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あの虹の向こう側へ【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第二章:失恋編
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【六】運命からの伝言

「守谷先生、もう慣れましたか?」

 声をかけてきたのは、二年先輩の岡本香住おかもとかすみという教師だった。

 そう俺は教師になって、もう一ヶ月近くが経とうとしている。

 三月の中頃に赴任先を知らされた時、俺は運命というものの皮肉さをまざまざと実感させられた。それは赴任先が虹ヶ丘小学校だったからだ。そこはかつてアルバイトでお世話になった学童がある小学校であり、美緒の母校だった。

「はい、少しは慣れたと思います」

 四月の初めの歓迎会の時から一番年が近いこともあってか、やけに親しげに声をかけてくる岡本先生が、俺は少し苦手だ。大学時代のように女性に対して不機嫌な態度で寄るなオーラを出せればいいけれど、社会人となってそれはNGだろう。

 誰にでも好印象になる様な笑顔を向け、それでも一定の距離を取りながら、俺は岡本先生に言葉を返した。

 その歓迎会では、新規採用の俺と他校から転勤してきた教師の歓迎会と、他校へ転勤していく教師の送別会を兼ねていた。出ていく者と入ってくる者の挨拶が済むと、辺りはにわかに空気が緩み人々のざわめきに覆われる。こんな場では一番年少の自分が皆に挨拶に回った方がいいのだろうかと思案している内に、女性教師に取り囲まれていた。

 そもそも小学校において、男女比は圧倒的に女性の方が多いのだが、これは大学の入学直後の頃の再現かと、思わず身構えてしまった。

 いつの間にか隣に座っていた岡本先生が「私と一番年が近いし、いろいろ分からないことや不安な気持ちも分かるから、何でも相談してね」とにっこり笑ったのに「はぁ」と戸惑いながら返事をする。すると、前に座ったベテランそうな女性教師が「こんなイケメン先生が来てくれて嬉しいわ。さ、さ、飲んでね」と俺のグラスにビールを注いでくるのを「ありがとうございます。よろしくお願いします」と挨拶をしながら受ける。グラスが少しでも空くと、また別の誰かが「守谷先生、頑張ってくださいねぇ」と注ぎたす。

 俺は誰が誰か分からないまま、挨拶しながら注がれるビールを飲み続けた。

「皆さん、そろそろ守谷先生を解放してあげてくださいよ。それとも酔いつぶして、お持ち帰りするつもりですか?」

 クスクス笑いながら皆に声をかけたのは、俺より三つ年上の広瀬基樹ひろせもときという教師だった。

 広瀬先生の言葉に皆も「やだー、広瀬先生ったら」とクスクス笑った。そして、それぞれ自分の席へと帰って行った。

「さあ、岡本先生も自分の席に戻ってくださいよ。次は男同士の時間ですから」

 他の女性教師が皆去っても、まだ俺の隣に座り込んでいた岡本先生に広瀬先生が言うのを聞きながら、俺は唖然としたまま広瀬先生を見ていた。

「広瀬先生、きさき先生の傍を離れてもいいんですか?」

 岡本先生は立ち上がる様子もなく、反対に挑発的に聞いた。

 俺は岡本先生の言葉で、先程彼女から聞いた話を思い出した。

 妃由梨きさきゆりという女性教師は、男性のみならず誰の目をも引き付ける美しさとオーラがあった。よく『美人過ぎる○○』なんていう見出しをネットニュース等で見かけたりするが、彼女はまさしく『美人過ぎる教師』だった。

 そのオーラに俺もしばし目を引き付けられていると、隣の岡本先生が『妃先生はダメですよ』と釘をさすように言い、『妃先生と広瀬先生はいい感じなんですよ』と意味深な笑いを浮かべて、秘密を打ち明けるようにそっと言った。

 別に俺は下心など無くただ綺麗な人だなと思っただけだったが、岡本先生の言い方はどこか感じの悪さが残った。

「別に俺は妃先生の見張り番でもないけど?」

 広瀬先生が素っ気なく言うと、「他の人に狙われてもいいんですか?」と岡本先生が詰め寄るように言う。

「まあ、彼女はモテモテだから仕方ないんじゃない?」

「でも」

「岡本先生、何か誤解されているみたいだけど、俺と妃先生は高校の時の先輩後輩ってだけだから」

 俺は二人のやり取りをハラハラしながら見ていた。

 結局岡本先生は反論できないまま自分の席へと戻って行った。そして空いた隣の席に広瀬先生がドカリと座った。

「守谷先生もさ、適当に流さないと、本当に酔いつぶれて皆に迷惑かけるぞ」

 そう言われてやっと俺は広瀬先生が俺を助けてくれたのだと分かった。

「すみません。ありがとうございます」

「別にお礼言われる様なことじゃないけど、ここは女性の勢力が強いから、守谷先生みたいにイケメンだと毒牙にかからないかと心配でな」

 そう言いながら彼はクスリと笑う。

 毒牙って……と思いながらも、なんとなくこの学校の雰囲気を感じ、「気を付けます」と少し冗談めかすように笑顔で返した。

「まあ、これからは同じ三年生の担任だし、分からないことがあれば俺に聞くといいよ。下手に岡本先生なんかを頼ったら、後が怖いぞ」

 彼の言い方が可笑しくて俺がぷっと吹き出すと、「いや、マジだから」と彼も笑いながら言った。



 新規採用であっても担任を任されることは、赴任先の校長から連絡を貰った時点で聞かされていた。けれど、教育実習での経験や、先輩から聞いてシュミレーションしていたことは、新学期が始まってすぐに弾け飛んでしまった。先輩達から最初の三日間でしっかり締める所は締めとかないと、一年間子供達に振りまわされるぞと脅されていたけれど、気付けば一週間が怒涛のように過ぎていた。一日一日こなしていくのが精一杯の上に、並行して初任者研修もあり、日々の忙しさは想像以上だった。それでも、学童でのアルバイトが、子供達との接し方や距離感に大いに役立ったと思う。

 子供達一人一人が、学校へ来ること、友達と遊ぶこと、勉強すること、皆で何かをすること、給食や掃除でも何でもいいので、毎日少しでも楽しいと思える瞬間があることを願いながら、日々子供達と向かい合う。結局俺の方が子供達から学び、育てられ、助けられているのだと感じる今日この頃だ。

 先日、初めての授業参観日のクラス懇談で、そんな思いを保護者に話した。大学出立ての新米教師が担任ということで、保護者もきっと不安だろうと思うけれど、一生懸命取り組む姿を見てもらうしかないのだと覚悟している。

 そんな中で、保護者から聞く子供達の担任への評判が概ね良好だったことに安堵しながらも、期待も大きいのだと肝に銘じた。


 教師の仕事は、担任や研修以外にも学校運営に関する仕事を全員で分担して行っている。俺は総務ということで、本年度のPTA本部役員の第一回会議から参加した。そしてそこに見知った顔を見つけて、俺は大いに驚いたのだった。

「フフフ、守谷君、あっ、守谷先生だったわね。虹ヶ丘小学校へようこそ」

 驚く俺を悪戯が成功したように笑ったのは、折原教授の奥様の優香さんだった。

「優香さん、お久しぶりです。俺がこの学校へ来ること、知っていたんですか?」

 俺の問いかけに彼女は肯定も否定もせずただ笑うだけだった。

「折原さん、守谷先生とお知合いなんですか?」

 岡本先生が興味深げに口を挟む。

「主人の教え子なの」

「そう言えば、折原さんのご主人って、M大の大学教授でしたね」

「主人はよくゼミの学生を自宅へ連れてくるので、私も良くおしゃべりするんですよ」

「それで親しいんですね。守谷先生が折原さんを下の名前で呼んでいたので、驚いたんです」

 岡本先生の言葉に優香さんはまたフフフと笑った。

 俺は二人の傍で話を聞きながら、優香さんの意味深な笑い方は誤解を招きそうだよなと内心ヒヤヒヤしていたのだった。

 優香さんは子供が入学した去年から本部役員をしているらしい。たしか子供が幼稚園時代も保護者会の会長をしていたような気がするから、やはりこの場にいるのは彼女らしいことだろう。


 こんな風に始まった教師生活は、一ヶ月近くが過ぎた今もまだ毎日が試行錯誤で、学生の時に想像していた教師の仕事を遥かに凌ぐ忙しさだ。

 美緒もこんな風に大変だったのだろうか。

 ふと彼女を思い出す。

 普段は忙しくて彼女を思い出すことは少ないけれど、彼女の母校であるこの小学校の校区内にある彼女の実家の地名を聞いたり、春の遠足で芝生公園へ行ったり、五・六年生が遠足で森林公園へ行くと聞くと、不意に彼女との思い出が蘇り、胸が詰まることがある。それは妙に甘い拷問のように、キリキリと俺の胸を締め付けていく。

 あの別れから一年以上の時が過ぎ、俺の周りから美緒の名は完全に消し去られている。まるで元々存在していなかったかのようだ。

 あの後の自暴自棄になった時期を過ぎてからの俺は、教育実習、採用試験、卒論と忙しいスケジュールをこなしてきた。感傷なんかが入り込む隙間が無いようにわざと自分を追い込んでいたような気もする。

 それでも小林さんの話を聞いた時は、自分の至らなさに歯がゆい思いをし、何も気付かずにただ幸せボケしていた自分が悔やまれた。

 美緒に仕事上の悩みがあったのかさえも気付かずにいた。想像さえしていなかった。

 今こうして社会人となって、あらためてそのことを考える時、俺は本当にわがままな子供でしかなかったのだと反省する。そして次の瞬間、その反省を生かせるチャンスなど二度と巡って来ないのだと、自嘲気味に笑うしかなかった。

 ごめんな、美緒。

 彼女は俺なんかよりずっと彼女を理解してあげられる相手と出会えたのだから、彼女が幸せならそれでいいじゃないか。そして俺は、思い出の中の彼女から一歩一歩遠ざかるように、だんだんとこの想いをフェイドアウトさせて行こう。

 そんな風にやっと考えられるようになった矢先に、知った赴任先。

 それはまるで彼女を忘れるなという運命からの伝言のように。


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