621:底の底
意識が曖昧だ。
体温と同じような風呂に入っているような、お湯と自分が同化して、フワフワと漂っていて、目を開けても閉じても変わらない真っ黒な空間。
はて、俺は何をしていたのか。
何だか大変な事をしていたような気がするが、考えが纏まらない。
それよりも、ひどく心地良い。
このまま眠るのも、それはそれで悪くないかもしれない。
-そうですね、勢大は少し頑張り過ぎです-
誰かの声が聞こえる。
声の主は女性か?
ずいぶんと優しく、そして懐かしい声だ。
懐かしい、か。
俺が女性の声を懐かしいと思うなんざ、母親と、妻くらいなもんだ。
懐かしい?妻の声が?
何言ってるんだ、今朝会社を出かける前に聞いたばかりじゃないか。
早く仕事を終わらせて家に帰らないとな、妻の声を聞かなければ今日が終わらない。
前に会社にいた先輩は“結婚は人生の墓場だ”なんてよく飲みの席で言っていたが、俺にはそうは思えない。
それに、若い奴等には夢と希望を持たせてやらなけりゃだろうに。
“結婚は良いものだよ”と、言い続けなきゃ。
まぁ、“いることが当たり前”になると、その幸せには気付けなくなるのかも知れねぇなぁ。
……妻の顔、どんなだったっけか?
名前は、姿は、声は?
俺は、何してるんだ?
『……ふっざけるなよコンチクショウがぁっ!!』
倒れていたらしい。
背中側に硬い感触と重力を感じながら、上半身を起こす。
<気付きましたね勢大。
バイタルに問題なし、メンタルの状態は如何ですか?>
『あぁ、いつも通り最悪な気分だよ。
……ここはどこだ?』
周囲を見渡すと、どうやら草原に寝転んでいたらしい。
嘘くさいほど真っ青な青空と、規則正しく揺れる草が一面に生い茂る場所で、俺はポツンと座っていた。
<水晶の中、あの転生者の精神の中、と言った方が解りやすいでしょうか。
ですがしかし……この風景は……。>
解っている。
ムービング・アナザーライン・クエストに入る時に見たあの空間、ネットワーク世界の中に入った時のような、あの嘘くさい電子の空間だ。
『……つまりはあの世界も、コイツの中に作られた仮想空間だった、って事なのかもな。』
なんて事だ。
つまり俺は、最初からコイツに触れていた、って事だ。
<そのようですね。
あの空間はただの電子ネットワーク上に展開された世界だと思っていましたが、実際は“彼”というサーバーを使っていた、という事のようですね。>
俺は言葉を失う。
人間一人をサーバーに仕立てる技術力にか、それともその倫理の無さにかは解らないが。
『って事はあれか、また空間を突き破って行くって事で良いのか?』
<前回の事がありますからね、恐らくはその通りだと思われます。>
また、腰を落として中段に構える。
右拳に力を込めると、目の前に映る景色をただの液晶パネルと意識する。
拳の当たる位置、そこに壁がある、壁がある。
『シッ!』
ガラスが割れるような音と共に、目の前の風景の一部が崩れ落ちる。
その先にはやはりあのとき見た、工場のような地面が見える。
『よっと……、やっぱりあの時と同じような風景だな。
……ってか、随分と運ばれている光が多くねぇか?』
以前に来た時には、散発的に光の玉が透明なチューブを伝い、どこかへ運ばれていただけだった。
ただ、今は引っ切り無しに光の玉が現れてはチューブで運ばれていく。
<集める力が、随分と多くなった、と言う事でしょう。
この光を運ぶ先ではなく、出荷元を調べれば目的地にたどり着きそうではありますが。>
だろうな、と呟くと、チューブを観察する。
光の玉、ではあるのだが、いくつかは光り方や色味が違う。
青白かったり、強い光だったり、弱い光だったり。
何となく、均一的なのは赤みがかかった光の玉だな、と想像がつく。
その玉を平均的なものとするなら、合間合間で不均一な光の玉が流れていく、そんな感じだ。
<勢大、あのチューブのライン、アレだけは他と違い均一な光が流れていますね?>
マキーナが指定したチューブを見る。
なるほど、確かにあのチューブだけは均一な、やや赤みのかかった光の玉が整然と流れていく。
その流れていく先で一度何かの機械と合流し、そこから先のチューブが俺の目の前を通るチューブらしい。
合流する機械にはいくつものチューブが繋がっており、その均一な光の玉を運ぶチューブ以外は最初にみたときのような、散発的な光の玉、しかも不均一な光が運ばれているようだ。
<勢大はこれをどう見ますか?>
マキーナに言われ、考え込む。
均一な光は、まるで大量生産の量産品のようだ。
それに比べて、不均一な光はどれもバラバラで、まるで自然に発生したような……?
『……1つ、想像したくない可能性なんだが。』
あの光は、クロガネだかが言っていた魂なのではないか?
魂の力をエネルギーに変えるなら、あの不均一な光はこの咲玉市に繋がったネットワーク上から回収してきた、人の魂ではないか?
そして、あの量産品の赤みがかかった光、あれは転生者のエネルギーなのではないか?
『……だとしたらあの赤い光の、出どこを探してみるのが一番良さそうだな。』
<私も同じ結論です。>
意見があったなら、決まりだな。
だが、ここにある機械をぶっ壊して、エネルギーの変換を止めさせておけば、外の奴らも助かるか?
<その行為は推奨しません。
前回と違い、今回このシステムはフル稼働の状態にあります。
この状態で破壊しバランスを崩した場合、何が発生するのかは予測出来ません。
本来の目的を達成させた方が危険は少ないと想定します。>
チューブを引きちぎろうとしたところをマキーナに止められる。
マキーナが予測できないという事は、俺でも対処が難しい事になる可能性が高い。
俺は少しだけ唇を噛むと、すぐに均一な光の送られてくる先へと歩を進める。
そうだ、こんな所で無駄な時間は使えない。
今すぐにでもぶち壊したくなる衝動を抑えつつ、俺は光の先を追う。
チューブは今いる位置よりも下の方から送られてきているらしい。
近くにあった螺旋階段の手すりを掴むと、滑るように駆け下りる。
くるくると回りながら階段を降りていき、流石にそろそろ目が回りそうだ、なんて考えていたその時、不意に階段が終わる。
一番下の段は、水に浸っていた。
『……水?』
サラサラとしたその感触から、血ではないと感じていた。
足をつけるとそこまで深くなく、俺のくるぶしくらいまでの深さしかない。
<勢大、あちらを。>
言われた方を見れば、水面に巨大な鉄の檻が存在している。
その上に弱く光る球体があり、どうもそれがこの場所を照らしているから俺にも水が見えたようだ。
檻の中を見てみれば、静かに揺れる安楽椅子。
その椅子は俺には背を向けているが、その肘掛けには手が見える。
誰かが、向こうを向いた状態で安楽椅子をユラユラと揺らしている。
アレが、恐らく彼か。
俺は覚悟を決めると、彼の下へ歩き出す。




