【二】会えない現実
今年のクリスマスは土曜日だったので、今夜は実家に泊まることにした。まだ俺の部屋も残してくれてあるので、夕食後自室へと向かった。
家族の反応に気を良くしていた俺は、早速あいつにメールをしようと携帯を開いた。そしてクリスマスイブの夜に届いたあいつからのメールに、返信せずにいたことに気付いた。本当はもう今更だけれど、もう一度そのメールを見て、返信せずにいられなくなった。
『この虹は、消えること無く二人を繋いでいるよ。これからもずっと』
ずっと消せずに、未練たらしく待ち受けにして残しておいたあいつからの虹の写真を添付して、返信をする。ちょっとキザっぽかっただろうかと一人苦笑した。
メールの続きに『午後十時に電話するから、それまでに拓都を寝かせておいて』と付け加えておいたら、『拓都はもう寝たよ』とすぐにメールが返って来た。
「美緒、今電話していてもいい?」
メールの返事を見てすぐに電話をかけた俺は、余程待ちきれなかったのだろう。そして、電話越しの美緒の声にまた今朝のことを思い出し、顔が緩む。
「うん。メール、ありがとう」
「ああ、昨夜、メールの返事、すぐに返さなくてごめんな。どうしても直接言いたかったから」
「うん。わかっている」
再会してから電話で話す時はいつも担任と保護者の関係だったから、再びの恋人同士としての電話越しの会話は、妙に照れた。
「美緒、今日は何していたんだ?」
「拓都とおにぎり持って芝生公園へ行って、キャッチボールやアスレチックして来たの」
「いいなぁ。俺も拓都とキャッチボールしたいよ。拓都をいろんな所へ連れて行ってやりたいんだ。山登りやキャンプやスキーとか」
「フフフ、慧は根っからアウトドアなんだね。きっと拓都も喜ぶと思う」
三人でキャンプやスキーに行くことを想像するだけでワクワクしてくる。そんな未来を現実のものとして想像できる幸せをかみ締めた。
「なぁ、拓都は俺を受け入れてくれるかな?」
ふと、今日父親に言われたことを思い出し、不安な気持ちがこぼれた。俺は、父親になる覚悟はあるつもりだ。けれど、拓都はどうだろう?
「大丈夫。拓都は守谷先生が大好きだもの」
「でも、先生としては好きでも、父親として、家族として、受け入れてくれるかなってことだよ」
「拓都は本当の父親の記憶が殆ど無いの。だから、拓都にとって身近な大人の男の人って、慧なのよ。入学した頃は、毎日うるさい位、守谷先生の話を聞かされたわ。それに今だって、私には見せない日記の作文を、慧だけには見せているでしょ? それは先生だからというより、女の私からでは与えきれなかった物を、慧に求めているような気がするの。拓都の心の中では、ある意味、慧は父親に近い存在なんだと思う」
拓都の母親として過ごして来た美緒の言葉は、実感がこもっていて嬉しくもあり、重いものでもあった。拓都が求めるものを、俺はきちんと返してやれるのだろうか。
そんな逡巡を悟られたくなくて、おどけた様に突っ込んでみた。
「美緒は拓都がする俺の話を、うるさいって思っていたんだ」
「それは、そのくらい沢山話していたっていうことで……」
「ははは、わかっているよ。でも、拓都がそんな風に俺のことを感じてくれているのなら、嬉しいけどな。実は今、実家にいるんだ」
「えっ? あれから実家へ帰ったの?」
「ああ、美緒のこと、ずっと心配かけていた兄さんや義姉ねえさんに伝えたかったし、両親にも話したんだよ。美緒と結婚したいって」
俺の言葉に美緒が息を呑んだのがわかった。実家の家族に結婚のことを話すのは、ちょっと気が早かっただろうか?
「もう、ご両親にまで話したの? それで、反対されなかった?」
反対って、美緒はそんな心配をしているのか? 拓都がいるせいか? 俺の両親を見くびるなよ。
「息子の決めたことに反対するような人達じゃないよ。ただ、釘は刺されたけどな。拓都のこと、自分の子供として、自分の本当の子供と分け隔てなく育てていく覚悟はあるのかって、そうじゃないと賛成しかねるとまで言われたよ」
俺は父親に言われたことを正直に話した。俺たち二人のせいで振り回される拓都のことを、一番に心配してくれた父の気持ちが嬉しかった。そのことを美緒にも知ってほしかった。
「そ、それで、慧は何と答えたの?」
美緒の声がうわずっている。彼女にとって拓都のことが一番心配で不安なのだろう。けれど、そんな不安や心配は無駄なだけだと分かってほしい。
「そんなのとっくに覚悟できているに決まっているだろ。だから、親父達も喜んでくれて、今度は拓都のことを思ったら、早く結婚した方が良いって」
話している途中で、美緒の鼻水をすする音が聞こえた。ばか、また泣いているのか。
「美緒?」
今朝も散々泣いていた美緒の息を殺して泣く様子を想像して、俺まで胸が苦しくなる。彼女はきっと自分から別れを告げた罪悪感が根底にあるから、そのままを受け入れられることに申し訳なく思うのだろう。
俺の呼びかけに小さく「ごめんね」という声が返ってきた。
「ごめん。なんだか今日は泣いてばかりで。もう、慧のせいなんだからね」
気持ちを立て直して、冗談めかして八つ当たりのように言う美緒は、強がることで自分の気持ちを押し込める。そんな彼女の性格は良く分かっているんだ。
「馬鹿だな。あんまり泣くと、目が溶けるぞ。それに拓都も心配するだろ」
「拓都の前では泣かないようにしているから」
「あんがい拓都は目ざといから、美緒の目が赤かったりすると気付くぞ。大好きなママだしな」
「そうだね。でも、もう寝たから、大丈夫だよ。だけど、もうあんまり泣かせないで、今日はいろいろあり過ぎて、信じられなくて、気持ちがついていけない感じなの」
美緒も同じなんだ。まだどこかこの現実が夢なんじゃないかと不安で、本当に信じていいのかと疑ってしまう。
「俺も同じだよ。こんなこと、夢みたいなんだ。だから余計に現実にしようと思って焦っているのかもな。美緒に相談もせずに先走ったこと、悪かったって思っている。でも、誰かに言わずにいられなかったんだ。美緒、本当に良いいんだよな?」
いつも強がっている美緒が、急に不安そうなことを言うから、俺まで不安になって何度でも確かめずにはいられなくなる。
「慧、慧こそ、いいの? 私なんかで。あなたに酷いことをして、苦しめてきたのに……」
やはり、あいつは罪悪感で苦しんでいるんだ。どうすれば、美緒を楽にさせてやれる? 俺の苦しみなんて、今朝全て吹き飛んでしまったのに。
「美緒、そのことはもう言わない約束だろ。とにかく、ウチの家族はみんな賛成して応援してくれているから、美緒は何も心配しなくていいよ」
今は出来るだけ明るい声で、少しでも不安や罪悪感が薄れるよう祈るような気持ちで言葉を返す。
もう俺たちの間には溝も壁もないはずだから。
「今日の朝、俺の今までの苦しみも悲しみもきれいさっぱり消えてなくなったから、もう酷いことしたなんて思わなくてもいいから。今度謝ったら、怒るからな」
俺の冗談めかした言葉に、うんうんと返事だけ返す美緒は、今頃必死で涙を拭いているのだろう。そして鼻声で小さく「ありがとう」とやけに素直にお礼を言うから、思わず俺は笑ってしまったんだ。
*****
翌日、お昼過ぎまで実家でゆっくりしてから、現在の自分の住まいまで帰って来た。今回の帰省で、俺たちの結婚の問題点を具体的に考えられるようになって良かったと思う。
拓都の現状を出来るだけ変えないこと。これが一番優先させることであり、ブレてはいけない。まずは、担任として今年度を無事に勤め上げることに全力を尽くそう。浮かれて仕事が疎かになったなんて思われたくない。特に保護者であるあいつには。
それでも夜になると、あいつの声が聞きたくなって、時計を見ながら、もう電話をしてもいいだろうかとソワソワしている自分が可笑しくなる。あいつの声を聞いて、これが現実なんだと確認したくなる。
昨夜のようにメールで確認してから電話をかけた。昨夜よりは落ち着いた美緒の声に安堵する。たわいもない今日の出来事を報告し合い、年末年始の話題となった。
「年末年始は実家へ帰るんでしょう?」
美緒のそんな問い掛けに、俺はハッとして思い出した。昨日からすっかり恋愛モードになっていた頭は、現実の予定などすっかり忘れ去っていた。
「そう言えば、三十日の夜から一月二日まで、スキーに行くんだ。だから今回は帰省しないつもり」
「そっか、スキーに行くんだ」
美緒の寂しそうな声に、申し訳なくなる。
「本当なら、お正月は一緒に過ごしたいけど、今は会えないから、ごめんな。来年は一緒にスキーに行こうな」
今は会えないこと、お互いに分かっていても寂しくなる。でも、目の前の休日より、未来の約束が大事だから。
「うん、楽しみにしている」
一人で耐える寂しさを思えば、二人なら耐えることも後の楽しみが倍増する。
「美緒、電話するよ。スキーの時は他の先生も一緒だから、夜電話できるかどうか分からないけど、できるだけするようにするよ」
会えなくても声は聞ける。それだけで今は耐えられる。
*****
翌日の十二月二十七日月曜日、俺は気持ちも新たに職場である虹ヶ丘小学校へ出勤した。駐車場に車を停めると、離れた所に停まっていた車から誰かが降りてきたようだ。「おはようございます」の声に視線を向けると、本郷先生だった。
「おはようございます」
挨拶を返している間に、本郷先生は意味深な笑顔でどんどん近づいてきた。
「守谷先生、おめでとう。行動早かったね」
その言葉でクリスマスの朝の出来事は全て知られていることが分かった。にやけそうになるのを抑えながら、「ありがとうございます。本郷先生のお陰です」と頭を下げた。
「ふふふ、私もやっと肩の荷が下りたわ。でも、プロポーズまでしたんだって? ホント相変わらずせっかちだね」
ああ、そんなことまで知られているのか。益々頭が上がらないと思いながら、「もう離れ離れになるのは勘弁願いたいですから」と肩をすぼめながら答える。
「でも、噂には気をつけてね。担任と保護者ってだけでも噂のネタになるんだから。ましてや人気の守谷先生の結婚となれば………。わかるでしょ?」
本郷先生も他の先生から過去のことを色々聞いているのだろう。でも俺もそれなりの対策は考えているさ。
「わかっていますよ。でも今年度が終わるまではオフレコでお願いします」
「それはもちろんよ。でも、いっそのこと、結婚と同時に校区外へ引越しすればいいと思うのよ」
「それは今のところ、考えていません」
まだあいつとも話し合っていないことを、お世話になった先輩とは言え、自分の考えまで話そうとは思わなかった。
「そう……。まあ、二人でよく話し合ってね」
「そうします」
これで話は終わりだと思って歩き出そうとしたら、「それから……」と本郷先生はまだ何か言い足りなさそうに言葉を続けた。
「やっぱり愛先生のこと、早急に皆の誤解を解いた方が良いんじゃないの?」
すっかり幸せに浸りきっていた俺は、一番厄介な現実から眼を背けていたことをずばり指摘され、返答に窮した。誤解を解くアイデアを一つも思いつけず「分かってはいるんですが……」と言葉を濁す。
「まあ、美緒に誤解されないように気をつけてね」
本郷先生はそれだけ言うと、さっさと学校の中に入っていった。




