【十】ずっと一緒
仕事始めの朝、いつもより早く自宅を出て、いつもは通り過ぎる交差点を左折した。そこから五分程走らせると農地を小規模開発した住宅地がある。愛先生の自宅は、そんな住宅地の一角にあった。
昨日連絡した時間よりは少し早いが、家の前で待てば良いだろうと、車を走らせる。目的地に近づくと家の前に立つ人影に気付いた。よく見ると二人いるようだ。向こうもこちらに気付いたようで、笑顔で手を振って合図をされた。
「おはようございます」
二人の前に車を止め、すぐに車を降りて挨拶をすると、二人の挨拶が返って来た。
「守谷先生、朝の忙しい時に迎に寄って頂いて、ありがとうございます。先生のご好意に甘えさせて頂きます。愛をよろしくお願いします」
先日お会いした愛先生の母親が、こちらが恐縮するような言葉と共に深々と頭を下げる。愛先生も「よろしくお願いします」と母親に合わせて頭を下げた。
「いえいえ、どうせ通り道ですから、お気になさらずに。じゃあ、行きましょうか」
行って来ますと告げて運転席に乗り込んでから、愛先生が助手席に乗り込むのを見て骨折していたことを思い出し、何の配慮も無く先に乗り込んでしまったことに慌てて「大丈夫ですか」と声をかけた。
現在乗っている車は兄から譲り受けたワンボックスカー。女性がこの車の助手席に乗るには座席が高いため、少々乗りにくい。ましてや左腕を骨折のために使えない愛先生にとっては、余計に乗り難いだろう。どうしてもっと気が回らないかなと自分で自分に心の中で悪態を吐いた。
「大丈夫ですよ」とニッコリ笑った愛先生は、荷物を先に助手席の足元へ置き、左足をステップに掛けると、右手でアシストグリップを握り、軽々と身体を引き上げた。
その様子を驚きながら見ていると、シートベルトを締めた彼女がこちらを向いて「私、結構鍛えているんです」とまたニッコリと笑ったのだった。
「これはまいった」
「でも、鍛えていると言いながら、骨折していたらダメですけどね」
そう言って苦笑した愛先生は、スキー旅行が決まってから皆に内緒でジムに通っていたことをカミングアウトした。
「それより、母まで出てきてすみません。返って気を遣わせてしまいましたね」
「いえいえ、こちらこそご丁寧に挨拶いただいて、恐縮です」
「いつまで経っても子供だと思われているんですよ」
「親からしたら、何歳になっても子供は子供だと思いますよ」
「守谷先生のご両親もそうですか?」
「まあ、そうですね。お正月に帰らなかったら、今度の連休に帰省命令が出ましたよ」
運転しながら和やかな会話が続いていく。岡本先生が一緒だとすぐに恋愛的な話になるので気疲れするが、特にそんな心配は要らないようだ。
寄り道した割にはいつもより早く学校に着き、いつも一番に学校へ来ている教頭先生と職員室前の廊下で出会ったので、愛先生が改めて怪我の報告をする。授業などは他の先生に補助に入ってもらうが、通勤はどうするのかと聞かれたので「私の通勤の通り道なので、一緒に乗ってもらう予定です」と伝えると、安心したように「それは良かった。守谷先生よろしくお願いします」と、教頭にまでお願いされてしまった。
そうして三学期はスタートした。
単純に通り道だから行き帰りに乗せていくだけと思っていたけれど、出勤の時は良いとして、退勤時間は愛先生のいつも帰る時間に合わせようと思っている。もちろん彼女は俺の方に合わせると申し出てくれた。しかし、独身ゆえの気楽さから、出来るだけ仕事は持ち帰ることなく学校で済まそうと思っている俺は、いつも比較的遅くまで学校にいる方だ。持ち帰れる仕事は持ち帰ることにして、午後七時頃には学校を出るようにしようと心の中で決める。
そうして最初の仕事始めの日は、いつものメンバーで夕食を食べに行ったが、その後俺は、仕事を持ち帰るようになった。そんな訳で次に美緒に電話が出来たのは、週末の土曜日になってからだった。
「美緒、なかなか電話できなくて、ごめんな」
「ううん。私の方こそ、電話かけてもらうの待っているだけで、ごめんね」
「俺の方が時間は不規則なんだから、俺からかけるのは当たり前だろ。気にしなくていいよ」
「うん。ありがとう」
お互いに小まめに連絡を取り合う性格じゃないのは以前の付き合いからわかっていたことだし、今はまだ拓都にオープンに出来ないこともあって、なかなか連絡のタイミングが取れないのも事実だった。しかし、仕事を持ち帰るようになって、いつの間にか時間が経ち電話が出来なかったという言い訳はしたくなかった。
「今、実家へ帰ってきているんだ。お正月帰れなかっただろ? だから」
母親からの帰省命令通り実家へ帰ってきた俺は、まだそのことをあいつに話していなかったことを思い出した。あいつと電話で話している時は、あいつのことで頭が一杯でそれ以外のことは頭から抜け落ちてしまっているようだ。
「えっ? そうなの? 皆さん、お元気だった?」
「ああ。クリスマス帰ったばっかりだから、もう帰らなくてもいいかなって思っていたんだけど、兄さんの所の子供達が、お年玉はまだかってうるさいんだ。帰ったら帰ったで、どうして美緒と拓都を連れて来なかったんだって怒られるし」
夕方頃に実家へ帰り着いた俺は、美緒と拓都を連れて来なかったことを責められた。主に母親と義姉に。
「ええっ! 私と拓都?」
「担任と保護者の間は、拓都にも言わないし、美緒ともプライベートでは会わないつもりなんだって、この前の時に説明したのに、そんな堅いこというなって言われて、姉さんからも美緒と拓都に会いたかったのにって責められて。家族に言うの早まったかなぁ」
家族が受け入れてくれたことは素直に嬉しいが、こんなにうるさいとは思わなかった。
「嬉しい。私と拓都をそんな風に受け入れてもらえるなんて、思ってなかったから」
「そんなこと、当たり前だろ」
まだそんなことを言うのかと、一瞬苛立ちが心を過ぎったけれど、あいつの俺に対する負い目はなかなか消えないのだろうと自分を諌める。
「でも嬉しい。慧、ありがとう」
あいつの素直なお礼の言葉に、こちらも嬉しくなった。
「それよりさ、来週から新学期が始まるけど、拓都はもう冬休みの宿題はしたのか?」
担任のような言葉だけれど、これはもう拓都を家族と見ている父親の発言だ。自分の中で拓都に対する意識が変わってきていることに気付く。
「テキストやプリントはもう終わっているんだけど、日記はやっぱり見せてもらえないから分からないの」
「それは楽しみだな。拓都の日記を読めるのは担任の特権だな」
拓都はいつの間にか母親としてのあいつに日記を見せなくなった。これも成長過程の一環だろうとあいつも俺も受け止めている。しかし、読むことが出来る俺は、あいつに対して少し優越感に浸れるのも事実だった。
「ねぇ、最近も拓都は日記に、やっぱり私のことを書いているの?」
「う-ん、そうだな。友達のことやゲームのことや食べ物のことやいろいろなことを書いてくれるようになったよ。でも時々ママも登場するけどな。公私混同しちゃダメだけど、日記を読んでいると拓都の考え方や感じ方が少しわかって、これから拓都の父親として参考になるよ」
成長していく拓都の日記を担任として読めるよりも、父親として読めることを喜んでいる自分がいる。
「父親!?」
あいつの驚いたリアクションに、そこまで驚くことかと呆れる。結婚の話が出ているのに、父親になるのは当たり前の話じゃないか。
「そうだろ? 美緒が拓都の母親なら、俺は父親だろ? でも、まだ拓都に認めてもらった訳じゃないから、父親候補ってところだけどな」
拓都の父親になる覚悟はもう出来ている。でもこの気持ちはもうしばらく、心の奥に隠しておかなければいけない。
「あ、あのね、話は違うんだけど、前に由香里さん……川北さんが私達のために拓都を預かってくれるっていう話しがあったでしょう?」
「ああ、でも、いいのかな?」
この話は以前にも聞いたけれど、やっぱり拓都を預けてまで会うのは違う気がする。
「うん、やっぱり拓都に後ろめたいまま会うのは違うかなって思って、川北さんに断ったの。彼女も分かってくれて、拓都に認めてもらってからの方が悩まなくてもいいねって言ってくれて。ごめんね、勝手に断って」
あいつの言葉を聞いて、断ってくれたことに俺はホッとした。
「気にすること無いよ。俺も同じように思っていたから。美緒には会いたいけど、拓都にはきちんと認めてほしいからな。前にも言ったけど、俺達が離れていた三年間を思ったら三ヶ月なんてすぐだよ。それに、三ヶ月経ったら、それからはずっと一緒だから」
そう、ずっと一緒。
自分で言っておきながら、その言葉に喜びがこみ上げる。
「そうだね。楽しみに待っている」
あいつの声にも嬉しさがにじんでいる。そんな声を聞いて、今度こそ必ず実現させると心に誓った。
*****
「綾瀬、おめでとう」
「ああ、ありがとう」
美緒に電話をした翌日の日曜日の夜、俺は約束どおり綾瀬と居酒屋で落ち合った。開口一番に言ったのは年明け最初の挨拶のつもりだったけれど、どうやら綾瀬は結婚のことで頭が一杯らしい。
綾瀬の返事に思わず笑うと、彼は首を傾げた。
「明けましてのおめでとうだよ」
「あっ、ごめん。結婚の話がすぐに皆に広がって、おめでとうラッシュだったからさ」
そう言いながら照れる綾瀬は、やはり幸せそうだ。
「あらためて、婚約おめでとう」
「あ、あ、ありがとう」
「それで、結婚はいつするんだ?」
「結婚式は十月だよ」
「随分先だな」
「真央が希望する結婚式場は人気があって、そのぐらい先じゃないと空いていないらしいし、それが普通らしいよ」
「そうなのか」
まだ結婚式のことまでは考えていなかったけど、俺の中では拓都が受け入れてくれたら、すぐにでも入籍したいと思っている。
「それより、守谷の方はどうなんだ? いきなり結婚とか、話進みすぎだろ」
こちらへ身を乗り出すようにして、問いかける綾瀬がニヤリと笑う。
そうして俺はまだ話していなかったクリスマスプロポーズ作戦のことの始まりから、顛末まで詳しく説明させられた。
「なんだか運命を感じるな」
全てを聞き終わった綾瀬の感想がこれだった。
「俺もそう思う」
「ああ、守谷のおふくろさんお得意の『運命の人』ってやつか」
「そういう綾瀬だって皆川が『運命の人』だろ?」
「俺の場合は、母親達の作為的なものを感じるんだが」
「何言っているんだよ。あれだけ別れるだのと騒いではくっ付いてを繰り返していたお前達が結婚するんだから、『運命の人』に決まっているさ」
「まあ、このまま無事に結婚式までたどり着けたらな」
「そんなこと言っていると、皆川に愛想つかされるぞ」
相変わらずの綾瀬の言葉に、照れているだけだと分かっていても釘を刺す。幸せに油断することがトラウマになっているのかもしれない。
「大丈夫。俺は真央の『運命の人』だから」
しれっとそんなことを言う綾瀬は、俺と目が合うとニヤリと笑った。
「はい、はい、ごちそうさま」
俺は苦笑しながら、この二人のなんだかんだと言いながらも揺ぎ無い絆があることに、羨ましさを感じていた。




