【七】自己嫌悪と決意
何やってんだよ、俺。
あの家庭訪問を思い出すたび、自己嫌悪に陥る。
あいつは自分のクラスの保護者で、人妻で。
人妻であるあいつに、こんな感情を持つことは許されない。
あまりに長くあいつに囚われて来たから、自分でももうこの感情が想いなのか恨みなのか、よく分からないんだ。
いや、恨んでしまえたら、良かったのにと思う。
恨んで、憎んで、別の誰かの優しさに縋れたら、よかったのに。もっと早く。
そうしたらきっと、再会しても今ほど動揺しなかっただろうに。
今更だよな。
それならいっそ、まったく初めて出会った人間同士として接して、担任と保護者という距離感でこの一年をやり過ごせば……。そして、その後は違う学校へでも転任してしまえば、もう二度とあいつの人生とは交わることは無いだろう。
俺だって、新しい恋ぐらいできるし、別に結婚を諦めた訳じゃないんだ。
余りに長くここに立ち止まり過ぎただけで、新たな道へ進むことぐらい簡単なことだから。
あいつのことなんて、さっさと忘れてやる。
そんなことを考えていた五月下旬、俺は再び愛先生からバスケの試合観戦に誘われた。
俺の反応を窺うような眼差しで、彼女は誘いの言葉を口にした。
前回の色々な誤解が、彼女にそんな態度をさせているのか。
それでも俺は、思わず『皆も行くの?』と聞きそうになった。それを思いとどまったのは、皆を誘っても、きっと気を利かせて二人で行って来いって言うだろうなという予感があったから。
愛先生がどんな気持ちで俺を誘っているのか分からない。けれど、何となく誘いに乗ってもいいんじゃないかと思えたんだ。
「いいですね」
そう答えると彼女は破顔し、「じゃあ、また待ち合わせの時間と場所を連絡します」と言った。
結局のところ、お互いに他のメンバーのことは言い出さなかった。二人で行くことが当たり前のように約束をした。彼女からは会場である総合体育館での待ち合わせの時間のメールが来たけれど、それを迎えに寄るから一台の車で行こうと言い出したのは俺だった。会場の駐車場が少ないといけないからとか言い訳して。
自分でも自分のそんな行動の理由を説明できなかった。
助手席に女性を乗せたのは何年ぶりのことか。
振られた癖に変に操立てていた自分が可笑しくさえある。
「守谷先生、すみません。わざわざ迎えに来て頂いて」
「通り道だし、同じ所へ行くのに一台で行った方がエコですよね?」
「エコ、ですか?」
愛先生は驚いたように問い返したけど、クスクスと笑いだした。
「そう、化石燃料を使うと地球温暖化になりますし」
「じゃあ、私達は少しだけ温暖化を食い止めたんですね?」
「そういうことですね」
そう言って二人で笑いあった。
こうして別の女性を助手席に乗せて、笑っている自分が不思議な気がした。
けれど、これで良かったんだ。もっと早くこうすべきだったんだと俺は自分に言い聞かせていた。
*****
梅雨の走りの雨が降る六月の初め、三名の教育実習生がやって来た。自分は担当しないが、なんとなくにぎやかな雰囲気だ。今日から四週間、しっかりと実習をしていってほしいと思っていた矢先、朝の職員室で紹介された実習生を見て、驚いた。
「守谷先輩、お久しぶりです」
朝の打ち合わせが終わった後、教室へ向かうべく用意をしていたところに声を掛けて来たのは、先程俺を驚かせた実習生の一人で、大学のサークルの後輩の安藤だった。
「安藤、どうしてこの小学校へ実習に来ているんだ?」
確か安藤は他県の出身のはず。基本、卒業生しか実習生は受け入れていないと思ったが。
「だって、私の母校ですもん」
「ええっ?! 今までそんなこと一言も言わなかったじゃないか」
俺がこの虹ヶ丘小学校へ勤務しているのも知っているはずだし、去年の大学祭の時も安藤には逢っているのにと思っていると、安藤がニヤリと笑って「驚いて頂けました?」と興味津々の目でこちらを見て来た。
「そりゃあ、驚くさ」
「ふふふ、守谷先輩が虹ヶ丘小学校へ赴任されたと聞いた時から、いつ言おうか考えていたんですけど。今日のこの日のために黙っていたんです。本当は言いたくてうずうずしていたんですけど、さっきの自己紹介の時の守谷先輩の驚いた顔を見られただけでも、黙っていた甲斐がありました」
晴れ晴れとした顔で作戦の成功を報告するように言う安藤を見て、俺は少々げんなりとした。
「ほら、井田先生がこちらを睨んでいるぞ。実習頑張れよ」
彼女の指導教師の井田先生と目が合い、早く戻るように言うと「はーい」と元気よく返事をして行ってしまった。
今更ながら皆の好奇の目が気になり、俺は慌てて教室へ行こうとしたら、傍にいた学年主任の長嶋先生がニコニコと話しかけて来た。
「あの実習生は守谷先生の後輩なの?」
「はい、サークルの後輩なんです」
「守谷先生って、どこでも人気あるんですねぇ」
こんな言葉を聞くと、益々げんなりとしてしまうが、「そんなこと無いですよ」と苦笑する。そして俺は「朝の会が始まりますので」とその場を後にすると、後ろから「そうね、私も行かなきゃ」と慌てている声が聞こえてきた。
*****
六月十五日、第二回の学級役員会議の日だった。今日は梅雨らしく朝からシトシトと雨が降っている。子供達はプールが出来ないので少々不満顔だ。
俺も今日は何となく気分が乗らないのはこの雨のせいか。
それでも子供達はすぐにプールに入れない不満を忘れ、俺も子供達の元気に押されて気分が乗らないことなど思い出す暇も無かった。
そして時間は確実に進み、学級役員会議が行われる午後四時が近づいてきた。会議に出る準備をしながら、忘れ物は無いかと思った時、思い出したのはUSBメモリー。
一学期の終わりに発行されるPTA新聞に、今年入学した一年生のクラス写真と担任のコメントを掲載するらしく、広報委員会から一年生の各担任にコメントをお願いされたのは約一ヶ月ほど前だ。
原稿用紙付きでの依頼だったが、以前に新聞の印刷をお願いしている印刷会社にはデータで提出すると聞いていたので、入力の手間を省くためにデータのままで提出することにした。
そして、自分のクラスの役員が広報委員だからと提出のとりまとめを引き受け、皆にもデータで提出してもらい、それをまとめてUSBメモリーに保存していたのだった。
会議の時間になり他の担任達と今回の会議場である一年一組の教室へ入っていくと、学級役員である保護者達が一斉にこちらを見て口々に「こんにちは」と挨拶をする。
今回は、クラスごとに意見を出し合って、後で全体の意見をまとめるので、まず、それぞれの担任とクラス役員二名が、机を寄せて話し合うことになった。学級懇談の時と同じように、三つの机を寄せて座ると、俺はUSBメモリーを西森さんに差し出した。
「これ、広報で頼まれていたコメントです。どうせ後で入力すると思ったので、他の先生の分も一緒にこの中に入っています。メモリーは後で返してもらえればいいから」
「わー、守谷先生、賢い! ありがとうございます」
無邪気な喜びの声をあげてUSBメモリーを受け取る西森さんを見て、つい頬が緩んだ。しかし……。
「私もデータで提出してもらえれば助かると思っていたんですが、今までの広報のやり方があると思って、言いだせなくて。助かります。ありがとうございました」
あいつの言葉にすっと心が冷えた。まるで、俺に媚びている様に、お礼を言うあいつに視線を向けた。
「後からそう思っていたと言うぐらいなら、提案すればよかったのに」
以前のあいつならそんなこと絶対に言わなかった。思った時点で提案していただろう。
俺の言葉にハッとしたあいつは「そうですね。すみませんでした」と謝った。
別に謝ってほしい訳じゃない。
「やだぁ、篠崎さん、そんなに真剣にならなくてもいいから。謝ることじゃないでしょ?」
西森さんがいつもの能天気さで、俺とあいつの間にあった冷たい空気をぶった切ってくれたお陰で、俺は我に返った。
こんな所で感情を露わにしている場合じゃない。
強張った表情のあいつも、西森さんの言葉に戸惑いがちに笑みを見せた。
話し合いの本題に入ろうとした矢先、廊下からこちらに近づく足音が聞こえたかと思ったら、「守谷先輩」と呼ぶ声と共に教育実習に来ている後輩の安藤がゆっくりと入って来た。
全員が彼女の方を見たので、少し恥ずかしそうに入ってくる安藤に、心の中で舌打ちをした。
どうしてここへ安藤が来るんだ。
「安藤さん」
俺が咎めるように彼女の名を呼ぶと、彼女は慌てて傍までやって来て頭を下げた。
「すみません、守谷先生。見学させてもらってもいいですか?」
「井田先生の方は、もういいのか?」
「はい、もう今日はいいということでしたので」
「じゃあ、その辺にでも座って見学していて。あ、彼女は、教育実習生の安藤さんです」
俺は無下に断ることも出来ず、感情を出さないように淡々と安藤を紹介した。
「お邪魔してすみません。教育実習をさせてもらっている安藤です。守谷先生とは大学が同じで、サークルの先輩、後輩だったんです」
安藤、余計な自己紹介をするな。
俺は心の中で悪態をつきながら、学級役員の二人に向かってペコリと頭を下げる安藤を一瞥した。
「へぇ、何のサークルだったの?」
ほら見ろ。好奇心旺盛な西森さんのスイッチが入ったじゃないか。
「はい、折り紙サークルです」
素直に答える安藤を止めることも出来ず、俺はあいつの手前複雑な心境に陥った。
「ええ? 折り紙? なんだか守谷先生らしくない!」
「らしくないって、どういうことですか? 西森さん」
またまた西森さんの能天気発言に、ついムッとして言い返してしまった。
「ねぇ、篠崎さん。守谷先生と折り紙って、似あわないよね?」
西森さんがあいつに話を振る。あいつにしてもこの話題は微妙な心境だろう。
「そんなこと無いと思うけど」
あいつが答えにくそうに口ごもりながら答えると、西森さんはその答えが気に入らなかったようだ。
「えー、守谷先生なら、テニスサークルとか、イベント企画サークルとか、もっと活動的な感じのサークルの方が似合うでしょう?」
西森さんが同意を求めるようにあいつに話しかけるが、あいつは困り顔だ。
俺はこれ以上西森さんに引きずられないよう、感情を押し殺す。
「守谷先輩は、とても真面目に折り紙に取り組んでいましたよ。折り紙といっても、巨大なロボットを折り紙で作ったりとかしていたんですよ」
安藤が俺を持ちあげるようにフォローすると、西森さんもあいつも驚いた顔をした。
西森さんが驚くのは仕方ないにしても、あいつは全て知っているのに、この場では西森さんに合わせているのか。それとも、二人の過去なんて無かったことにしたいからか。
「安藤さん、もういいから。静かにできないなら、出て行きなさい」
俺が少し怒った様な声で安藤に言うと、安藤は「すみませんでした」と謝り傍の椅子に座った。
ようやく静かになったので、本題の給食試食会のアンケートの内容について話し合いを始めた。
上の子で経験のある西森さんが積極的に意見を出す。あいつも子供の好きな食べ物や嫌いな食べ物などを聞いてみるのもいいかもしれないと意見を出す。
俺が二人の世間話のような意見を書きとめていると、安藤がまた声をあげた。
「もしかして、美緒さんじゃないですか?」
安藤、どうしてあいつのことを知っているんだ。




