ。」
先日の流れがあった手前、ここの子息とやらが転生者の可能性もあるから行かざるを得ない。
そして行けば、依頼を受けざるを得ないだろう。
ここは奴等の庭。
受けずに帰るのは骨が折れそうだ。
「何用ですかな?」
門に近付くと、すぐ側の小屋から若い男が出てくる。
それなりの屋敷住まいだから、門番もいるらしい。
「へぇ、こちらのお庭を整えるように言われて来ました。
こちら、来た時に見せろと言われてまして。」
俺はあらかじめ受け取っていた割符を門番に見せる。
門番はそれを受け取りチラと見ると、すぐに笑顔になりながら返してくれる。
「やぁ、これは失礼。
庭師のモンドさんの代わりに来る、って聞いてた人かい。
執事長のクブレさんなら、この時間は坊っちゃんの勉強を見てるはずだからさ。
御屋敷をグルっと回り込むと中庭があってさ、そこのベンチで待ってると良い。
アンタが来た事を伝えておくよ。」
この屋敷で働く身内、と思ったのだろうか。
門番は砕けた口調に変わると、俺の行き先を伝え、そのまま小屋に戻っていく。
どうやって伝えるのだろう、と思い歩きながらチラと小屋の中を覗くと、何やら光る水晶のようなものに話しかけている。
なるほど、魔法の一種か、と納得する。
街中では殆ど見かけないが、金持ちの屋敷には香下設備がある事が多い。
それを門番の小屋如きに使うという事は、金を持っている、という事の他に、“どこに何を置くべきか”をしっかり理解しているとも言える。
もしかすると推測の通り、堅実な思考の持ち主と言えるかも知れん。
「お待たせしましたかな?」
ベンチでボンヤリと庭の木々を見ていたら、後ろから声がかかる。
「……いや、この庭を見ていたからな、退屈はしなかった。」
あの時あった老紳士は、あの時と同じようにキッチリと髪を整えスーツを着込んでいた。
俺の目の前に小さなテーブルを広げると、テキパキと手慣れた様子でカップとポットを用意し、そしてコーヒー豆を挽く。
「しかし、凄腕の割には、私が近付くまでお気付きにはならなかったようですが?」
挽いた豆をドリッパーにセットし、ゆっくりと中心から円を描くように少量のお湯を注ぎ、豆が全体に湿るように蒸らす。
少し蒸らした後、追加のお湯を注いでコーヒーを抽出していく。
もう、この段階であのカフェテラス等では感じられなかったコーヒーの華やかな香りが広がる。
「……俺は。
どんなに隠していても、敵意や悪意といった害意を持つ奴には敏感でね。
ただ、それを持たない奴にはどうにも鈍感だってだけの話だ。
そして、今ここに来たアンタからはそれが感じられなかった。
ただそれだけの事だ。」
老紳士は楽しそうにクスクスと笑う。
そうして笑った後、カップを俺の前に置く。
「良かったら飲んでくれ給え。
あそこよりはマシなコーヒーだと思うがね。」
カップを手に取り、香りを嗅ぐ。
みずみずしい果実のような香りでありながら、少しだけ感じられるチョコレートの様な香り。
一口含むと、爽やかな酸味と苦味、そして強すぎないがしっかりと主張するコク。
元の世界で言うならモカ、辺りだろうか?
イエメンのモカ港から出荷された事から名付けられたというモカコーヒー。
その香りと味だ。
「どうかね?」
老紳士が穏やかに微笑む。
「昔飲んだモカコーヒーという味に似ている。
……良いコーヒーだ。」
老紳士の笑顔がますます深くなる。
勝ち誇らせた様で少し悔しいが、このコーヒーを褒めないのは自分の中で少し違うと感じていた。
そう思った時点で、俺の負けなのだろうが。
「……そんな事より、依頼の話だ。
俺なりにここに来るまでに少し調べた。
俺の推測で言うなら、この依頼は取り下げた方が良い。
結局のところ、回り回って最後はお前のご主人が不利益になるだけだ。」
俺の言葉に、老紳士は静かに笑う。
「君は……、ただの殺し屋かと思ったが、随分と慧眼なようだ。
いや、だからこそ無頼の身でここまで生き残れているのかな?
だが、この依頼を取り下げる気は無い。
暗に主人からも了承は得ている。
彼奴等めは少し派手にやり過ぎた。
このままでは主にも不利益が出かねない。
今ならば、“欲に目がくらんだ誰か”が、新進気鋭の新商会に盗みに入った結果、運悪くそこにいた夫婦を殺めてしまった、としても、“よくある事”ですぐに風化するだろうな。」
なるほど、ある程度筋書きは出来上がっているらしい。
話を聞いていて思うのは、その夫婦とやらは少し口が軽すぎたようだ。
予想通り技術を使った量産品が飛ぶように売れ、そして“どうしてこのような知識が?”と問われた民衆に、“前の勤め先で思いついた”と喧伝しているそうだ。
今のままなら彼等の思いつきで済むが、賢しい幾人かは“この屋敷に秘密が?”と疑いを持ち始めているらしい。
そこに御子息の市場巡りやらの噂が絡み合うのは時間の問題だ、と。
そこで、この商会としても“無言の意志”を示す必要が出来てしまった、と。
やれやれ、こういう政のゴタゴタは、本来なら勘弁してほしいんだがな……。
「……解った、依頼を受けよう。」
ただ、ここで断れば転生者の情報が途切れる。
俺に選択肢はないだろう。
「おぉ、受けてくれるか。
なら報酬の話だが……。」
「このコーヒーが前払いでいい。
成功したら、後払い分でここの家族に合わせてくれ。
少し話ができればそれでいい。
……多少は、実行犯の愚痴でも聞いてくれ、とな。」
俺はそう言うと立ち上がる。
老紳士は笑いながら“約束しよう”と保証してくれた。
やれやれ、気が進まないがお仕事といこう。




