【四】心の穴
「慧君、美緒ちゃんと何があったの?」
兄が来ていた次の週末、兄から帰省命令が出て、俺は渋々帰って来た。両親は俺を痛そうな目で見つめるだけで、何も言わなかった。けれど、兄嫁である義姉だけは、お節介にも俺の一番痛い部分に踏み込んできた。
「知らないよ。こっちが聞きたいぐらいだよ。いきなり好きな人が出来たからって連絡を断たれたんだ。携帯も変えたみたいで連絡取ることもできないし、居場所も分からないんだ。もう訳が分からないよ。俺が一ヶ月実家へ帰っている間に、全てが変わってしまったんだ。いったい何を信じればいいか分からないよ」
俺は耐えきれなくなって胸に溜まっていたドロドロした物を吐き出した。
義姉は顔を歪めて悲しそうな顔をした。
「慧君……」
「俺が何をしたっていうんだ。俺の何が悪かったんだ。誰も信じられないよ。女なんて……。もう何もかも無かったことにして、全て忘れてしまいたいんだ」
「慧君、慧君の想いって、その程度のものだったの?」
「な、なんだって?」
俺は義姉の言葉に憤慨した。その程度ってどういうことだよ。
「美緒ちゃんへの想いも、美緒ちゃんとの思い出も、全て忘れてしまえる程の想いだったの?」
俺の睨みなど跳ね返す程の真剣な眼差しが、俺に問いかけた。
「忘れられないから、苦しんでいるんだろ?!」
彼女の眼差しから逃れたくて、俺は言い捨てるとそっぽを向いた。
俺の触れられたくない所まで、彼女の眼差しは切り込んでくる。
「じゃあ、無理に忘れようとしなくてもいいじゃない。本気で好きだったんだから、好きのままでいいじゃない。簡単に消える様な想いじゃないんでしょう?」
「ああ、そうだよ。簡単に消えないよ。忘れられないよ。でも、美緒は、俺のことなんか忘れて、俺への気持ちも消えてしまったんだよ」
俺はそう言うと、机をドンと叩き、頭を抱え込んだ。
「慧君、落ち着いて。慧君の気持ちは慧君のものだよ。美緒ちゃんの気持ちは関係ないの。慧君の気持ちは誰にも止めることも、消すことも出来ないんだから。お酒なんかに逃げないで無茶しないで。正々堂々と美緒ちゃんのこと想っていればいいじゃない。慧君だって、美緒ちゃんの幸せが一番の願いでしょう?」
義姉の言葉に俺は顔を上げて、彼女の方を見た。やはり真剣な眼差しに、心配してくれている気持ちが込められていて、俺は何とも言えない気持ちになった。
「わかっている、わかっているよ。わかったから、もう俺の部屋から出てってくれよ。もう無茶はしないから」
俺は立ち上がって、義姉をドアから押し出した。
もうこれ以上情けない自分の姿を見られたくなかった。
美緒の気持ちにばかりこだわって、辛さから逃げようとしていた自分が恥ずかしくなった。
そうだ、わかっているさ。
美緒が笑っていてくれるのが一番だと。
彼女が幸せになることが一番だと。
ただ、それを俺がしてあげられないことが辛いんだ。
翌日、俺は両親と兄夫婦に「彼女は運命の人ではなかったから別れたんだ」と話をした。皆は義姉から聞いていたのだろう。それ以上は何も聞いてこなかった。そして俺は「もう、無茶なことはしない」と皆に約束した。
*****
俺の心の開いた大きな穴は、日常の中でだんだんと俺の一部となっていった。
ゴールデンウィークには、いつものメンバーで集まり、いつものように騒いだ。美緒と出会う以前から変わらぬ仲間に俺は救われる。そして、綾瀬にだけは本当のことを話した。アイツは驚いていたけれど、「まあ、いろいろあるけど、俺達はずっと友達だから」とそれ以上聞かずに笑った。
連休が終わると、教育実習そして教員採用試験へと感傷に浸る間もなく日常は進んでいく。そんな合間にサークルへと顔を出すと、子犬の様な安藤がしっぽを振ってまとわりつく。「先輩、先輩」と嬉しそうに呼びかけてくる彼女を見ていると、いつの間にか笑顔になっている自分に気付く。
「守谷先輩、なんだか前よりも元気になって来たような気がします」
教育実習を終えてまた大学へと通い出した頃、いつも元気な安藤にそんなことを言われた。
安藤曰く、最初の頃の俺は笑っていてもどこか淋しそうだったらしい。こいつは思いの外鈍くないようだ。
「おまえの元気には負けるけどな」
「はい、元気だけが取り柄ですから。よかったら私の元気、注入しましょうか?」
「いらないよ。おまえの元気なんかもらったら、後で余計に疲れそうだからな」
「そんなこと無いですよぉ」
口をとがらせて拗ねたように言う安藤を見て笑っていると、彼女は何かを思い出し急に真面目な顔になった。
「そう言えば先輩って、採用試験を受けるのは出身県だけですか?」
「いや、ここM県も一応受けるつもりだけど」
本当はM県を受けるかどうか迷ったんだ。でも、一か所だけでは不安で、だからと言って全然知らない県を受ける気にもなれず、やっぱりM県も受けることにしたのだった。
「でも、両方受かったら、やっぱり出身県の方へ行くんですよね?」
「まあ、そうなるだろうな」
「そうしたら、来年の四月以降は、もう先輩に会えなくなる可能性の方が大きいんですね。寂しいです」
安藤が捨て犬のように寂しげに言った。
そうだ、この県を離れたら、美緒を見ることはもう一生無いのかもしれない。
だんだんと美緒が遠くなっていく。そしていつか忘れてしまうのだろうか。
彼女は今、笑っているだろうか?
彼女の笑顔で、彼女の大切な人は癒されているのだろうか?
どうぞ彼女がいつまでも笑顔で過ごせますように。
俺は大学からの帰り道、雨上がりの空に架かった虹を見て、小さな声で祈っていた。