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あの虹の向こう側へ【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第二章:失恋編
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【十三】旦那怒鳴り込み事件

 大学のゼミの折原教授の奥様である優香さんが、本年度のPTA会長になった。そして先日、本部役員の会議のために小学校へ来ていた彼女に会った時、言われたのだ「守谷先生のファンクラブを作ったから」と、ニッコリ笑顔付きで。

 彼女はけして悪い人じゃないとは思うのだけれど、ゼミの学生達の恋愛事に興味津々で、本人曰く「早くに最愛のダーリンに出会っちゃったから、恋愛経験は少ないの。だから皆の恋愛に興味があるし、応援したいの」とのこと。

 そんな彼女がファンクラブまで……と思っていると、「人妻の毒牙に掛からぬように牽制するためよ」と、至極真面目に言われたので驚いた。

 俺が? 人妻の毒牙?

 話にならないと思ったけれど、優香さんを止めるのは最愛のダーリンでも無理だと、すでに学習済みだ。


 目の前で笑う愛先生に目を奪われていた俺は、我に返ると大げさに溜息を吐いて見せた。

「今度のPTA会長は、大学のゼミの教授の奥様なんです。学生の恋愛話に首を突っ込むのが好きな方で、今度も面白がっているんですよ」

 俺が溜息交じりに説明すると、愛先生は一瞬驚いたように目を丸くした。

「守谷先生はPTA会長に可愛がられているんですね」

 何をどう解釈したのか、彼女はそう言って再び優しく笑った。

 そんな彼女の反応に俺は、気抜けする様な、恥かしい様な気分になり、「そんなことないですよ」と小さく言うと、そっと視線を外した。

 俺達が手当てを終えて皆の元へ戻ると、広瀬先生がニヤニヤと意味深な笑顔で迎えた。

 また、変なことを言い出さないかと警戒していたが、その日は何事も無く過ぎていった。

 その日から皆アウトドアに興味を持ったのか、次はどこへ行こう、何をしようと話が盛り上がるようになり、同じメンバーで一、二ヶ月に一度程度で出かけるようになった。

 おまけに出かけた先で写真を撮る俺に影響されたのか、皆も出かける度にカメラを持ってくるようになり、遂には写真サークルを作って、文化祭に出展しようとまで話は盛り上がった。

 まったく、乗りやすい奴らだと思うよ。

 その上、俺が昔よく美緒に写メールしていたように、たまたま面白いと思って撮った写真をメンバーに写メールすると、瞬く間に写メールブームとなった。今では面白い物を見つけると、競うようにメンバーから写メールが送られてくる。

 そんな乗りやすい奴らを呆れたように笑いながらも、心の中はじんわりとしたもので満たされていく。

 これは、しばらく忘れていた感覚だった。


 仕事はまだまだ試行錯誤する毎日だけれど、子供達のキラキラと輝く瞳と屈託のない笑顔、そして純粋なエネルギーが俺の仕事に対する活力となる。

 一年目はやるべきことを追いかけるだけで精一杯だったけれど、二年目の今、少しは試行錯誤する余裕があるということだ。それは、プライベートが充実してきたからかもしれない。

 自分の好きなことを自分以外の誰かと共有できる楽しさ。そんなことも、しばらく忘れていたことの一つだった。

 仕事から離れて一人になった時に感じた心の隙間も、いつの間にか埋められていく。

 こんな風に少しずつ美緒の記憶から遠ざかり、いつか思い出となって、忘れていくのだろうか?

 それが自然なことなのだろう。そうなっていくべきなのだろう。

 こんな風に考えると、やはりまだどこかに痛みを感じるけれど、もう潮時なのかもしれない。

 忘れること。それが自分のためにも、美緒のためにも、一番いいことなのだろうと思う。

 人間にとって忘れるということは、肩の荷を軽くすることだと思う。

 辛いことも、苦しいことも、悲しいことも、いつか忘れてしまえるから、生きて行けるのだろう。

 だからと言って、新たな恋をしようと思っている訳ではないし、恋はしようと思ってできるものでもない。

 なのに、周りの期待が最近重荷だ。

 広瀬先生だけが面白がってからかってくる程度なら適当に流せるけれど、だんだんと周りの皆が同じようにニヤニヤとした目で見てくるようになった。そして、ついには二人の仲を見守る様な暖かい眼差しを向けられるようになったのだ。

「大原先生、なんだか皆誤解しちゃって、大変な事になっちゃいましたね」

 俺は愛先生と二人になった時に、苦笑しながら話しかけた。

「私、最初は何のことだかよく分からなくて。守谷先生とよく話をしているから、皆誤解したのかな? 一応否定したんだけど、皆聞き入れてくれなくて。守谷先生にご迷惑をかけているんじゃないですか?」

 彼女は少し戸惑いながら、困惑気味に話す。

 でも、どちらかと言えば俺の方が迷惑をかけているんだと思う。

「いえ、俺の方は大丈夫ですけど、大原先生の方が迷惑しているんじゃないですか? それに、いくら違うといっても、彼らを喜ばせるだけですよ。俺たちをからかってその反応を見て喜んでいるんですから」

「私も迷惑という訳では無いですけど。すっかり皆のからかいのネタにされているんですね?」

 彼女はそう問いかけながらクスクスと笑った。

「そう、だから、ムキになって否定したり、慌てたりすると思う壺なんですよ。笑ってスルーするしかないですね」

 俺の方もまるで悪戯の共犯のようにクスリと笑って返した。

 二人で笑い合った時の彼女の笑顔が俺の心の隙間にスルリと入り込んでくる。

 この笑顔は美緒に似ているから気になるんだと心の中で言い訳しても、もう似ているからなのか、彼女自身の笑顔に引き寄せられるのか分からなかった。


           *****


 夏休みが終わり、二学期が始まると、慌ただしく運動会の準備や練習が始まり、そして、九月の第四日曜日、無事に運動会は終了した。

 ヤレヤレと息つく間もなく、十月は社会見学に親子学習会と二学期はイベント満載だ。保護者のクラス役員の方々に助けられながら、親子学習会を乗り切った頃、それは起こった。

「三年二組の担任の守谷という教師はどこだ?」

 突然、放課後の職員室へ男が怒鳴り込んで来たのは、秋も深まった十月の終わり頃だった。

 荒々しく開けられた職員室の引き戸の音と、男の怒りのこもった大声に、職員室にいた者全員が動きを止めてその男に視線を向けた。そして次の瞬間、その男の言葉を理解したのか、全員の視線が俺の方へ向けられた。

 俺は訳も分からず立ち上がり、「私ですが、どちら様ですか?」と言いながらその男に近づいて行った。

「きさま! よくも俺の妻を誘惑してくれたな!!」

 その男はドスドスと足音を立てて急ぎ足でこちらに近づくと、俺の喉元辺りを引っ掴み怒りを爆発させた。

「えっ、え? 何のことですか?!」

 余りにも思いがけないことを言われたからか、言われた内容に怒るよりも、呆けてしまった。

 しかし、相手からの怒りのオーラがすさまじく、少々怯んでしまう。

「とぼけるな! 覚えが無いとは言わせないぞ」

「いったい、あなたは誰なんですか?」

「藤川友樹の父親だ。きさま、子供をだしに妻を呼び出していたんだろ!」

 その男が正体を明かしても、そんな風に責められる謂れがわからない。

 ただ、思い当ったのは、藤川友樹が俺のクラスの児童で、所謂不登校の状態にあり、そのことで不安な母親から連日携帯に相談の電話が入っていたことだ。

 友樹の二年生の時の担任が五十代のベテラン女性教師で、少々厳しい所やヒステリックな所があるらしいが、現場経験が長く、皆も一目置くベテランだった。一方友樹の方は、母親を始め周りの大人から余り怒られたことがなく、のんびりとした子だったらしい。

 それが二年になり、母親よりも年上の女性教師が、忘れ物をしたり、先生のいうことを聞かなかったりする子達を厳しく叱るのを見て驚いてしまい、とにかく先生のいうことを聞かなくてはと毎日緊張し続け、ついには学校へ行けなくなってしまったらしい。

 また、今目の前にいる父親は単身赴任で普段家にいないため、母親一人での子育ての上、周りに相談することも出来ず、新しく担任になった俺に不安をぶつけて来ていた。

 俺は何とかして友樹にまた楽しく学校へ来てほしいと思い、何度も家庭訪問をし、友樹とも何度も話をして、一生懸命してきたつもりだった。だから、友樹が何とか学校へ来られるようになったのは、本当に嬉しかったんだ。

 しかし、学校に慣れだした頃、今度は同級生から少しきついことを言われたことが引き金になり、また学校へ来られなくなってしまった。

 友樹が学校へ行けるようになったことを喜んでいた母親は、前以上に落ち込み、それから毎日のように電話をかけてくるようになった。

「ちょ、ちょっと待ってください。藤川さん落ち着いてください。誤解です。そんなことしていません」

 どんなに否定しても、聞く耳を持たない藤川さんは、一方的に俺を責めるばかりだ。

 その時はそこが職員室であることも、周りに人がいることも頭の中から消え失せ、とにかく相手に分かってもらわなければと、言葉を返していた。

「藤川さん、ここではなんですので、校長室で話を聞きますから」

 慌てて近づいて来た教頭が、何とか争いの場を校長室へと移した。

 校長室へ入って来てもまだ怒り収まらぬ藤川さんは、今度は校長と教頭に向かって語気強く怒りをぶちまけた。

 藤川さんが言うには、最近奥さんが携帯を家の中でも持ち歩いて離そうとしないのと、様子がおかしいので、奥さんに内緒で携帯を調べたらしい。履歴にずらり並ぶ『守谷先生』という名を見て、これはおかしいと思い、まさか浮気ではと奥さんを問い詰めたらしい。奥さんが必死に相手を庇うのを見て、誘惑されて騙されているんだと思い込んだようだった。

 そしてまた、一ヶ月に一度程度しか帰って来ない仕事人間のご主人には、友樹君が再び不登校になっていることを知らせなかったようだ。

 俺は藤川さんの話を聞きながら、どうして携帯の履歴だけで浮気だと思うんだと、あまりに理不尽な決め付けに頭の中は沸々と怒りが煮えたぎっていたが、校長達の手前どうにか耐えていた。

「それは、奥様がおっしゃられたのですか?」

 校長はひとしきり相手にしゃべらせた後、静かな調子で聞き返した。

「そんなもの、あいつの言うことは支離滅裂で。それよりも携帯の履歴が動かぬ証拠じゃないか。普通担任と保護者は毎日など電話する訳ないだろう」

 藤川さんは奥さんのことを聞かれて少し言い淀んだが、奥さんの携帯の履歴を見せ、勝ち誇ったように強気で言い切る。

「ですから、それは、奥様が友樹君のことを心配されて毎日相談の電話をかけてこられて」

 俺は余りの言い分にキレそうになりながらも、自分に落ち着けと言い聞かせていた。

「だから、子供をダシにしていると言うんだ!」

 藤川さんは大声を出せば意見が通るとばかりに、声高に俺の説明を断ち切って言い募る。

「まあ、まあ、藤川さん落ち着いて。私も藤川友樹君のことは報告を受けていますよ。守谷先生は本当によくやってくれています。守谷先生はまだ先生になられたばかりで加減が分からず、一生懸命になり過ぎたのかもしれませんね。でも、一方の言い分だけでは不公平ですから、今からお宅へお邪魔して、奥様のお話も聞かせて頂きましょう」

 校長は慌てず穏やかな調子で、それでいて有無を言わさず、藤川家へ行くことを決めてしまった。

 藤川家で奥さんを交えて話をしていると、ヒステリックになった奥さんの様子がどんどんとおかしくなっていった。

「あなたは仕事ばかりで家のことなんて話も聞いてくれなかったじゃないの。守谷先生は本当に優しくて、一緒に頑張りましょうって言ってくださったの。私の不安をいつも受け止めてくださって、あなたよりずっと頼りになるのよ。ねぇ、守谷先生、そうですよね? 私のために私と一緒に頑張って下さるんですよね?」

 奥さんは目を吊り上げて藤川さんに文句を言った後、俺の方を見て縋るように尋ねて来た。

 俺は奥さんの言葉に驚き困惑する。

 どうしてこうなったんだ?

 俺のどんな態度が奥さんに誤解を与えたのだろう?

 それから俺は、友樹君のために、友樹君が楽しく学校へ来られるようお母さんと協力して行こうという気持ちで言ったのだと必死で訴えた。そして、母親に対して不埒な気持ちは一切ないと説明し、誤解を与える様なことを言ったのなら申し訳なかったと謝罪した。

 しかし、奥さんは益々ヒステリックになり、終いには泣き叫びだし、ここまで来てやっと藤川さんは奥さんの精神状態がおかしいことに気づいてくれた。

 その後、藤川さんは奥さんを病院へ連れて行って様子を見て、夫婦関係を修復するために単身赴任していた赴任先に奥さんと子供を連れていく決心をされた。そして、少しでも早くということで、文化祭が終わった十一月の半ば、友樹は転校して行った。


 一応のところ校長達も藤川さんの方も、俺に非が無いと理解してお咎め無しとなったけれど、俺の中にはトラウマに近いものが残った。

 保護者との距離感が分からない。

 学校側も今回のことで保護者に安易に教師のプライベートな携帯番号を教えないことになった。

 そのことに少し安堵しながらも、今後の保護者への対応に不安になる。

 でも、子供達には絶対に俺の不安も、不安な雰囲気も感じさせてはいけないと、それだけは肝に銘じていた。

 同校の教師の中には、ファンクラブなんていい気になっているからこんなことになるんだとか、無意識に女をたらし込んでいるんじゃないのか等と俺を悪く言う人もいたが、だいたいが皆理解してくれて、今回のことは一件落着した。

 と思っていたら、事態はさらなる場面へと展開していた。

 あの藤川さんが怒鳴り込んできた時に、職員室にたまたま居合わせた保護者がいた。そして、『守谷先生がクラスの児童の母親を誘惑して、その旦那が怒鳴り込んできた』という噂が、瞬く間に広まったのだった。

 匿名の保護者からクレームの電話、噂を確かめるための問い合わせ等、教師や保護者を巻き込んで、事態はどんどん膨れ上がった。

 思いもしない想定外の事態に、一時期俺は教師を辞めてしまおうかまで思い詰めた。

 しかし、周りの仲間達に励まされ、子供達の笑顔に恥じないように堂々としていなければと、思い直した。

 また、PTA会長でもある優香さんに「保護者の方の噂は、本部役員全員で潰しますから」などと、頼もしいような恐ろしいようなことを言ってくれた。

 保護者の中にも「あんなことがあっても、子供達に変わらぬ態度でいてくださったことに感謝しています。頑張ってください」と励ましてくださる方もいて、俺は少しずつ元の日常を取り戻して行ったのだった。




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