【五】女性は強し
「皆さん、いらっしゃい」
笑顔で迎えてくれたのは、折原教授のご自慢の奥様。
折原教授がゼミの学生を自宅に招いたのは、秋も深まった十一月の初めだった。これは、毎年恒例で、ゼミの卒業を控えた学生の進路が決まった頃に、打ち上げと称して招いてくれる。
折原教授の自宅を訪れるのは初めてのことでは無く、ゼミ生を自宅に招くのを教授は楽しみにしているようだった。先輩達は、美しい奥様を見せびらかしたいからだとか、パーティー好きな奥様の我儘をきくのが好きなのだとか、面白おかしく話す。噂では、折原教授が准教授時代に学生である奥様に一目惚れしてアプローチしたのだと聞くので、あながち間違いでもないのだろう。
折原ゼミは現在院生も合わせて十二名で、うち卒業を控えているのは学部生、院生合わせて六名だった。俺と同級生の内一人は院へ進学するが、後は教員採用試験に合格していた。院生もそれぞれ企業や公務員に決まっていた。
「進路の決まった皆さん、お疲れ様でした。皆さんの未来に乾杯」
折原教授の音頭で乾杯をした後、いろいろな料理がテーブルに並べられ、賑やかな歓談が始まった。
折原教授の奥様である優香さんは、まだ三十前の美しく聡明で社交的な女性だ。ゼミ生が自宅を訪れると必ず輪の中に入って友達のように話をする。また、折原教授の趣味の写真撮影などを兼ねたゼミのハイキングやデイキャンプなどにも必ず参加して、自然に輪の中に溶け込んでいた。
「守谷君はこちらで教師になるんでしょう? それでもやっぱり来年もまた地元の方の採用試験は受けるの?」
優香さんは進路の決まった学生一人一人に声をかけていく。
そう、優香さんの言うように、俺は自分の出身県の採用試験に落ちたのだった。そして、何の運命のいたずらか、ここM県の採用試験には受かってしまったのだ。
約一年前に実家の両親にM県で教師になると宣言したことは、美緒との別れで反故にしたはずなのに、神様の気まぐれとしか言いようがない。
「そうですね、できれば地元へ戻れるよう、また受験するつもりです」
「働きながら勉強するのは大変だと思うけど、せっかくこちらで教師なるのにいずれ帰ってしまうなんて寂しいわね。私の友達もね、地元のM県と別の県を受験したけれどM県は受からなかったの。それで別の県で教師をしながら毎年M県の採用試験を受け続けて三年目に合格したのだけど、結局結婚することになって帰って来なかった。守谷君もいい人ができたら、帰りたくなくなるかも知れないわね」
そう言ってフフフと笑った優香さんを見ながら、俺は複雑な気持ちになっていた。
そんな日が来るだろうか。それより、俺はここに残ってもいいのだろうか?
ふとそんな思いが脳裏をよぎった。
「そうですね、そんな日が来るといいですね」
俺も小さく微笑んで言葉を返した。
「小林さんは、彼の待つ地元の採用試験に合格してよかったわね」
次に優香さんが声をかけたのは、俺の隣に座っている女子学生だった。
このゼミは折原教授が若いせいか、恋愛話が結構オープンに語られるので、優香さんも彼女の彼について知っていたようだった。
この小林愛美というゼミ生は、高校の時から付き合っていた一つ年上の彼を追いかけて隣県からこの大学へ入り、今年から彼は一足先に地元の中学教師になっていた。彼女はオープンに自分の恋愛というか惚気を話していたので、彼との仲の良さは皆知っていたし、時々ゼミの研究室まで迎えに来ている彼を見かけることもあった。
そんな彼女が優香さんの言葉にビクリと身体を震わせた。
「わ、私、地元へ帰らずにここM県で教師をしようかと思っているんです」
彼女の言葉に皆が一斉に驚き、彼女の方を見た。
確かに彼女は彼女の地元の県とM県を受験し、二つとも合格していた。それでも、彼とのことを知っている皆は、優香さんと同じように地元へ帰るものだと思い込んでいただろう。
それなのに……。
「あ、あの、彼とは別れたんです。やっぱり遠距離の彼女より身近な人の方が良かったみたいで。あ、もう大丈夫ですから。それで、もう地元へ帰らなくてもいいかなって」
小林さんは、皆の視線に驚いたようで、慌てて言い訳のように言い募った。彼女は皆に心配かけたくないと思ってなのか、自嘲気味に笑っている。
「愛美ちゃん、なによ、それ。何もそんなこと言って無かったじゃない!」
彼女と仲の良いゼミ生が怒ったように言う。
「そうよ。彼、真面目そうないい人だと思っていたのに、そんな人だったの?!」
「愛美ちゃんが採用試験で忙しいと思って、二股していたっていうの!」
次々に他の女子学生たちが怒りの声を上げ、ますます彼女は困ったように首をすくめた。
「ち、違うの。私、採用試験に一生懸命になっちゃって、しばらく会わなかったの。彼の方も顧問しているクラブの大会とかあって忙しかったっていうのもあったけど。だから、お互いに自分の都合を優先していたから、お互い様なのよ。それに彼は、合格したのが分かるまで別れ話をするのを待ってくれていたんだと思うし」
小林さんは彼を庇うようなことをいうけれど、ゼミの女子全員がますます怒って「そんなの優しさで待っていたんじゃないわよ。罪悪感があるからよ!」と、ますます厳しく糾弾した。
そんな彼女たちを困惑して見つめながら、俺の頭の中はさっき彼女が言った『遠距離の彼女より身近な人の方が良かったみたいで』と言う言葉がグルグルと回り続けていた。
「皆さん、物事は片方の側面から見ていては、その本質は見極められませんよ。でも、もう小林さんは現実を受け入れようとしているのだから、皆は見守るだけでいいんじゃないでしょうか?」
突然折原教授が口を挟み、皆は口をつぐんだ。
「先生、すみません。皆さんも私のために怒ってくれて、嬉しかったです。先生は私が現実を受け入れようとしていると言ってくださいましたけど、本当は今までずっと現実感が無くて誰にも言えなかったんです。でも今日皆に話すことで、何か吹っ切れたような気がします。皆聞いてくれて、ありがとう」
小林さんは本当に吹っ切れたように笑った。そんな彼女の横顔を俺は眩しい物を見るように目を細めて見つめた。
彼女は本当に吹っ切れたのだろうか?
こんな時、女性の方が気持ちの切り替えが早いのかもしれない。美緒もそうなのだろう。さっさと携帯番号を変えてしまえるぐらいだから。
美緒のことを恨めしく思い出した自分がまた情けなくなり、小さく息を吐く。
吹っ切るなんて程遠い。俺の場合、辛い気持ちや哀しい気持ちや恨めしい気持ちをどうにか心の奥に閉じ込めて蓋をしているだけだ。今みたいに何かの拍子にポロリと零れ出て、まだ胸が苦しくなる。
その日から俺はなんとなく小林さんの様子が気になった。
彼を追いかけて同じ大学に進み、同じ教師を目指し、やっとその夢がかなうという時になって断ち切られた想いを、彼女は本当に吹っ切れているのだろうか?
彼の仕打ちに腹が立たなかったのだろうか?
彼を憎んだりしなかったのだろうか?
もう彼への気持ちは無くなってしまったのだろうか?
他人事になると、次から次へと疑問が浮かんでくるけれど、俺はきっと答えが欲しいのだろうと思う。
この持て余し気味の気持ちの落とし所が分からなくて。
あの打ち上げから一ヶ月ほどが過ぎた十二月の初め、たまたまゼミの研究室で小林さんと二人きりになった。
普段の俺は、恋愛話を周りでしているのを聞くともなしに聞いているが、自分の恋愛話は誤魔化してスルーしてしまう。一言言うことでいろいろ詮索されることが嫌だからだ。それなのに俺は、普段の主義を曲げる程の欲求に勝てなかった。
「小林さん、あの、ちょっと聞いてもいいかな?」
俺が話しかけると、彼女は顔を上げて俺を見ると少し微笑んで「なに?」と首をかしげた。
「あのさ、今頃こんなこと聞くのもどうかと思うんだけど。打ち上げの時話していた彼のことで少し聞いてもいいかな?」
俺の問いかけに彼女は驚いたように目を見開き、そして怪訝な表情になった。
「彼のことって、どんなこと?」
「あのさ、小林さんは彼を恨んでいないの?」
俺の問いかけにやはり彼女はまた驚いた顔をして、そんなことを聞く俺の真意を探るような眼差しになった。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「いや、あの、参考にしたいと思って」
「もしかして、守谷君、彼女と別れようと思っているとか?」
あーそんな誤解をされるなんて。
「そうじゃなくて、ここだけの話だけど、俺も小林さんと同じなんだ。遠距離の彼女に好きな人が出来たからって、別れを告げられたんだ」
俺が正直に話すと、彼女は過去最高に目を見開き、驚きの声が出るのを遮るためか、手で口を押さえた。
「守谷君を振る人がいるの? ってか、守谷君の彼女って遠距離だったんだ? 守谷君なら彼女ぐらいはいると思っていたけど、全くその辺ミステリーだったでしょう? 遠距離の彼女なら、見かけること無いものね。もしかして、地元の人? 振られたのって採用試験の前? 地元の試験ダメだったのはそのせい?」
はぁー、これだから言いたくなかったんだ。
彼女の瞳は好奇心で輝き、次から次へと質問を繰り出してくる。俺は大きく溜息を吐いた。それでやっと彼女が我に返ったのか、「あ、ごめん。私が質問されていたんだったね」と苦笑した。
それでも彼女は俺が正直に話したことで親近感がわいたのか、その後は俺の質問に答えてくれた。
「彼のことは恨んでないって言えば嘘になるかもしれないけど、でも、やっぱり恨めないっていうのが本当かな。私、彼とは長い付き合いだったから、甘えきっていたんだと思う。彼を思いやることが出来ていなかったの。彼は社会人になってとても大変だったみたいで、それでも採用試験を控えている私に愚痴や弱音を言えないと思ったらしくて。今思えば四月以降、彼は少し疲れた感じがしたけど、社会人だから大変だなって思ったぐらいで、彼の本当に大変さを想像することもできなかった。それどころか、採用試験のこととかで自分の不安ばかり彼にぶつけて甘えていた。だから彼は身近な人を頼ったんだと思う。職場の一番年の近い先輩にいろいろ相談に乗ってもらったり、アドバイスしてもらったり、励ましてもらったりして、何とか教師の仕事に慣れていったそうなの。そして彼はその先輩に、先輩後輩という以上の気持ちを持ってしまった。彼は本当に真面目で誠実だから、そんな気持ちを持ってしまっただけでも私への裏切りだと思ったみたいで、それで……」
彼女はそこまで言うといろいろ思い出してしまったのか、その先を言い淀んだ。
「わかった。彼はそんな自分が許せなかったんだね?」
「そう、私はまた気持ちが戻るまで待つからって言ったんだけど、もう前と同じ気持ちには戻れないからって……」
「ごめん。いろいろ辛いこと聞いて」
「ううん。いいの。もう吹っ切れたつもりでいたんだけど、やっぱりあの時のことを思い出すとダメね」
彼女はそう言うと自嘲気味に笑った。
やはり吹っ切れていないのか? でも……。
「悪かった。いろいろ思い出させて。でも、地元へ帰るって聞いたんだけど?」
「あ、そうなの。あの打ち上げの日に後から優香さんに言われたのよ。一時の感情で決めるのじゃなくて、先のことまで考えて決めた方がいいって。それでいろいろ考えて、両親も帰っておいでって言ってくれるし、これからずっと教師を続けたいと思っているから、たとえば結婚して子供が出来たりしたら、実家に助けてもらえるかな、なんてことも考えたりして」
彼女の話を聞いて、やはり女性は現実的でしたたかだと思った。さっきの辛そうな顔からの切り替えが早い。
「でも、彼も教師だと会うこともあるんじゃないの?」
「まあね。最初はそれが辛いから帰るのを止めようと思ったんだけど、でもね、仕事を頑張っていい女になって、彼に再会したらもう一度惚れさせてやろうなんて思ったりしてね。なんちゃって」
驚いた。やっぱり女性は強い。
「それは、それは、恐れ入りました」
笑っている彼女に俺も笑って返した。
「守谷君の方こそどうなのよ。やっぱり来年も地元の採用試験を受けるの? 彼女地元にいるんでしょう?」
「いや、違うんだよ。彼女はこの県出身でね、公務員で今職場がK市なんだよ。だから本当は、こちらで教師になるつもりだったんだけど、三月に振られて、それでも滑り止めのつもりでM県の採用試験を受けて。まさか地元の採用試験に落ちて、こちらが受かるなんて思って無かったからなぁ」
俺は小林さんがいろいろと話してくれたからか、いつもなら話さないことまでしゃべっていた。
「K市なら、遠距離だね。私の実家へ行くのと同じぐらいの距離かなぁ。そっか、守谷君はまだその彼女のこと、諦めきれないんだ?」
「諦めきれないっていうか、まだどうしてこうなったか分からないんだよ。やっぱり俺も彼女の仕事の大変さを分かってやれていなかったからかなぁ」
小林さんの話を聞いて思ったのは、俺は美緒の一面しか見ていなかったということ。俺といる時の彼女しか知らなくて、彼女が過ごす時間の中で一番長い仕事をしている彼女のことは何も分からないし、理解していなかった。
それじゃぁ、負けるよな。
「守谷君がフリーだってわかったら、女性からのアプローチが増えるんじゃないの?」
小林さんがからかうように言うので、俺は慌てて「今日話したことはオフレコでお願いします」と頭を下げた。
「仕方ないな。自販機のココアで手を打つわ。まあ、守谷君の貴重な恋愛話を聞けて、失恋した甲斐があったかな」
そう言って笑う小林さんに笑い返しながら、俺はつくづく女性のしたたかさを実感していた。