【九】感化される想い(その三)
一学期を無事に終え、熱い夏を過ぎると、運動会、親子学習会、社会見学、文化祭と怒涛のように続く行事に追いかけられながら、気付けば二学期も半分以上が過ぎ、季節はいつの間にか晩秋へと移り変わっていた。
忙しさの中で俺は二十三歳になっていた。
美緒と別れて二度目の誕生日。そして、俺の誕生日の前日は、同じように俺と二つ年の差を開けたまま年齢を重ねる彼女の誕生日だ。
忙しさのお陰で普段は、彼女のことを思い出す暇もなく毎日仕事に追われているけれど、誕生日のこの日だけは忘れようにも忘れることが出来ない。
二十五歳の彼女は今どこで誰と過ごしているのかと考えると胸に痛みが走った。
もう、忘れてしまった方が良いんだと、何度も何度も自分に言い聞かせた。
採用試験がM県しか受からなかったことも、赴任先の小学校が彼女の実家の近くだということも、単なる偶然なんだと分かっている。なのに、そこに何か運命的なものがある様な気がするのは俺の心の中の願望に過ぎないのだ。
それなのに……と思う。
また新たなる願望、否、妄想が頭の中をかすめる。
それは、最近笑顔が柔らかくなった妃先生に感化されているせいだ。
事情を知らないものから見たら、妃先生と木下さんは共通の趣味がある仲の良い友達というところだろうし、木下さん自身もそう思っているだろう。
でも、二人の雰囲気はとてもいいらしい。梶川さんが「最近二人の会話に入って行けないよ」とぼやくぐらいに。それに対して妃先生も木下さんも嬉しそうに笑いながら「だって、読書の秋だから」と答えるらしい。
そんな噂を時々広瀬先生から聞くと、なんとなくほのぼのとした気分になる。もう、想いを伝えてもいいんじゃないかと思うけれど、まだもう少し勇気が溜まったらということらしい。
どこか幸せそうなオーラを漂わせている妃先生を羨ましく思いながら、もしもと、このところ考えてしまうことがある。それはいけない想像だと自分を諌めるのだけれど、頭の片隅でまた、もしもと考えてしまう。
もしも、美緒と再会することがあったとしたら。
もしもその時、彼女がフリーになっていたら。
それは余りにもあさましい願望で、彼女の不幸を願うものだと気付くと、黒板の文字を消すように慌てて頭の中から消しさった。
*****
バレーボールの同好会への誘いは、仕事が忙しくて余裕が無いため断ったが、あれからもう一度、試合の応援に行った。その時の打ち上げで、同好会の存続が危ういかもしれないと聞かされた。
それは、同好会の主なるメンバーの職場である大手電機メーカーの地元工場の一部門が隣県の工場と統合されるかも知れないという噂だった。
もしも統合されることになったら、その部門の従業員は他部署へ異動になるか、他県のどこかの工場へ転勤になるらしい。そして、同好会のメンバーは皆その部門なのだそうだ。
仕事の忙しさでそんな噂も忘れかけた頃、広瀬先生から工場の統合の話が本決まりになり、来年の三月一杯で同好会のメンバー達も転勤するらしいと聞かされた。そして、同好会も解散することになったらしい。メンバーの殆どが抜けてしまっては仕方のないことなのだろう。
「妃先生、どうするのかな?」
片想いの彼と会える場が無くなってしまうことを妃先生はどう思っているのか気になった俺は、思わず口に出していた。
「そんなことより、もっと大変なことがあったんだよ」
「え?」
広瀬先生の言葉は思いがけないものだった。
「妃のライバルが現れたんだ」
「ライバル?」
「ああ、昨日の試合に木下の支店の女の子が二人応援に来たんだよ。どうやらその内の一人が木下目当てみたいでさ」
「それって、木下さんも分かっているんですか?」
予想外の展開に俺は驚きを隠せず、勢い込んで問いかけた。
「木下は鈍いから分かってないと思うよ。でも嬉しそうにしていたから、妃が可哀そうだったな。それに、梶川がその子達を打ち上げにも誘うもんだから、妃は木下と余り話ができないようだったし、その上同好会の解散を聞かされてさ。どう慰めていいやら」
広瀬先生はそこまで言うと溜息を吐いた。
「妃先生、またネガティブ思考になってないと良いけど」
「あいつって、他のことは前向きだし負けん気が強いのに、恋愛事になるとヘタレだよなぁ」
「早く告白しないと先を越されそうですね」
「そうなんだよ。妃にもそう言ったんだけどな。なんだかショックだったみたいでね」
そう言われたら、今日の妃先生は元気が無かったような気がする。
「妃先生も分かっているんだと思いますよ。告白しなきゃ前に進まないことは」
俺はそう言いながら、今回のことがいい切っ掛けになって前に勧めると良いのにな、と考えていた。
「まあ、後は妃次第だからな」
そう、自分が動かなければ何も始まらない。
広瀬先生の言葉に俺は「そうですね」と頷いた。
「話変わるけど、同好会の最後の忘年会を十二月の半ば頃にする予定なんだ。今まで応援に来てくれた人とかも誘おうっていうことなんだけど、どう?」
「いいですね。是非参加させてください」
二回応援に行っただけで、仲間のように迎えてくれるあの同好会のメンバー達に親しみを感じていた俺は、広瀬先生の誘いに二つ返事で了解したのだった。
*****
十二月の半ばの週末に行われたバレーボール同好会の忘年会は、最後だからなのか予想以上の参加者で、お店は貸し切りになっていた。
半数以上知らない顔ばかりだけど、皆異常にテンションが高く、あちらこちらで賑やかな声が響く。
「守谷君、一緒にバレーしたかったよ。せっかくお知り合いになれたのに、残念だ」
絡み上戸の梶川さんの言葉に苦笑しながら「俺も残念です」と返す。
「妃さんの美しい姿ももう見られないかと思うと、悲しいよ」
今度は妃先生に向かって絡み出した梶川さんに、妃先生も苦笑している。
「梶川君、そんなこと言って、向うでさっさと彼女作っちゃうんでしょ」
「そうそう、梶川なんか、すぐに俺らのことなんか忘れちゃうんだろ。薄情な奴だな」
広瀬先生も悪乗りして拗ねてみせる。
「な、何言っているんですか、先輩。先輩のこと、忘れる訳ないじゃないですか。転勤先は隣の県だけど、車で二時間もかからないですよ。しょっちゅう帰ってきますので、また飲みに行きましょう」
慌てて言い募る梶川さんの姿に皆で笑った。
「俺なんかより木下にこそ言ってやってくださいよ。あいつはアメリカなんですから、ちょっとやそっとでは帰って来られないですよ。あいつ、そのうち、青い目の奥さん連れてきたりして」
アメリカ?
梶川さんの言葉に、俺達は固まった。
「おい、梶川。木下がアメリカって、どういうことなんだよ」
すぐに広瀬先生が真面目な顔で問い詰める。
「え? 木下から聞いていないんですか? あいつ、俺らと同じ来年の四月からアメリカへ転勤らしいです」
アメリカへ転勤。
思わず妃先生の方を見ると、唖然としたまま固まっている。
俺はかける言葉も見つからず、目をそらした。
「そう言えば、木下はどうしたんだ?」
「あっ、木下はですね、この前来ていた同じ銀行の女の子達が、このお店の場所が分からないらしくて、迎えに行きましたよ」
「えっ? あの子達も来るの?」
「木下に誘うように言ったんですよ。可愛い子たちでしたよね」
梶川さんが嬉しそうに言う。
そんな梶川さんを一瞥した広瀬先生は、「余計なことを」と呟くように言ったが、梶川さんの耳には届かなかったようだ。
そんな二人を見ながら、妃先生がこのまま何もかも諦めてしまわないかと不安になった。
それはきっと、彼女の恋が上手くいくことが、俺にとっても希望の様なものだったからかもしれない。
何となく居た堪れない空気が漂い始めたけれど、相変わらず空気を読まない梶川さんは、機嫌良くお喋りを続けている。
「木下は帰国子女で、英語はネイティブなんだよ。いいよな、英語がペラペラなんて」
木下さんの過去について何も知らない俺への説明なのだろうと相槌を打ちながらも、何も声を発しない妃先生が気になった。
その時、「こんばんは」と声がかかり、木下さん達がやって来た。木下さんの傍でニコニコと挨拶している女性二人が、例のライバルとその友達なのだろう。
複雑な思いでこの見えない三角関係にハラハラしながら、これ以上妃先生がネガティブになる様な事が起こらないことを祈る。
「おー、木下、待っていたんだぞ。おまえ、広瀬先輩に転勤の話ししていなかったのか?」
いきなりのツッコミで、梶川さんの言動は心臓に悪いよ。
「あー、今日話せばいいかと思って。梶川達も転勤していくのに、俺もと言い辛かったんだよ」
木下さんは申し訳なさそうに言い訳した。
「なんにしても海外転勤なんて、エリートコースなんじゃないのか? 木下、おめでとう」
広瀬先生は気にするなと言わんばかりに、笑顔で祝辞を述べる。
「いやいや、俺はたまたま英語が喋れるから」
「そんなこと無いですよ。木下さんのニューヨーク駐在員事務所への転勤は、この若さでは大抜擢なんですよ。期待されているんです」
木下さんの謙そんを断つように、彼と一緒にやって来た同じ銀行の女性の一人が興奮気味に声を上げた。
その後も忘年会は皆の淋しさを紛らわすかのように賑やかに過ぎていく中、俺は無性に腹が立ってイライラしていた。
目の前でライバルと思しき女性と親しげに話す木下さんにも、それを冷やかす梶川さんにも、そして、一生懸命微笑む妃先生の痛々しい笑顔にも。
「おまえがイライラしてどうする?」
広瀬先生にからかうように笑われたけれど、俺としては出来るだけポーカーフェイスを心がけていたのに、彼の眼を誤魔化すことは出来なかったようだ。
わかっているんだ。
妃先生の恋の成就に、自分のこの想いの希望をかけていることの無謀さを。
それは、妃先生も木下さんも預かり知らぬことで、全く関係ないということを。
それでも手を伸ばせば届く所にありそうな恋に、尻込みしている二人にイライラしながらも、羨ましくて仕様が無かったんだ。




