622:確保
『おいアンタ、聞こえてないのか?』
安楽椅子はゆらゆらと揺れ続けている。
俺も結構な大声で怒鳴っているはずなのだが、驚く様子もなければ振り返る様子もない。
“ヘッドホンでもしているのか?”と思った俺は、バシャバシャと水を踏み、檻に触れられるくらいまで近付く。
『おい、聞こえ……。
……誰だこいつ?』
怒鳴りかけた言葉が止まる。
安楽椅子で揺られているのは、ミイラ寸前の様なシワくちゃの老人だ。
髪は真っ白く、その殆どが抜け落ちている。
体型も安楽椅子に座っているというよりは、安楽椅子に包まれているとか、座らされている、という表現の方がぴったり来るくらいの小柄で、何よりその顔や腕など、見える所はシワだらけで、干からびて死んでいるミイラか、だいぶ酷い表現だが、濡れた雑巾を絞り、そのまま広げずに乾かしたかの様なその姿を見て、予想していた人物像とはまるで合わずに困惑する。
<勢大、特徴その他を観察しましたが、あそこの椅子で揺れている人物は探していた“ヤマナミ・ナガレ”氏で間違いなさそうです。>
マキーナの言葉に驚き、俺はもう一度揺れている老人を見つめる。
確かヤマナミは若くして、それこそ20代後半だか30代前半で、SOGAの会長まで上り詰めたと聞く。
だが目の前のこの老人は、どう見ても90か、或いは下手したら100歳だと言われても納得できてしまう姿だ。
ただ、確かに改めて観察してみれば、写真や動画で見た人物と特徴が何となく一致する。
まさか、しかし本当に?という気持ちで、俺は老人を観察する。
老人は先程から口を半開きにし、その濁った目は空を見つめていて俺たちの旅言葉には何一つ反応していない。
いや、反応しているのだろうか?
耳を澄ますと、“あぁ”だの“うぅ”だのといった、何かを呻いている声が聞こえる。
なるほど、確かにクロガネが“もう心まで死んでいる”というような事を言っていたが、まさしくそうなのだろう。
アレはもはや、生ける屍も同然だ。
『とにかく、中に入って調べるしかなさそうだが、マキーナ、この檻はどうやったら入れるか想像はつくか?』
<不明です。
この檻に出入り口はありません。
どうやって中に入ったのか、それすらも理解できません。>
檻をよく見ても、赤茶けた錆が浮かんでいる鉄の檻に見えるだけだ。
上からかぶせただけかと思い使っている水中の中を見ても、地面に該当するところにも檻が金属の棒で繫がっているのが確認できる。
『じゃあ、力付くでこじ開けて中に入れた後、また力付くで元に戻したとか……。
ヌグググク……!!
……駄目だな、こりゃ。』
赤錆だらけの金属の檻ならどうにかなるだろうと、俺は全力で開こうとした。
だが、檻はびくともせず、揺れることすらない。
『……何だよこれ、まるでゲームの破壊不能建造物じゃねぇか。
こんな所まで現実無視するんじゃねぇよ。』
俺はびくともしない檻に蹴りをいれると、そう吐き捨てる。
だが、マキーナにはそれが何か引っかかるものを感じたようだ。
恐ろしい速さで、俺の視界の中でウインドウが複数開き出すと、何かの文字が高速で流れていく。
<そうですね、ここは現実世界ではありませんでした。
現実で無いのなら、それは私の領域です。>
マキーナがそう言い終わった瞬間、檻の一部がグニャリと歪み、そして消失する。
どういう理屈なんだ。
拳でぶっ叩いて空間を割ってみたと思えば、今度は力では破壊できなくてもデータ的に破壊できる檻ときやがる。
『まるで狂人の世界だな。』
<あながち間違ってはいないかも知れませんね。>
電子の世界が人々の夢や理想を叶える空間なのだとしたら、そこにアクセスする人々の欲望や願望が渦巻いていることだろう。
顔や名前、素性が見えないからこそ、それらはより感情的に剥き出しになりやすい。
人々の正の念も負の念も渦巻くこの空間は、確かにエネルギーとして変換するには向いているのかも知れない。
そんな事を考えながら彼に近付く。
近くで見れば、彼は開けた両目からは涙を流し、何かを呻いている。
<勢大、彼の口元に耳を近付けてくれませんか?
何か、意味のある言語のように聞こえるのです。>
マキーナに言われ、俺は屈むと彼に耳を近付ける。
考えてはいけないのだろうが、彼の安楽椅子の脚は水の中に浸かっているのに、揺れるたびにキイキイと、木々が軋む音が聞こえている。
それがあまりにも不思議だったが、確かにこの音のせいで彼の呻きも聞き取れない。
「……テ……、トメ……テ……。」
呻きをマキーナが解析し、音を再構築し、そして言語に戻す。
『止めて?という風に聞こえるが?』
<恐らくはそうですね。
彼は“止めて”と呟き続けている様に聞こえます。
止めるのは、この安楽椅子の事なのでしょうか?>
何だ、そんな事かと思い俺は片手で安楽椅子の背もたれに手をかけ、動きを抑える。
<勢大?止まっていませんが?>
『力はいれている……が……、何だこれ?』
動きはあくまでもゆっくりと、しかし確実に安楽椅子は揺れており、俺が力を加えても止まらない。
加速させる事も停止させる事も出来ない、不可思議な、直接的に言ってしまえば気持ちの悪い椅子だ。
<……解析します、少しお待ちを。>
『いや、その必要はない。
こういう頑固な奴にはな……。』
俺は腰を落とすと、中段に構える。
右足を大きく上げると腰を返し、スネの行く先を上から下へ。
ほぼ垂直になるような角度で足を落とし、安楽椅子の足部分に打ち落とす。
木製、というよりは金属製の椅子の脚を蹴り飛ばしているような感触だったが、俺の力の方が上だったようだ。
安楽椅子は座面部分から下が粉々になり、破片が水中に沈む。
『おっと、危ない。』
座面部分、彼が乗っている所が水中に落ちる前に掴むと、何とか彼を濡らさずに済んだようだ。
<勢大、また檻のように全くあなたの攻撃か効かない場合もあったのではないですか?
私が解析してからの方が、もう少しスムーズだったでしょうに。>
『あぁ、すまねぇな。
でもこうした方が、俺で解決できるかそうでないか、一発でわかるだろ?』
マキーナは呆れていた。
俺は苦笑していたが、目の前で起きている変化にすぐに表情が引き締まり、警戒する。
「オッ……オッ……。」
安楽椅子の脚部が破壊され、俺に持ち上げられている状態だからなのか、彼は急にぼんやりと赤い光を全身から放つ。
その全身に生気が急速に流れていくかのように、まるで逆再生の動画を見るように、シワだらけの皮膚にハリが戻っていく。
クシャクシャに丸めた紙のようだった顔も、画像で見たあの顔に、そして黒黒とした髪も生えてくる。
急速に、老人から元の彼へと戻っていく。
「……ここは?」
1度目を閉じ、そして再び開けた目には、光が戻っていた。
寝落ちでアップロードまで辿りつかず……。
しかも休日だったので今まで寝ていて気付かずでした……。
失礼いたしました。
また、大型連休に伴いお休みを頂きます。
次回再開は5/8を予定しております。




