01:びふぉー
「勢大さん、クライアントとの打ち合わせなんスけどぉ、何か来週の金曜に変更らしいッスよ?」
「は?」
パソコン画面から顔を上げ、こちらに歩いてきた後輩の顔を睨み付ける。
「いやマジですって、課長から伝えといてくれって、今さっきエレベーター前で言われまして。」
椅子の背もたれに体重を預けながら、眼鏡を外して眉間の間を揉む。
眼鏡をかけ直すと、伝えに来た後輩の疲れた笑顔がハッキリと見えた。
「んで、俺が文句言う前に、課長は一足先に逃亡か。」
「そうッス。」
“勢大ちゃん、月曜朝一でクライアントとの打ち合わせ決まったからさ、悪いけど今から資料頼むよ”と、課長が俺に伝えたのが夕方6時。
それから4時間、ようやく自分の案件の資料が終わり、課長案件の資料を作り出した矢先にこの伝言。
一瞬キレ散らかしそうになったが、うちの課だけ全員フルで残業中。
“伝言を伝えに来たコイツに当たっても、まぁ可哀想だわな”と思い直し、俺も疲れた笑顔を浮かべていた。
「伝言ありがとな南魚沼、この通り今手が空いたから、お前の提案資料手伝おうか?」
課長からいつも“困るんだよねぇ、お前は主任でチームのムードメーカーなんだからさぁ~、もっと広い視野で周りを見て、チームを助けて貰わないとさぁ~。”と言われていた。
良いように利用されているようで非常に腹立たしいが、しかし会社としてその職位にいる俺に求められている役割とは、確かにそうなんだろう、と理解はしているので、その通りに行動するようにしていた。
「あ、大丈夫ッス。俺も実はさっき終わりまして。終わってトイレ行った帰りに、鞄持った課長からさっきの話聞かされたんスよ。」
南魚沼の奴は入社から8年目、この部署に来てから4年目くらいになる、中々にベテランだ。
やっぱり時間の使い方やコントロールの仕方は解ってるな、と、俺は一人感心していた。
「あ、そういう事か、了解了解。んじゃ、皆はどうだ?もう深夜残業になっちまうからな、早く終わらそうぜ。」
そう言いながら周りを見渡すと、皆俺の言葉で現実に戻ったのか、“うわもうこんな時間か”とか“げっ”と言った小さな悲鳴が聞こえ、慌てて帰る準備をし出していた。
「勢大さん、俺らこれから飲みに行くんスけど、勢大さんもどうッスか?」
南魚沼のその表情を見れば、“朝までコースで愚痴の言い合い”がしたいんだろうという予想がつく。
「悪ぃ、今日は家で飯食う約束でね。先上がらせてもらうよ。」
俺が断ると南魚沼の奴ははまだ粘ろうとしていたが、同じ主任の秋田君が助け船を出してくれた。
「ほれ、田園さんは奥さんダイスキーなんだから、絡んでないで行くぞ。」
「秋田さん、ダイスキーは余計だよ。」
苦笑しつつ、事務所の施錠をしていく。
この時間まで残業しているのはいつも俺らだから、慣れたものだった。
皆で事務所を出て、一人駅に向かおうとしたときに、後ろから声がかけられた。
「田園主任、今度相談したいことがあるので、次の飲み会は必ず来て下さいね!」
新人で配属された紅一点、山形さんが若い笑顔を向けていた。
「はいはい、こんなおっさんで良ければいつでも相談にのりますからね。まぁ、良い週末を。」
(凶悪な上目遣いと谷間だなぁ)などと馬鹿なことを考えながら、俺は顔には出さずに年相応の笑顔で答える。
「はい!田園主任も良い週末を!また来週、よろしくお願いします。」
俺は手を振ると、そのまま背を向けて歩き出す。
「お前、40越えたおっさんが趣味なのかよ?」
とか
「田園さん奥さんいるんだから、禁断の恋はお父さん許しませんよ!」
などといった仲間の声を遠くに聞きながら、俺は“俺もまだモテるもんだなぁ”と少し浮かれながら歩きだしていた。
……来週が当たり前のように来ると、まだ信じていた。
浮かれた気分で改札を抜け、ホームへの階段を上る。
上る最中に息切れし、少し突き出た腹が目に入る。
(40過ぎの小太りおっさんが、何浮かれてんだか)
急に現実に引き戻された気持ちになった。
よく見てみろよ勢大、こんなみっともない体型のお前が、モテる訳ねぇだろ。
自虐的な考えが浮かぶ。
(また筋トレでもして、体を少し絞るか。大学生の頃は格闘系の部にいたから、すぐに体重は落ちたんだけどなぁ……。)
“自分はまだイケる”などと、心にも無いことをぼんやり考えながら、ホームのいつもの位置で電車を待つ。
この時間は回送も走り出す時間だから、少し待つことも多い。
ぼんやりと景色を見ていた時、いつもは電車が到着するまで閉まっている、転落防止板が開いている事に今更気付いた。
よく見れば、紙に手書きの文字で“故障中”の張り紙がしてある。
文字を読むために近付きすぎていた俺は、来る電車の風圧に巻き込まれでもしたら危ないからと、一歩下がろうとした。
ちょうど回送電車も来ていた。
右手側から侵入してくる回送電車。
下がろうとした俺の背中に触れた何か。
「あ、すいませ……。」
気付かなかったが、いつの間にか後ろに誰かいたのだろう。
謝りながら振り返り、相手の姿を確認しようとした、まさにその瞬間。
その触れた何かに、思い切り突き飛ばされていた。
……そこからのことは、酷く断片的だ。
右手が上がり、空をかく。
逆海老反り、のような姿勢で宙に浮く。
運転手の激しく開いた目と目が合う。
「え?」
今この瞬間には何の意味もなさない、“俺は何で宙を浮いてるんだ?”という疑問が頭に浮かぶ。
次の瞬間には、右手から肩にかけて粉々になって潰れる感触。
右頬に金属の冷たさと堅さ、こめかみで鳴る“グシャリ”と言う音。
痛みすら感じず、どこか他人事のような気持ちで、“あ、ひかれたんだな”と、語彙力の低下した頭で観測していた。
意識を失う直前、今朝送り出してくれた、妻の笑顔を思い出していた。