608:休息
最初は異世界に飛ばされてしまったかと思った。
次に、ここは夢の中だろうな、と理解した。
懐かしい風景。
夜の道路。
あの日、あの時電車から突き落とされなければ、いつも通りたどり着いていたはずの道。
俺の自宅へ向かう、道路の上にいた。
(……精神攻撃の類、……いや、そんな事はなさそうだな。)
内ポケットを探っても、名刺より少し大きめの金属板、マキーナの存在がない。
しかし俺の体型を見下ろせば、鍛えられた肉体のまま。
本来の俺は、もっと太っていた。
不摂生の果ての肥満、突き出た腹のせいで、スーツのベルトを巻くだけでも一苦労だったほどだ。
だが、見下ろした体は締まっており、この世とあの世の狭間、いくつかの世界では“混沌の平原”と呼ばれている場所で、2億年近く鍛えた時のままだ。
(この体があれば、まぁ大抵の事は乗り切れるか。)
そんな事を思いながらも、これは確実に夢だと理解できる。
精神攻撃を受け、精神世界に閉じ込められた事もあった。
その時の感覚から、“どうも違う”と感じている。
精神攻撃なら、もっと実感がある。
ただ、今この瞬間は、何だかフワフワしている感覚がつきまとっている。
歩いているのに浮かんでいるような、荷物を持っているはずなのに重さを感じないというか、“肉体が動いていない”と直感で感じられるのだ。
(この、階段を上れば……。)
まるで滑るように、浮いているように階段を上がる。
都内に近い割に、一月数万円の家賃という破格の安アパート。
どこぞの気取ったデザイナーが設計に携わったらしいが、4階建てという縁起を気にする国民性を無視した建築から、俺と妻が住む4階は破格の安さだった。
ただ、まだ生きている俺の母親からは“4階なのにエレベーターがついていないのは体に堪える”といって、引っ越した初期に来た以外はもう訪れては来ない。
嫁姑問題は根深いらしいから、それで良かったとも思うが。
そんな事を考えている内に、入口の扉前にたどり着く。
バッグから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。
鍵を開け、扉を開ける。
「ただいま。」
シンと静まり返った玄関。
それなりに遅い時間だったはずだ。
なら、妻はもう寝てしまっているのだろうか。
入口脇にあるスイッチに手を伸ばす。
慣れ親しんだ我が家だ。
どこに何があるかは見なくても解る。
明るくなった玄関と廊下を見、そこから先に繋がる景色を見ても気配はない。
(マキーナがいれば、生体反応をチェック出来るんだがな。)
一つ一つ、部屋を見て回る。
どの部屋も“生活の残滓”はあるのに、誰もいない。
リビングに戻る途中でキッチンに向かい、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
取り出しても温度を感じない。
リビングのソファーに座り、テレビのリモコンを見つけるとスイッチを付ける。
何をやっているか解らないが、どうやらコメディー番組をやっているらしい。
何だかよく解らない画面を見ながら、缶ビールを開けて一口。
炭酸の感覚はない。
冷たさを感じない。
そして味すらも感じない。
考えてはならない事が、頭をよぎる。
本当は、俺には妻などいなかったのではないか。
実はこうして生きているのか死んでいるのかわからない毎日を送っていて、興味の無いテレビ画面を見つめて味のしないビールを飲んでいる俺が、本当の俺で。
これまでの異世界は、そんな人生に疲れた俺が見ていた、単なる現実逃避の幻覚なのではないか。
「……そんなわけあるか。」
缶ビールを握り潰す。
立ち上がり、全てを破壊したい衝動が湧き起こる。
醒めない夢なら、夢と自覚できている明晰夢なら、ここにあるもの、目に映るものを全て破壊してやろうか。
「……し……もし……。」
誰かが俺を呼んでいるような?
何かの音が聞こえ、俺は立ち上がって辺りを見回すも、誰かの姿はそこにはない。
「……もし?……もしもし?」
今度はハッキリと背中側からそう聞こえ、振り返ろうとした時に肩を掴まれる様な衝撃。
「もし、気付かれましたか?」
見知らぬ和室の中、俺は布団で寝かされていた。
声のする方を見れば、和服の老婆が正座しながら俺を見下ろしている。
不思議と、どこかで見たような顔付きをしていた。
穏やかで優しげで、見ていると何だか優しくしてあげたくなる、不思議な雰囲気を感じさせてくれる。
「あ、あぁ、申し訳ありません。
あ、あの、御婦人、こちらはどちらになりますでしょうか……?」
(マキーナ、状況は?)
目をこすりながら上半身を起こしつつ、マキーナに呼びかける。
起き上がる際に体中から激痛が走り、我慢と共に“目が覚めたのか”と、何か実感する。
「ありゃ!先生は元気ですのぅ。
普通ならまだ体を動かすことすら出来ないはずやのに。」
カラカラと老婆は笑う。
立ち上がると、“お茶でも入れましょ”と、席を立ち何処かへ行ってしまった。
<勢大、気付かれましたか。
ここは遠野家本邸です。
倒れていた貴方を、クロガネと竜胆が運び込みました。
先程勢大の隣にいた女性は、タマキの祖母に当たる人物です。>
マキーナの声が聞こえる。
そちら側を見ると、テーブルの上に設置された布の上に金属板が鎮座している。
(お前、そうしていると何かの国宝みてぇだな。)
<皮肉を言うならこれ以上の回復をせず、また今止めている痛みを開放しましょうか?>
(わかった!俺が悪かった!!
流石はマキーナ!いやぁ、助かったなぁ!)
この、ふてくされる無機物にお世辞を言うと、少しは気分を良くしてくれたらしい。
無言のままではあるが、俺の体の状態も視界に表示してくれる。
そのやり取りでも、これが現実かと安心する反面、“先程の夢は何だったのだろう”と思い返す。
あれは、俺の心が見せた夢なのか。
家に誰もいない夢か、あまり見たいものでは無かったな、そんな事を思いながら、俺は自分の体を改めて確認していた。
「……え?」
気付けば、全裸に浴衣1枚という姿になっていた。
前が全開じゃなかったのが、まだ幸いだったかも知れない。
ごめんなさい!思いっきり上げ忘れていて、さっきそれに気付きました!!!
失礼しました!!!




