【四】投書事件のその後
事態は急速に動き出した。
運動会の振替休日の翌日の火曜日、校長に「どうして守谷先生を処分しないのか」と抗議の電話があった。
事前に校長と教頭には西森さんから聞いた話を伝えてあったので、校長が「藤川さんですか?」と聞くと、相手は慌てて電話を切ったそうだ。その抗議の途中で「私だけが引っ越しさせられて」とか「証拠の写真があるのに」とかいう言葉もあったらしく、やはり電話をかけてきたのは藤川さんで、夏休み前の投書も藤川さんだったのだろうと意見がまとまった。
ここまで恨まれる様なことを俺はしてしまったのだろうか?
「守谷先生、気に病むこと無いですよ。藤川さんはおそらく病気なんだと思います。ご主人に連絡を取って話をしてみますので、あなたは今までどおりにしていてください」
俺の落ち込んだ様子を心配して、教頭が優しく声をかけてくれ、校長もそれに同意するように頷いてくれた。
少し救われたような気持ちになって「宜しくお願いします」と頭を下げると、校長が「イケメン過ぎるのも罪なことだねぇ」と言ってハハハと笑った。
俺の気持ちを紛らわすためとは言え、校長それはお気楽過ぎる発言じゃないですかと、心の中で突っ込みながら苦笑するしかなかった。
その日の内に教頭が藤川さんのご主人に連絡を取ると、驚いたようだったが奥さんと話をしてもう一度連絡をくれることとなった。
ご主人の話によると、六月頃から少しずつ言動がおかしくなり、転校先で徐々に馴染んできつつあった子供に影響を及ぼし始めたので、しばらく実家へ帰し病院へ行くように勧めたそうだ。子供はご主人の母親が来て世話をしていたらしく、まだ奥さんは実家の方にいるとのことだった。
その週の土曜日、藤川さんのご主人が来校されるため、俺も学校へ行くことになった。藤川さんのご主人は落ち着いた様子で、校長、教頭、学年主任の長嶋先生そして俺と会議室で向き合った。
「この度は大変ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
藤川さんのご主人は、向き合うとすぐに謝罪の言葉を言って頭を下げた。そして、去年のことから今回のことにかけて説明し始めた。
恥ずかしいことですが、と前置きした藤川さんのご主人は、「元々は私が仕事仕事で忙しく、家庭のことや子育てを妻にまかせっきりで、向き合っていなかったせいなんだと思います」と話しだした。
奥さんである藤川さんは正社員で働いていたことと、小学校に慣れて楽しそうにしている息子を転校させるのが忍びなく、ご主人に単身赴任してもらったそうだ。しかし、二年生の終わり頃から始まった友樹君の不登校に悩み、夫には息子は甘えているだけだと切り捨てられ、仕事を辞めて子供のことにかかりきりになったらしい。
そんな時に新たに担任になった俺が親身に話を聞き、『お母さん、友樹君が又学校へ楽しく行けるように、一緒にがんばりましょう』と励ましたのが、頼る人の無かった彼女を誤解と思い込みへと走らせたのかもしれない。それでも去年の旦那怒鳴り込み事件の後、単身赴任のご主人の元へ子供と共に引っ越し、ご主人も子供の不登校に真剣に向き合っていくと約束してくれたので、解決したと安心していたんだ。
転校した先では良い先生や友達にも恵まれ、また、ご主人も不登校に対する認識を改め、夫婦協力して息子に向かい合ったことで友樹君は少しずつ学校にも慣れ、友達も出来、四年生になると笑顔で学校へ行ける様にまでなったそうだ。
しかし、友樹君の笑顔が増えるのと反比例するように、奥さんである藤川さんの笑顔が減り、異常な行動が現れ出したらしい。本来なら息子の笑顔が戻って喜ぶべきことなのに、些細なことも大袈裟に騒ぎ学校を休ませようとしたり、息子を追い詰めたりして、息子を不安にさせる様な行動を始めた奥さん。
息子が学校へ行けるようになり、安心して再び仕事に励んでいた藤川さんのご主人は、奥さんの異常さに気付き怒ると『あなたは何も分かってくれない。守谷先生なら私の気持ちを分かってくれたのに』と言い出し喧嘩になり、益々おかしな言動を続けるので奥さんの両親にお願いしてしばらく実家へ帰ることになったらしい。
「教頭先生から電話を頂いた時はとても驚きました。正直、妻がどうしてそんなことをしたのかと腹も立ちました。けれど、妻が実家へ帰る前に喧嘩した時のように怒って責めるのではダメだと、息子の不登校に向き合った時のことを思い出し、職場に無理を言って有給休暇を取り、妻とじっくり話し合いました。それから、二人でカウンセリングも受けてきました」
去年の怒鳴り込んで来た人とは思えないほどの落ち着いた藤川さんの余裕は、奥さんとじっくり話し合ったからなのだろうか。
奥さんは最初、今回のことは知らないと言い張ったらしいが、だんだんとヒステリックになり、その内奥さんが自分の中に隠していた本音が飛び出したらしい。
仕事が忙しいと単身赴任先からの帰宅が減少したことで、奥さんはご主人の浮気を疑っていたそうだ。その上、息子の不登校の悩みにも親身になってくれなかったことで、夫の気持ちが離れてしまったと思い込み不安な日々の中、去年のあの事件が起こったのだった。そして、ご主人の赴任先へ引っ越し、夫婦で協力して息子の不登校に向き合い解決し、奥さんも子供も明るく元気になった。
しかし、息子は学校に、ご主人は仕事にと向かい、仕事を辞め友人のいた地元を離れた奥さんにとって打ち込む物の無くなった寂しさがやがて、息子がまた不登校になればもう一度夫がこちらを向いてくれると思い込んでしまったのだそうだ。
「妻は守谷先生と保護者の方が一緒にいるのを見て、私と重なったそうです。そこから先は怒りにまかせて行動したらしく、本人も良く思いだせないらしくて……。ただその後、自分は皆に責められて引っ越しまでしてこんなに孤独なのにと、全て守谷先生のせいだと思い込んだらしくて……。本当に思い込みが激しくて、守谷先生には大変ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
藤川さんのご主人の話を聞きながら、俺は悲しい気持ちになった。愛する人と結ばれても尚、ちょっとした隙間に不安が忍び込み、その不安に心が押しつぶされてしまうのか。
もしかしたら別れる前のあいつは、心に隙間が出来て、そこにあいつを想う同僚の存在が入り込んだのだろうか? その隙間は、俺が実家へ帰っていたことで出来てしまったのだろうか?
今更なことを思い出した俺は、自分に呆れ心の中で苦笑する。
それから藤川さんのご主人は、今回のことを機会に奥さんしっかりと向き合い、夫婦そして家族としての絆を深めていきたいと、謝罪と共にすっきりとした表情で話した。
結婚していても心のすれ違いが起こる現実を目の当たりにして、俺は未婚の恋人同士なら仕方のなかったことなのだと自分を慰めた。
それにしても、銀婚式も過ぎた両親の仲の良さは奇跡に近いのかもしれない。運命の人だからといつも嬉しそうに話していた母親を、大げさだなと思いながら聞いていた子供時代。そして、美緒と付き合うようになって、二人でいることにいつも心が満たされ、これが運命の人だと確信していた三年半前。
俺はいつか、本当の運命の人に出会うことが出来るのだろうか。
*****
「守谷先生、解決して良かったわね」
藤川さんのご主人を見送った後、俺の肩をポンと叩いて長嶋先生がニッコリと笑った。俺は校門から出ていく車を目で追いながら、運命の人なんて思い込みに過ぎないんじゃないかと、さっきからずっと物思いに耽っていた。
長嶋先生の言葉に我に返り、俺が気の抜けた「はあ」という返事をすると、長嶋先生は「守谷先生は夫婦の問題に巻き込まれた様なものだものね」と苦笑した。
「でも、友樹君が再び学校へ行けるようになって、本当に良かったわ」
長嶋先生は藤川友樹君の一年の時の担任だったらしく、心から安堵したように言った。
「そうですね。それが一番良かったです」
「藤川さんご夫婦も、子供のために心一つになれたから、これからも大丈夫よ。やっぱり子はかすがいよねぇ」
こんな風に話す長嶋先生には、大学生と高校生の子供がいるらしい。
「なんだか実感がこもっていますね」
俺はクスリと笑った。
「そうよぉ。どの夫婦にも色々あるのよ。でも、子供がいてくれたから頑張れたわねぇ。まあ、独身の守谷先生には良く分からないかもしれないけど」
「そうですね。でも、子供の可愛さはわかりますよ。甥と姪がいるので。実家へ帰るとずっと一緒に遊んでいますよ」
「あら、守谷先生は叔父さんなのね。お姉さんの子供?」
「いえ、兄の子供です」
「そう……、そう言えば、守谷先生のクラスの役員をしている篠崎さんのお子さんって、お姉さんの子供なんですってねぇ。独身なのに亡くなったお姉さん夫婦の子供を引き取って育てている上に、役員までしてくださって、本当に偉いわよねぇ」
えっ? お姉さんの子供?
「そ、それは、どういうことですか?」
意味が分からなかった。驚いて問い返した俺の様子に、長嶋先生も「えっ? 知らなかったの?」と驚いた。
「たまたま私の知り合いに、篠崎さんのご近所さんがいて、私が今一年の担任をしていると言ったら、近所の子供も一年生で、亡くなったお姉さん夫婦の代わりに妹さんが一生懸命育てていると、とても感心して話していたから。てっきり守谷先生のクラスだからご存じだと思っていたんだけど……」
長嶋先生の説明を聞いても、頭が混乱するばかりだ。
だいたい、あいつのお姉さん夫婦は海外にいるんじゃなかったのか? もう、こちらに帰って来ていたのか? 亡くなったって……、どういうことなんだ。
「篠崎さんからは何も聞いていません。それに、篠崎さんは拓都の母親だと調査票には書かれていました」
「そう。篠崎さんは母と子として過ごされているのね。学校へ報告しないということは、知られたくないのかもしれないわね。このことは口外しない、篠崎さん本人にも言わない方が良いわね」
長嶋先生はそう言うと、表情を引き締めた。最近は特に個人情報の扱いは慎重だ。本人からの申し出のないことは詮索しないというのが暗黙のルールになっている。
俺は訳も分からず混乱したまま、ただ長嶋先生の言葉に頷くしかなかった。




