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あの虹の向こう側へ【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第五章:婚約編
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【十二】インフルエンザ(後編)

 職員室へ戻った俺は、早速拓都の保護者であるあいつに電話をかけた。まだお昼休み中であることを祈りつつ呼び出し音を聞く。「もしもし」と言う声が聞こえて、俺の中の担任スイッチが入った。

「篠崎さん」

「拓都に何かありました?」

「拓都君の熱が高くて、もしかするとインフルエンザかもしれません」

 俺の言葉に一瞬息を呑んだあいつは、「インフルエンザ。今朝は元気だったのに」と呟いた。

「午前中はいつもと変わりないと思ったのですが、給食の時間になって気持ち悪いって赤い顔をして言いに来たので、額に触ってみるととても熱くて。すみません。早く気付かなくて」

「いいえ、私の方こそ、ご迷惑をおかけしてすみません」

「今、拓都君は保健室で寝ています。迎えに来られますか?」

「はい、すぐに行きます」

「それじゃあ、私は午後の授業がありますので、保健室の本郷先生に頼んでおきます。気を付けて来てください」

「わかりました。よろしくお願いします」

 あいつは硬い声のまま電話を切った。内心動揺しているだろう。それでも今は保護者の声だった。

 俺は複雑な心境のまま、大きく息を吐き出し、プライベートに蓋をした。そして給食の途中だったことを思い出し、慌てて教室に戻った。

 子供達はそろそろ給食を食べ終わる頃で、俺も急いで給食を食べる。その後当番と一緒に片付けをし、拓都のランドセルを持って、すぐに保健室へと向かった。


 保健室のドアを開けると、今度は本郷先生一人だった。

「守谷先生、美緒、迎えに来られるって?」

 俺の手に持つランドセルに気付いたのか、本郷先生は俺より先にあいつの名を出した。職場であいつの名を聞くと、ドキリとしてしまう。

「はい、もうすぐ着くと思います」

「そう、じゃあ美緒が来たら拓都君を引き渡したらいいのね」

「はい、もうすぐ午後の授業も始まりますので、宜しくお願いします。ところで拓都はその後どうですか?」

「熱はやっぱり高くてねぇ。ウトウトしていたし静かだから、今は寝ているんじゃないかな」

 その言葉を受けて、俺はそっとカーテンから覗いた。先程よりも赤い顔をしている気がする。目を閉じているがどこか息苦しそうな寝息だ。どうぞ早く治りますよう。そしてあいつに移りませんよう。祈るように俺は心の中でつぶやいていた。

「ねぇ、守谷君」

 背後にいた本郷先生が急に大学の頃の呼び方で名を呼んだ。驚いて振り返ると、腕を組んで立っている彼女は真っ直ぐに俺の目を見た。まるで逃げるなという様に。

 これはプライベートなことだなと少し構えて「何でしょうか?」と尋ねた。本郷さんがプライベートで言うのはあいつのことだ。

 とりあえず拓都に聞こえない場所まで移動する。

「こんな時になんだけど、なかなか話す機会が無いから。スキーで骨折した愛先生の送迎をしているでしょう? 美緒に話した?」

「いえ」

「いろいろ想像して噂する人もいるから、美緒には正直に話しておいた方がいいわよ」

 それは岡本先生のことだろうと心の中で愚痴る。以前から本郷先生には、愛先生との誤解を解くように言われていたけど、岡本先生から直接いろいろ聞かされる彼女は、ちょっと過敏になっているのかもしれない。

「わかっています。タイミングを見て自分から言いますから、本郷先生からは言わないでくださいね」

 これ以上この件について言われたくなくて、とりあえず答えた。

「わかってるわよ」

「いろいろ心配掛けてすみません。拓都のこと、宜しくお願いします」

 保健室を出て廊下を歩きながら、先程言われた件について思案する。今回の送迎の件は教頭先生にも頼まれた公私の公の部分だ。そんなことで今上手くいっているあいつとの仲に、影を落としたくなかった。

 本郷先生にあんな風に答えてしまったけれど、本当に言うことはないだろう。俺はそっと心の中で本郷先生に謝った。



 帰る前に一度、拓都の様子を伺いにあいつの自宅へ行こうと、心の中でスケジュールを組む。しかし今日は、学年会議や委員会の会議が重なり、時間が取れないままいつもの帰宅時間が過ぎようとしていた。

 自宅訪問をしている間、愛先生には学校で待っていてもらっていいだろうか。

 そんなことを頭の片隅で考えながら、届けるプリント類を用意して出かける準備をする。そして、愛先生に待っていてもらうよう告げるために近づいた。

「大原先生、すみません。今日早退した児童の自宅へ行って来たいので、しばらく待って頂けますか?」

「待つのはいいのですが、また学校まで戻って来てもらうのは申し訳ないので、帰り道にその児童の家に寄りましょう。私は車の中で待っていますから」

 愛先生の提案は自分も考えたことだったが、車で待たせることに少し抵抗があった。けれど、いつもの帰る時間より遅くなっている今、やはりそれが一番だと思い直し、俺は愛先生の提案を受け入れることにした。


 夜の帳の下りた住宅街を、俺は静かに車を走らせていた。家々の明かりは冬のせいか厚いカーテンに覆われて、余り漏れてこない。街灯が一定間隔で灯っているため、真っ暗という訳ではないが、店舗の明かりが溢れた商業地のことを思えば、やはり薄暗く寂しい感じがした。

 早退した児童の自宅へ向かって走らせているのではあるが、同僚とは言え女性を助手席に乗せていることに何処か違和感のような、罪悪感のようなざわざわとした気分になる。それは、向かっているのが婚約者であるあいつの家でもあるからだ。

 これは公私の公と自分自身割り切っているつもりだが、何処かにまだやましさがあるのだろうか。

 否、俺の気持ちは揺るぎの無いものだから、やましさなんて関係ない。ましてや罪悪感なんて持つ必要なんか無い。それでも車をあいつの自宅前に停めることに躊躇した俺は、三軒ほど離れた公園の前に車を停めたのだった。

「すみません、少しここで待っていてください」 

 そう言い置いて車を降りる。近所迷惑になると思い車のエンジンを切ったから、暖房も切れてしまった。車内の温まった空気が冷える前に戻らなければと自分に言い聞かせる。たとえあいつに会えるとしても、これは仕事の一環。担任としての訪問だ。

 冬のキンと冷えた空気の中、冷たく光る夜空の星と薄ら笑いを浮かべたような三日月が、俺の揺れる心をひっそりと見つめていた。

「やあ、拓都はどう?」

 玄関のドアが開き、あいつの顔を見た途端、俺は担任の仮面を上手く被れなかったようだ。そして、対応するあいつも、保護者の仮面を被るべきかと悩んでいるような顔をしている。

お互い様かと思ったら、ふっと気が楽になり、俺はぷっと吹き出した。

「美緒、今日は担任として来たけど、緊張しなくてもいいよ」

「あっ、ごめんなさい。寒いから入って」

 あいつに招かれるまま玄関の中に入り、ドアを閉めた。

「それで、拓都はどう? やっぱりインフルエンザだったって聞いたけど」

 本郷先生からインフルエンザの報告を受けていた。

「今、薬飲んで眠っているの。熱は病院で測ったら三十九度二分で、本当にぐったりして可哀想だった。気を付けていたんだけどな」

 あいつの悔やむ表情に何もしてやれない自分がもどかしい。

「子供はどうしても大人より抵抗力が弱いから、流行っている時は、どんなに気を付けていてもうつってしまうのは、仕方ないよ。それより、美緒まで寝込まないように、気をつけろよ」

 今はこんなことしかいえない。それでも頑張っているあいつには、自分を責めて欲しくない。「慧こそ、気を付けてね」とこちらの心配までさせてしまう。

 心配気に見上げるあいつとしばし見つめ合い、気持ちがシンクロしたようでフッと笑いあう。

 何気なくあいつの熱の有無を診ようと、右手を伸ばして額に触れる。大丈夫、熱くない。

「熱は無いみたいだから、大丈夫だな。何か俺にできることがあったら……って、買い物ぐらいしかできないけど、欲しいものがあったら、言ってくれたらいいよ」

「うん、ありがとう。でも、さっき由香里さんが来てくれて、いろいろ買って持って来てくれたから、今のところ大丈夫」

「そっか。美緒の友達は、いい人ばかりだな。類友か」

「いや、そんな……私があまりに頼りないから、皆心配してくれているのよ」

「頼りないからじゃないけど、俺も心配だよ。美緒は一人で無理をするから」

「慧……ごめんね。心配ばかりかけているよね」

「何言っているんだよ。そんなことはお互い様だろ? それに美緒は、良く頑張っていると思うよ」

 以前は人に頼ることが出来ないあいつだったから、自分一人で抱え込んで無理をすることが心配だった。  

「ううん。私は友達や慧に、甘えてばかりだから」

 あいつは拓都との生活の中で、他人と助け合うことを覚えたらしいけれど、あいつにしたらそれも甘えてばかりということになるらしい。それでも、甘えられるようになったと自覚しているのなら良いと思う。

「そんな言葉が出るなら、安心だな」

「えっ?」と首をかしげるあいつに、俺は苦笑した。

「以前の美緒なら、人に甘えることを良しとしなかっただろ?」

「以前は自分のことだけ考えていればよかったから」

 あいつは視線を逸らし恥ずかし気に言い訳をする。

「美緒、分かっているよ。美緒には守るべき存在ができたから、自分一人ではどうしようもない時は周りに甘えてもいいと思うよ。俺にももっと甘えてくれてもいいと思うし。美緒、これからは、二人で拓都を守っていくんだから、お互いに助け合っていこうな」

 あいつの中の自分が拓都を守らなければという気負いや、俺に対する罪悪感に似た遠慮で、あいつ自身がまだ縛られている気がしてもどかしい。

 すっかり担任であることを忘れ、プライベートに没頭し過ぎてしまった俺は、あいつの表情に戸惑いを感じて現実を思い出した。

「あっ、他にも寄らなきゃいけないところがあるから、そろそろ行くよ」

 俺ははっと我に返ると持って来たプリント類を手渡した。ずいぶん時間が経ってしまったんじゃないか。愛先生を待たせていることを思い出し、焦った。

「わざわざ寄ってくれて、ありがとう」

 あいつがプリントを受け取りながら微笑む。その微笑にまた心癒される。

「何か困ったことがあったら、いつでも連絡してくれたらいいから。拓都のこと、頼むな。美緒も気をつけろよ」

 ダメだ。ダメだ。どんどん離れ辛くなる。本当は抱きしめたい気持ちをグッと我慢して、踵を返す。  

「ありがとう」と言いながら見送るために後を付いてこようとしたあいつを、俺は止めた。

「外は寒いから、出てこなくていいよ。暖かくして、美緒も一緒に身体を休めるといいよ」

「うん、わかった。慧も身体に気を付けてね」

 ドアを開けて外へ出て、もう一度振り返る。そして「じゃあ、お大事に」とドアを閉めた。その後、慌てて車へと戻った。


「大原先生、お待たせしてすみません」

 車のドアを開けるなり謝罪する。

「そんなに待っていませんから、大丈夫ですよ」

「でも、冷えてしまったでしょう。本当にすみません」

 先程の熱が徐々に冷めていくと、少々冷静になった。

 これは公私の公と、再び言い聞かせるように自分の中で繰り返すと、気持ちを切り替え、車を発進させた。


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