58:嵐の前の
「おぉ、キルッフ、急に呼び出してすまなかったな。」
まぁ一杯やれよ、とキンデリックがグラスに蒸留酒を入れようとするが、俺はそれを断る。
今日は午後からサラ嬢とのご対面だ。
久々にあったおっさんが酒臭かったらちょっとどころじゃなく引かれそうだ。
「フン、すっかりカタギのキルッフ様になっちまったな。」
「色々と、脛に傷なモンでしてね。表歩くときは素面でないと。」
苦笑いと共にそう答える。
俺からすれば、“キルッフ”と呼ばれる度に、世界の変化を感じざるを得ない所だ。
それでも、悲しいかな現状を維持するためには、世界の意志に従うしかない。
コーヒーをもらい、香りと共に口に含む。
香ばしい香りと共に、舌に残るわずかな酸味。
元の世界で言うならブラジルあたりが近いかな。
「急いできてもらったのには理由があってな。……俺達は、“お払い箱”だそうだ。」
コーヒーを愉しむのを止め、キンデリックを見る。
定期報告は適当に捏造して“苦戦しているが作戦は今のところ予定通りに進行中”という内容で報告していた。
それがバレて何かあったのかと心配したが、どうもそうではないらしい。
キンデリックのところに、帝国の密使が現れ、“帝国内での方針に変更があり、現状の内憂浸透作戦は中止となる”という報告があったそうだ。
中止に当たり、フルデペシェ家とキンデリックには相応の謝礼が支払われており、またリリィの学費は3年分既に支払われている事から、“作戦は中断になり新しい指示は無いが、今後有効になりうる可能性もあるのでそのまま現状を維持せよ”との事らしい。
ただ、活動資金等は今後縮小になるので、最低限の生活費以外で何か入用であればフルデペシェ家に頼れ、との事だった。
「……何とも、中途半端な判断ですね。」
妙に煮え切らない判断に思える。
こういう潜入工作は見つかった時のリスクが高い。
打ち切るならスパッと引き上げさせないと、残している限りずっとリスクがついて回る。
これではまるで……。
「さぁな、お偉いさんの考える事なんざ解るかよ。
……だが、今回は珍しく5~6人で来てたぜ。
いつもなら1人か、多くたって2人なんだけどなぁ。」
「“何か”が変わって、方針がブレている最中、ですか。」
キンデリックの目が鋭く光る。
年齢的には孫を抱いていてもおかしくない。
それでも尚、この老人から感じる殺意と気迫は現役のままだ。
「さてな、噂じゃ比較的穏健派の重鎮が代替わりしたって話だがな。」
なるほど、“枷”が外れたか。
この謝礼や学費の前払いは、その重鎮からの最後の手向けか。
キンデリックを見ると、少し寂しそうな表情だった。
もしかすると、キンデリックが恩義を感じている存在だったのかも知れない。
新しいグラスに、蒸留酒をワンフィンガー分だけ注ぐ。
「重鎮殿に。」
互いに杯を上げ、一息に飲み干す。
喉を焼き、苦みを残しながら胃に落ちる。
席から立ち上がり、そのまま去ろうとした俺に、声がかかる。
「なぁ、お前は、お前だったら……。」
振り返りキンデリックを見れば、この男には珍しい、何かに迷っている表情だった。
「いや、いい。もう行け。」
“また何かあったら、報告に来ますよ。”
そう言い残して、俺はその場から去った。
何を悩んでいるのか聞くべきだったか。
いや、多分あの男はそう聞かれても答えないだろう。
少し時間も押している。
酔い覚ましをかねて、俺は小走りに寮へと戻った。
「お父さん、どこに行っていたの!?
先に行ってしまおうと思って……、何か、ありましたか?」
素知らぬふりをしようかと思っていたが、顔を見た瞬間に一発で気付かれた。
こういう時、女性は鋭くて困る。
少し悩んだが、中止と現状維持の事を簡単に説明した。
「……というわけで、晴れて俺等は自由の身になったわけだ。
後はこのまま、のんびり学院生活を謳歌して玉の輿を見つけるも良し、学生生活を終えたら御家に帰って勤めを果たすも良し、或いは中退して御家に帰ってもいい。
まぁ、俺としては最後の選択肢は勿体ないから、選ばん方が良いと思うがね。」
この年になると、知識を学べる事の大事さが理解できるからなぁ。
「いきなりですね……。
ですがまぁ、それは追々考えるとして、今はサラ様の元へ急ぎましょうか。」
それがいい。
まだ時間もある。
ややこしい事は後回しだ。
サラ嬢の屋敷で、いつもの応接間に通される。
今日は珍しく三馬鹿がいない。
ついでに言えば、何故か俺までソファーに座らされている。
先方の給仕が注ぐコーヒーを、恐縮しながら受け取る。
女の子達は紅茶のようだ。
この辺も転生者が女性だとありがたい。
お茶の習慣は近世ヨーロッパぐらいから、輸入品として持ち込まれたモノだったような気がするが、まぁ、そこに突っ込むのは野暮という物だ。
それよりも旨いコーヒーにありつけるだけ、ありがたいと思わなくてはな。
一口すすると口の中に力強い酸味と果実のような甘味が広がるが、それが嫌味にならず鼻に抜ける香りが爽やかだ。
元の世界の味で言えば、コロンビア辺りだろうか?
何にせよアタル君の世界での、謎の黒い液体とは雲泥の差だ。
「今日は訳あって、お二人しかお呼びしてませんのよ。」
リリィとサラ嬢の女子トークをBGMにコーヒーを愉しんでいると、本題なのかサラ嬢がそう切り出す。
「言う決心がついた、って所かね。」
俺の言葉にサラ嬢が頷く。
遂には素性をリリィにも話す気なのだろう。
次のイベントは、それほどヤバい状況ということか。
リリィは突然の俺の発言に驚いていた。
それはそうか、自分の所の執事が突然、身分が上の人間に対して敬語でない言葉を使って話しかけたのだから。
だが、すぐに事態を察知したのか、下を向いて大人しくなる。
と思うと、意を決し顔を上げた。
「わかりました。
本来ならば凄く反対したいことですが、サラ様であるならば理解は出来ます。」
ん?反対?
「リリィはサラ様とお父さんの恋を応援します!
今日はその為にお呼びいただいたのですね!
サラ様、私のお父さんは世界一です!大好きなんです!
でも、サラ様の為に、リリィは身を引きます!」
ストップ!ストップ!
待って待って!ちょっとカメラ止めて!
そうだった、この子は肝心なところ以外ではド天然だった。
慌てて“違う、そうじゃない!”とポーズを決めて訂正するが、何故か頑なに自説を信じ込んでいるリリィを説得するので、小一時間を必要とした。
危なかった。
コーヒーを含んでいたら吹き出す所だった。
「コ、コホン、えーっと、そう、お二人をお呼びした訳、ですわね。」
ようやくリリィが落ち着き、それをニヤニヤと見ていたサラ嬢に厳しい目を向けたところ、ようやく話をする気になったらしい。
「ねぇリリィ、貴女は私が“この世界を一度体験したことがある”と言ったら、信じられるかしら?」
サラ嬢は、どうやらゲームの中の世界とは言わず、追体験の記憶として話すようだ。
まぁ、“お前はゲームのキャラだった”と言うよりかは、理解がしやすいか。
前の世界ではリリィに厳しく当たったこと、これから起きるであろう事件。
そして、その結果迎える自身の破滅。
話し終えたサラ嬢は、穏やかな表情をしていた。
「私は、来年訪れる死から逃れるために必死だった。
でもそれは、本来貴女に訪れるはずだった、幸せの芽を摘んでしまったかも知れないことも事実。
自分が助かりたい一心で貴女に優しくしていたのか、少し解らなくなってしまったの。
だから、だから貴女にだけは全てを話しておきたかった。」
目線をリリィに合わせ、表情が消える。
いつか見た、深い闇の目をしていた。
「貴女が私を慕ってくれたのは凄く嬉しかった。
でも、私の本性はこんなにも醜いのかと、こんなにも意地汚く生き足掻いているのかと思うと、私は、私を許せなくなっていたの。
リリィ、ここまで聞いて、貴女はどう思うかしら?
貴女が慕っていたサラ・ロズノワルという存在は、こんなにも利己的で、貴女の幸せすらも奪うような存在なのよ。」
目を閉じ、腕を組む。
俺からかけるべき言葉は見つからない。
ふと“腕を組むのは、確か無意識の自己防衛のサインだったな”と思い出し、組んだ腕を解く。
相手が心を見せているのに、こちらが身構えてどうする。
心の水鏡を静め、目を開く。
リリィが何も言えないなら、俺から言おう。
そう思いリリィを見、そして安心する。
“この子なら、大丈夫だ”
ただ、リリィの言葉を待った。




