03:ぶりーふぃんぐ
気がつくと、先程の真っ白な地面の世界だった。
「あぁあぁぁ……。」
この空間に来る前の、電車にぶつかった痛みと恐怖が甦ってくる。
自称神様に送り返されたのは、電車にぶつかる直前だった。
一度目と同じように右腕が折れ、右肩が砕け、こめかみが割れた。
最悪なのは、一度目は何が起きたかわからず痛みすら感じなかったが、二度目は“これからどうなるか”をしっかり認識していたため、ぶつかるまでの恐怖と痛みを、しっかりと意識出来てしまっていた。
全身を駆け回る痛みと皮膚から突き出る骨と血肉、車体の下に引っかかり、枕木と砂利にすり下ろされる感覚まで、嫌というほど味あわされた。
「あちゃー、やっぱりこうなっちゃったかー。」
後ろから無邪気な声がする。
胸の内で渦巻く真っ黒い感情に突き動かされるように、即座に振り向くと胸ぐらを掴み上げた。
「テメェ、解っててやったのか?あぁ?」
掴み上げられながら、苦しげな笑顔を浮かべながら、早口で少年は弁明する。
「いや、まだ確定しない未来かなと思っていたんだけどね。
ただ、ぶつかる寸前に運転手と目が合ったでしょ?
あれで、“第三者に観測された世界”として確定しちゃったみたいなんだよね。
だから僕がどんなに貴方を元の世界に送ろうとしても、あの瞬間より前にはもう送れないみたいなんだ。」
言葉の意味を理解し、全身から力が抜ける。
掴み上げていた両手を離し、膝から崩れ落ちる。
そのまま泣いた。
泣くしか出来なかった。
「こうなってしまって申し訳なく思っているよ。
君には特別に、色々と便宜を図らせて貰いたいと思っている。
ただ、今すぐ答えをと言っても気持ちの整理もつかないだろうから、君の記憶にある自宅……は辛いだろうから、同じく記憶にあるビジネスホテルの部屋とかを再現するよ。
そこでゆっくり休んで、それから結論を教えて欲しい。」
目の前で地面から扉が生えた。
“あの扉を開けたら、自宅に帰れたりしないだろうか?”
想像を超えた物凄いことなのだが、混乱や絶望、明日やろうとしていたことなど、ありとあらゆる感情や思いで頭の中がグチャグチャになっていたからか、返って冷静に客観的な視点で、昔アニメで見た“どこにでも行けるドア”を思い出していた。
そんなことを思いだしていたら、気付けばいつしか涙は止まっていた。
ただ、何をする気もおきなかった。
虚ろな目で、自称神様という少年の話を聞いていた。
その表情を見た自分を神様という少年は、罪悪感からだろうか?思い出したように付け足す。
「あぁ、もちろん大丈夫、この空間は時間的な制約は一切受けないから、好きなだけ休むと良いよ。
食事をとってもとらなくても問題ないし、眠っても眠らなくても体に影響は無いから。
あ、もちろん、寝続けたとしても筋肉が劣化することもないよ。
ただ運動すればした分だけ身になるから、理想の体型になってから異世界に行く事も出来る。
とにかく、今の君は自暴自棄になりかかってるから、少し休んだ方が良いよ。」
もう何も考えられなかった。
促されるまま扉を開け、想像通り別空間になっているビジネスホテルの一室の様な部屋で、ベッドに倒れ込んだ。
勿論、翌日の目覚めは最悪だった。
“知らない天井だ……。”みたいなことが言えるくらい能天気であればどれだけよかったか。
死んだこと、白い世界、もう戻れない世界、年老いた親の事、妻の事。
様々な思いが濁流のように、頭の中をかき回していた。
「……風呂でも入るか。」
“形だけ記憶から再現されただけなら、お湯とか出ないのかな?”とも一瞬思ったが、蛇口をひねればお湯が出た。
本当に一瞬だけ“ここは本当にビジネスホテルで、昨日酔っぱらい過ぎて家に帰れず、ここに泊まっただけなんじゃないか”という考えが脳裏をよぎった。
入口のドアを開け、何もない真っ白な地面と地平線が見え、そっとドアを閉じる。
一旦深く考えるのをやめ、体を洗い湯を張って湯船につかる。
ユニットバスはこういうのが面倒なんだよな、と、益体もない事を思いながら湯に体を沈ませる。
湯につかり、ぼんやりとしながら今までの事を整理する。
「取り違えで死んだ。元の世界に戻れるチャンスはある。
しかしリスポーン地点は電車にぶつかる直前。俺は一般人のおっさん。」
……駄目だ、詰んでる。
言葉に出して状況を再確認しても、やっぱり解決方法は見えない。
昔遊んだ配管工のおっさんが主人公のゲームじゃあるまいし、死んだ人間は生き返らない。
運命を取り違えられたというのは納得できないが、世の中にはそれこそ納得できない死をむかえる人達は大勢いる。
俺の親父だって、これから年金暮らしで楽が出来るという歳に病気で死んだ。
兄弟も病気で死んだ。
あまりにも理不尽と言えば理不尽だ。
でもそれが世の中だ。
俺一人が不平不満を言うのも、それは違うかも知れない。
『それでいいのか、意気地無し。最後まで、戦え。』
今の状態を受け入れ、小綺麗に纏まりつつあった俺の思考の中で、死んだ親父の言葉をふと思い出していた。
あれはそうだ、小学生の頃、クラスの悪ガキとケンカして、負けて泣いて帰ってきた日のことだ。
最初は素手で殴り合ってたのに、気が付けば相手は箒の柄を振り回していて、俺の頭に当たって、それで泣いて終わったんだったか。
泣きながら家に帰ってきた俺に、事情を聞いた親父がげんこつと共に浴びせた言葉がそれだった。
いかにも昭和な親父だったなぁ、今じゃ大問題だろうなぁ、と懐かしく思っていた。
だが、お湯を手ですくい顔を洗うと、その通りだと思えてきた。
“俺は、まだ、死んでない”
理屈や道理はわからないが、俺はまだ“死の直前”だ。
その瞬間に戻れるのが、“もう”と“まだ”の決定的な差だ。
ならば、最後まで足掻いて戦わねば、死んだ親父に顔向けが出来ない。
家族を皆失ってしまう母親が、あまりに理不尽だ。
そして一生幸せにすると約束した妻。
ここで妥協して俺だけ異世界とやらで幸せに暮らすのは、それこそ理不尽の極みだ。
他の誰でも無い、俺が許せない。
ぼやけた視界が、急にハッキリとしてきた。
頭のモーターがフル回転し始める。
ゴールをどこに設定するか。
先方の要望をドコまで叶えるか、こちらの技術的要望をどこまで織り込むか。
そこにコストと納期の問題を落とし込めば、なんだ、なんて事ないいつもの仕事じゃねぇか。
俺は風呂から出ると、全裸のままベッド脇の机にむかい、早速<この状況から生きて元の世界に戻る方法>という新しい業務に取りかかっていた。