【二】二学期の始まり
「慧、ごめんなさい。私、好きな人ができて……」
「美緒」
「今までありがとう」
「美緒、美緒……」
去っていくあいつに何度も呼びかける。
どうして追いかけられないんだ。身体が思うように動かない。
その時、誰かが俺の名を呼んだ。身体が揺さぶられ、頭が覚醒していく。ゆっくりとまぶたを上げると、白い靄の中にあいつのシルエット。
「美緒!」
思わず俺は肩に置かれた手を掴む。
美緒、行かないでくれ。
そんなにそいつが良いのか?
「守谷先生?」
再び名前を呼ばれ、今度はしっかりと覚醒した。数回瞬きをすると視界がクリアになり、俺に手を掴まれ困惑顔で立っているのは、愛先生だった。
「あ、悪い」
俺は慌ててその手を離す。
「寝ぼけていたみたいで、すみません」
俺が謝ると、彼女はやっとホッとした表情を見せた。
「いえ、ちょっと驚きました。珍しくずいぶん飲んでいたみたいだけど、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫です。本当にすみません」
俺はもう一度頭を下げた。
昼間転校生の保護者から聞いた話のせいで、モヤモヤする気分を吹き飛ばしたくて、広瀬先生に飲みに行きましょうと誘いかけたら、いつの間にかメンバー全員に話が広まっていた。
皆車通勤なので、ジャンケンで負けた谷崎先生がハンドルキーパーということになり、車を小学校へ置いて谷崎先生の車でいつも行く全国チェーンの居酒屋へと向かった。今夜は広瀬先生の自宅に泊らせてもらう予定だ。そして、女性達は車で帰りたいからと、食べることに専念するらしい。
本当は男達だけで飲みたかった。今の俺には女性に対する気遣いができそうにないと思ったからだ。特に岡本先生の愛先生と俺をくっつけようとするお節介が、鬱陶しかった。俺はさりげなく広瀬先生の隣に座る。広瀬先生は何かを感じたと思うけれど、その時は何も言わなかった。
いつもよりはるかに飲み過ぎた俺は、ここの所の寝不足も手伝って机にうつぶせて寝てしまったようだ。それで、帰ることとなった時に愛先生が俺を起こしに来てくれたらしい。おそらく岡本先生あたりが、愛先生に起こしてあげてとか言ったのだろう。
俺が起こされて寝ぼけていた時、他の先生達は入り口付近のレジの辺りにいたので、俺達のやり取りを聞いていた者はいなかった。
あいつが去っていく夢は、もう何度目だろう。
あいつと間違えるなんて。
俺は自己嫌悪ですっかり酔いもさめてしまった。
*****
二学期が始まった。
転校生は拓都がいるお陰で、すぐにこの小学校に馴染んだようだった。馴染めずにいるのは、あの日聞いた転校生の母親の言葉だ。
『母子家庭同士でお互い苦労したから、いろいろ助けあって来た友人なんです』
母子家庭というのは、母と子だけの家庭ということだ。じゃあ、拓都の父親は?
どうして自分の子でも無い拓都と、親子として暮らしているんだ?
どうして、ママって呼ばせているんだ?
頭の中にどんどんと湧いてくる疑問を解決する術もなく、俺はただ困惑する。
もしかして、子供のいる人と結婚して相手が亡くなったのだろうかと、あまり想像したくない結論しか浮かばない。
結婚して、すぐに相手が亡くなって……。もしもそんなことなら、どんなにショックだっただろう。
その上、たった一人で子供を育てて苦労して。
それなら、俺が……。
そんなこと考えた自分に驚いた。
俺がって、どうするつもりなんだよ、と自分にツッコミを入れてみる。
あいつにそんな辛い出来事があったのだろうか?
再会してからのあいつから、そんな暗い影は見受けられない。
けれどたとえ担任だとしても、きっと俺には真実を話しはしないだろう。
俺は大きく溜息を吐くと、あいつのことを頭の奥の引出しに丁寧にしまい込んだ。
二学期が始まってすぐに運動会の練習が始まった。中でも大変なのがダンスだ。一年の担任の中の女性教諭達が選んだアイドルグループのヒット曲に合わせて踊るダンス。
夏休みの間に何度も練習して一応子供達に教えられるレベルになったけれど、自宅で鏡の前で練習していて、我に返った時恥ずかしくなった。それでも子供達はとても楽しそうだし、運動会の練習や準備の忙しさのお陰で、嫌なことを考えずに済むのはありがたかった。
そんな中とても驚いたのは、愛先生がバッサリと髪を切ったことだ。ちょっとした気分転換と言っていたが、そのショートヘアーが今のあいつに似ているように見えて、俺はまた驚きと共に少しショックだった。
二学期になってから、子供達に新たな宿題を出すようになった。自分の思ったことを文章にする練習のために、「せんせい、あのね」で始まる担任に話しかけるように書く日記のような作文だ。これが思いの他楽しくて、俺にとって癒しとなっている。殆どが親の指導の元書いていると思われるが、それでも子供の視点で書かれているのが微笑ましい。
お母さんのお手伝いをした話や、お祖父ちゃんお祖母ちゃんに玩具を買ってもらって嬉しかった話、兄弟げんかをして怒られた話、友達とゲームをして楽しかった話等々、つたない表現で書かれた文章の向こうにその子供達の笑顔が見えるような気がした。
普段学校では拓都のことを特に意識することはない。しかし、拓都の「せんせい、あのね」を読むたび、登場するママという単語の向こうにあいつを意識してしまう。
最初の二回は一ページにも満たない程のたわい無い内容だったけれど、三回目から急にページ数が増えた。それも、宿題のための作文ノートを返却する金曜日から土曜日、日曜日と三日分の日記が書かれている。
『せんせい、あのね、きょうのあさママがねぼうをしたよ。あさごはんのよういができないから、ぼくはごはんにふりかけをかけてたべたんだ。おいしかったよ。
ママはおにぎりをつくって車のなかでたべるといったけど、うんてんするのにたべられるのかなとおもったよ。』
これは金曜日の分らしい。俺は読んだ後、耐えきれずにプッと吹き出した。そして慌てて周りを見回した。
「守谷先生、どうされたんですか?」
隣の席の学年主任がニコニコと首をかしげた。
「いえ、ちょっと『せんせい、あのね』が面白かったので」
「ああ、私もいつも楽しんで読んでいるの。子供達の感じ方って意外性があって面白いわね」
学年主任の長嶋先生の言葉に、自分の仕事をしながら耳を傾けていたであろう一年の担任達が、ニコニコとこちらを見た。きっとみんな同じ思いなのだろう。
それにしても、拓都のこの作文はあいつの指導のもとに書かれたものだろうか?
普通なら寝坊したことなんて書かれたくないよな。
『せんせい、あのね、きょうはりくくんとしょうやくんとあそんだよ。りくくんのおにいちゃんとしょうやくんのおにいちゃんとママたちもいっしょに、しばふこうえんへいったよ。みんなでおべんとうをたべたよ。』
土曜日には西森さん親子と転校してきた川北さん親子と一緒に遊んだようだ。脳裏に又転校生の母親を思い出し、あの時の言葉が蘇りだして俺は慌てて日記の続きに目を落とした。
拓都はその日夕方まで遊んだ様子を素直な文章で書いている。楽しかった様子がその文字の向こうから窺える。
そして日曜日にはママと図書館へ行って本を五冊借りて来たことが書かれていた。その後、借りてきた本をママに読んでもらって嬉しかったと文字が続いている。
読み終えた俺は、あいつと拓都の休日を覗いてしまった様な感覚に陥り、また胸がキュッと締め付けられた。そんな自分をいちいちあいつのことで心をかき乱されてどうするんだと叱咤した後、周りに気付かれぬよう小さく息を吐き出した。




