【十一】感化される想い(その五)
二学期の終業式の日、仕事を終えて帰ろうと帰り支度をして職員室を見渡すと、もう残っている人は少なくなっていた。それもそうだ。今日はクリスマスイブだから、皆それぞれ予定があるのだろう。家庭のある人は家族の元へ、独身者は恋人の有無で全く違うだろうけれど。
すっかり夜の帳の降りた校庭へ出て、外灯に照らされ浮かび上がったように見える職員用駐車場へ向かって歩き出すと、前方に同じように駐車場へ向かって歩いている人に気付いた。
あれは、妃先生。たしか、もう少し前に職員室を出て行ったと思ったのに……。すぐ帰ったんじゃなかったんだ。
俺は彼女を見た途端、先日の杞憂が蘇った。何となくもどかしい気持ちになり、お節介だと分かっていても、彼女に声をかけずにいられなかった。
「妃先生、もうお帰りですか?」
振り返った彼女は、声の主が俺だと確認すると、少しホッとしたように微笑んで、「はい」と頷いた。
「あの、少し話をしてもいいですか?」
焦ったように問いかけると、彼女は少し頭を傾けて「はぁ、少しなら」と不思議そうな顔で答えた。
そして俺達はそのまま外灯の下で立ち話を始めた。
「あの、お節介だとは思うのですが、本当に木下さんに気持ちを伝えないつもりですか?」
俺の問いかけに、彼女は驚いたように目を見開いた。そして、視線を下へ向けてしばらく考える様な様子をした後、顔を上げると「本当にお節介ですね」と笑った。
「すみません。でも、妃先生には俺みたいに後悔して欲しくなくて」
再び驚いた顔をした彼女は、恐る恐るという風に「もしかしてそれは、忘れられないという元カノさんのことですか?」と聞ねて来た。
自分のことへ話が振られると思っていなかった俺は少し怯んだけれど、覚悟を決めて頷きながら「そうです」と答えた。
「俺の場合、何も自分の気持ちを言えないまま、彼女に会えなくなるどころか、連絡さえも取れなくなってしまって。だから、妃先生も、もしも気持ちを伝えないまま二度と会えなくなったら、連絡すらできなくなったら、後悔しませんか?」
お節介だと言われても、ここで止めることが出来なかった。
彼女は俺の問いかけに俯いて何か考えているようだったけれど、クシュンとクシャミをした。
その時になってやっと、俺達が寒い中立ち話をしていたことを思い出した。
「すみません。寒かったですね」
「いえ、大丈夫です。守谷先生の気持ちは分かりましたけど、気持ちを伝えることで彼と連絡さえもできなくなる方が、私には辛いです」
彼女は真っ直ぐな眼差しで俺を見た。
その眼差しには意思の強さを感じたけれど、どうしてこう、彼女はネガティブな方向にしか考えられないのだろう。
「でも、気持ちを伝えたら、新たな関係が生まれるかもしれないじゃないですか」
今ならまだ気持ちを伝える術があるのに、と思うともどかしくてならない。
「そんな可能性があるとは思えません。本当に私の心配はもういいですから、守谷先生は自分のことを考えてください」
彼女はどこか迷惑さをにじませながら、きっぱりと言い切り、「それじゃあ、失礼します」と踵を返して自分の自動車へ乗り込み、去っていった。
俺は茫然とその様子を見送りながら、こんな風に美緒も俺から去っていったよなと思い返していた。
女性が一度こうと決めたら、もう元には戻らないのだと、その時やっと実感した。
そして、俺はいよいよ自分の恋に終止符を打つ時がやって来たのかもしれないと、ぼんやり考えていた。
しかし、現実は思いもよらない展開を見せた。
その年の御用納めの日、俺は広瀬先生と仕事の後打ち上げと称して飲みに行った。
「あの忘年会の数日後に木下から電話があってさ、なんと、妃から忘年会の後に話があるからって言われて一緒に帰る約束をしていたらしいんだ。それなのにアイツは、銀行の後輩を送って行っただろ? それで、なんだか介抱させられたらしくて、本当はもう一度戻るつもりだったらしいけど、遅くなって約束を守れなかったらしいんだ。そのことは謝ったらしいんだけど、妃の方がもう話はいいからって、それっきりになったらしくて。俺に何の話だったと思いますかって聞いてきたんだよ」
「え? それって、妃先生、告白するつもりだったんじゃ」
「そうだろ? そう思うだろ? でもさ、俺の口から木下に言えることじゃないから、もう一度妃に聞いてみろって言ったんだけどな。その後、連絡無くてさ」
「でも、あの後妃先生は、もう告白するつもりはないって言っていましたよね? それに俺、終業式の日の帰り、たまたま駐車場で妃先生と一緒になったので、また告白することを勧めたんですよ。でも、きっぱりと断られました。お節介だったみたいです」
俺はそう言って自嘲気味に笑った。広瀬先生にも「おまえしつこい性格だったんだな」と笑われてしまった。
「それにしても、妃も頑固だからなぁ」
「女性って、一度こうと決めたら、覆らないものなんですかね」
「まあ、そういうのが多いのかもな」
「なんだか周りから見ていると、もどかしいですよね。一番のキーポイントは木下さんの気持ちだと思うんですが」
「木下もなぁ、自分が妃の恋愛対象になるなんて思いもしないのだろ。だけど、妃のことは気になっているんだと思うよ。あんなこと聞いてくるぐらいだから」
「そうですよね。何か二人のために出来ることがあったら」
「そんなの何もないさ。もう二人の問題だから、二人が何とかするしかないだろ? それでどんな結果になっても、それが運命って奴だと思うね」
広瀬先生の言葉は冷たい様だけれど、本人達が動かなければ何も進まないのだから。
俺は、広瀬先生の言った「運命」という言葉に、戸惑った。
こうして美緒と別々の人生を歩むことが、おまえの運命なのだと言われている様な気がして。
そして、まだこんなことにさえ動揺している自分は、やっぱりしつこい性格なのかなと、反省を込めて自戒した。
新しい年が明け、三学期が始まると、またいつもの忙しい日々が返ってきた。
そんな日々の中で、妃先生を見かけると少しは気にはなるけれど、広瀬先生の言うようにもう周りが口を出すべきでないなと、気にしないようにした。
ただ、妃先生が後悔や哀しい思いをしないよう祈るだけだ。
考えてもどうしようもない自分のことは、記憶の一番奥の引出しにしまって、しまったことすら忘れてしまうのが良いのだと自分に言い聞かせている。
そんな風に寒い一月をやり過ごし、二月に入った頃、妃先生からメールが来た。
広瀬先生と俺に話があるから、以前行った学校から少し離れた個室のある和食の店へ、今度の土曜日のお昼に来てほしいとのことだった。
広瀬先生に連絡を取ると、同じメールが届いたとのことで、いったい何の話があるのだろうかと、二人して首をひねった。
「もしかすると、木下さんがアメリカへ行くのが近づいて、やはり告白しようと思う、という話じゃないでしょうか?」
一番考えられることだと思うけれど、わざわざ俺達を呼び出してそんな宣言をするだろうか?
「俺達の前できっぱりと言い切った妃が、気が変わったからと言って俺達を呼び出すかな? あれで結構プライドが高いんだよ」
広瀬先生の言葉を聞いて、あのクリスマスイブの夜の彼女の迷惑そうな顔を思い出した。
今更何を言われても、変わりませんという感じだったものな。
「じゃあ、なんで呼び出されたんでしょうか?」
「まあ、行けば分かるだろ?」
その後、学校で妃先生に会っても、そんな話ができるはずもなく、気になりながら当日になるのを待った。
二月の第一土曜日に当たるその日、指定された時間にお店へ行くと、すでに広瀬先生は来ていたけれど、妃先生はまだだった。
「呼び出しておきながら遅れるって、妃らしくないよな」
お通しを摘みながら、広瀬先生がぼやくように言った。俺は苦笑して、同意するように頷き、しばらく来週の学習発表会について話をした。
突然、襖が開けられ、俺達はそちらへ視線を向けた。外の冷たい空気のせいか、急いで来たせいか、妃先生の頬は赤くなっている。そして徐に「遅れてすみません」と頭を下げた。
しかし、その声は妃先生だけじゃなかった。明るい部屋から見ると、襖の辺りは少し暗く、妃先生の後ろに気付かなかった。
妃先生が一歩部屋の中へ入って横へ避けると、彼女に続いて長身の男性が入って来た。
「木下」
「木下さん」
思わず俺達が彼の名を呼ぶと、少し照れたように頭を掻いて「広瀬先輩、守谷君、今日はすみません」と頭を下げた。
そんな木下さんから妃先生へと視線を移すと、少しバツが悪そうで照れたような、初めて見る妃先生の表情は、全てを物語っていた。
「妃、これはどういうことかな?」
広瀬先生も分かっているだろうに、意地悪くとぼけて問いかけた。
俺は二人が座れるように、広瀬先生の横へと席を移し、二人を向かいの席へ座るように促す。
その時、お店の人がお通しを持って入ってくると、注文を聞いて去っていった。
「あの、二人にはずっと心配かけて、応援もしてもらって、ありがとうございました」
妃先生は健気にも俺たちに頭を下げた。
「妃、木下がここにいるということは、あんなにかたくなにしないと言い切っていたのを覆して、実行に移したということかな?」
広瀬先生は、相変わらず人を食ったような嫌味な笑顔で、意地悪く妃先生にツッコミを入れる。
俺はハラハラしながらも、何も言えずにただ見守ることしかできないのは、広瀬先生の気持ちも何となくわかるからだ。
妃先生の恋が成就したのなら、とても嬉しいことだけれど、応援していた身としては途中経過をすっ飛ばして、いきなり上手くいきましたありがとうと言われても面白くないのだった。
「広瀬先輩、そんなに苛めないでくださいよ」
広瀬先生の言葉にオロオロする妃先生を見かねたのか、木下さんが口を挟んだ。
ちょうど、料理が運ばれて来て、皆が食べ出すと、話は中断した。やがて、ある程度食事が進んだ所で、また広瀬先生が口を開いた。
「木下、俺が妃を苛める訳ないじゃないか。俺達は妃に幸せになって欲しくて応援してきたんだよ。だから、彼女の想いが通じたのなら一緒に喜びたいんだよ。でもさ、あんなにかたくなに告白はしないと言い切っていた妃が、どうして木下と一緒にやって来たのか知りたいんだよ」
広瀬先生はそう言うとニヤリと笑った。
「それは、俺が広瀬先輩に背中を押されたからです」
説明しようとした妃先生を制すると、木下さんはきっぱりと言い切った。
俺達は妃先生が今までの経緯を話すものだと思っていたから、とても驚いた。
「木下、俺はいつおまえの背中を押したんだよ」
唖然としていた広瀬先生が、慌ててツッコミを入れる。
「忘年会の後で妃さんのことで電話をしましたよね。あの時、もう一度妃さんに聞けと言ってくれたから、俺はクリスマスイブに彼女を食事に誘ったんです」
木下さんの真っ直ぐな物言いは、彼の性格を表しているようだった。
「クリスマスイブって……」
クリスマスイブと聞いて、俺は思わず口走った。
「そうです。守谷先生にやっぱり気持ちを伝えた方が良いって言われた日です。でも、守谷先生にあんなことを言った手前、その日はやはり気持ちは伝えられませんでした」
俺の言葉を受けて、妃先生が言い訳のように説明するのを、再び制するように木下さんが少し身を乗り出して「でも、一緒に食事したことで、俺は二人の距離がぐっと近づいたと思いました」と言った。
「わかった、わかった。要するに、おまえ達は両思いなのに、お互いに告白する勇気がなかったのを、俺達が背中を押したから、気持ちを伝えあえたということだな」
木下さんが一生懸命妃先生を庇おうとしているのを見て、広瀬先生はすっかり意趣返しをする気分が萎えたのか、自ら話を要約して終わらせてしまった。
二人が広瀬先生の言葉に神妙に頷くと、広瀬先生は「妃、良かったな」と優しく笑った。
「広瀬先輩、俺には良かったなって言ってくれないんですか?」
木下さんが拗ねたように言うのを、「元はと言えば、お前が後輩の女の子に鼻の下を伸ばしていたのが悪いんだろ」とバッサリと切り捨てられ、「そんなこと、していませんよ」と情けなさそうな顔で言い訳をしていた。
「妃先生、木下さん、良かったですね。おめでとうございます。それで、これからは遠距離ですか?」
俺が改めて二人に祝福の言葉を述べると、広瀬先生は「さっさと妃を連れてアメリカへ行ってしまえ」と茶化した。
「いや、俺達はまだ……」
木下さんが言い淀んだが、それもそうだろうと思う。まだ二人は思いを確かめ合ったばかりなのだから。
「何言っているんだ。妃がおまえを思い続けて来た年月を考えたら、もうこれ以上待たすなよ」
「でも、妃さんには仕事が……」
木下さんは困ったように言った。
「私、仕事は大事だけど、今は木下君について行きたいです」
それまで黙っていた妃先生が、唐突に爆弾宣言をした。その言葉に驚いて妃先生を見た木下さんは、「それ、ホント?」と聞いている。
そんな二人の様子に驚きながらも微笑ましく見ていると、広瀬先生は又茶化すように「それから後は二人だけで話せよ」と笑った。
食事を終えて、お店から出た所で、妃先生に話しかけられた。
「私、最終的には守谷先生に言われた『気持ちを伝えないまま二度と会えなくなったら』という言葉に背中を押されました。あの言葉は守谷先生の気持ちがこもっていたから、ずっと私の心の中に残っていたんです。本当にありがとうございました。守谷先生も、元カノさんにもう一度気持ちを伝えられるといいですね。そうなることを祈っています」
妃先生の言葉は俺の胸を締め付けた。
まるで、想い続ければ、願いがかなうと思わせるような妃先生の笑顔が、俺を追い詰める。
どうしろというんだよ。
もう美緒のことは考えないようにしようと思っていたのに。
いつもそうやって、俺が想うことに疲れ果て、諦めようとした頃に、希望とも言えない程の光を見せるんだ。
三月の終わり頃、妃先生と木下さんは婚約した。結局妃先生は仕事を辞めるにしても急過ぎるということで、一年後に結婚してから彼を追いかけてアメリカへ行くことになったらしい。この一年間に英会話を習うのだと笑う彼女の顔は本当に美しかった。
俺はと言えば、三月終わり頃になるとどうしても思い出すのは、美緒との最後の逢瀬で、もう二年が過ぎるというのに、一歩も前に進めない自分が情けなくなる。
それでも新年度からは、何か新しいことを始めようかと、気持ちを切り替えようと思う。
手始めに、大学生の頃ハマっていた写真をまた始めてみようか。山歩きもしたいし。広瀬先生を誘うのもいいかもしれない。
そんなふうに一年前よりは少し前向きに気持ちを切り替えられるようになった俺に、運命は又意外な方へと舵を切った。
四月一日、新任や転任してきた先生が紹介された。
「大原愛です。教師四年目になります。どうぞよろしくお願いします」
その人がそう言って頭を下げて挨拶をした後、恥ずかしそうにほほ笑んだ顔を見た時、俺は驚きで固まったまま、視線を外すことができなかった。
その笑顔は、二年経っても忘れることが出来ない美緒の笑顔に、余りにも似ていたんだ。




