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あの虹の向こう側へ【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第二章:失恋編
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【三】幻惑の夜

「隣の席、いいですか?」

 俺はチラリと声のする方を目だけで一瞥すると、聞こえなかったかのように無視をする。それなのに図々しい女は無言を肯定と受け取ったのか、スルリと隣の席に座った。

「先週の週末も来ていたよね? いつも一人なの?」

 薄暗いバーのカウンターで、隣の女はしなを作って擦り寄ると、やけに馴れ馴れしく話しかけて来た。

 空気の読めない女に、心の中で舌打ちしながら「一人にしてくれないかな?」と低い声で警告する。

 ここで、こちらの心情を汲んで引く奴もいるが、今回はどうにも自分本意な女のようで「そんなこと言わないで、この後二人きりになれる所で飲まない?」などと言い出す始末だ。

「うるさいな、放っておいてくれないか」

 冷たい視線と少し語気を強めた言い方でようやくこちらのまとう負のオーラに気付いたようで、その女は「ちょっと顔が良いと思って、お高くとまって。何様よ」と捨て台詞で行ってしまった。

 女なんか、女なんて。

 心の中で悪態を吐こうとすると、甦るあの日のアイツの泣きそうな顔。

 自分から別れを告げておきながら、罪悪感で辛かったのか。

 忘れたくてグラスを重ね、酔いが回るに付け全てがどうでもよくなっていく。

 人々のざわめきと紫煙とグラスのかち合う音と……。

 次々と声をかけてくる女達を適当にあしらいながら、だんだんと回る酔いに身を任せる。

「ねぇ、なんて名前なの?」

 さっきからしつこく話しかけてくる女の問いかけに、酔った頭が無意識に「けい」と答えていた。

「けい、って、カッコイイ名前ね。どんな字を書くの?」

「アルファベットのK」

 しつこい問いかけにうんざりしながら、いい加減な答えを返す。

「なによ、それ」

 女は可笑しそうにケラケラと笑った。


     *****


 週末に夜の街へ出るようになった最初は、大学の入学式の前日で、夜中に帰った俺は案の定サークルの勧誘の手伝いをすっかり忘れていた。

 しっかり者のリーダーに電話で起こされ、慌てて大学に駆け付けた。二日酔いと寝不足で使い物にならない俺に、「そこに座っていてくださるだけでOKですから」などとシラっと言える辺りが、今のリーダーのリーダーたる所以だろう。おまけに翌日からの勧誘に協力することまで約束をさせられてしまった。

 四年生になった俺は、殆どの単位を取得済みであることと、アルバイトを止めたことで時間を持て余していた。だから、サークルの勧誘にしぶしぶ駆り出されている様なフリをしながらも、することがあるのは有難かった。

 とにかく今は何かしていないと、僅かの隙間にも封印しきれない記憶が入り込んでくる。それが苦しくて、一人になることを極力避けて、以前にも増してサークルの勧誘に励んでいると、後輩たちが感動の眼差しで感謝の言葉を述べた。

「守谷先輩って、素っ気ないようでいて、本当はとても優しくて思いやりのある人なんですね。本当に助かります」

 そんな風に感謝されることがどうにも居心地が悪かった。

「守谷先輩のお陰で、今年も沢山入ってくれそうです」

「俺でもまだ餌として役に立ったか?」

「おおいに立ちましたよ。出来ればこれからもサークルに顔を出してください」

「暇な時は覗きに来てもいいけど、今年の一年はなぁ」

 俺の言葉にリーダーは「元気いいですよね?」と笑った。

 俺は入学式からの一連のサークル勧誘時のことを思い出しげんなりした。

 去年までの新入生はもう少しわきまえていたと思う。今年の新入生は、俺が素っ気ない冷たい態度をとっても、寄ってくるなオーラを漂わせても、まったく通じなかった。

 その代表の様な新入生は安藤詩織あんどうしおりと言って、俺が「寄ってくるな」といっても「先輩、先輩」とまるで子犬のようにしっぽを振って嬉しげに駆け寄ってくる。おまけに同じ教育学部の学生なので、サークルの時だけでは無く、キャンパスで見かけても同じように寄ってくるのだ。

 それでも他の近寄ってくる自信ありげな女子と違って秋波を感じることもなく、ただ純粋に飼い主に懐くように、振っている尻尾が見えるかのようだった。

 だからだろうか、安藤はどこか憎めなかった。俺のすさんだ心が彼女の無邪気さに救われることもあったのだ。


          *****


「慧、金曜の夜、おまえの部屋へ泊めてくれないか? そっちで土曜日の朝から仕事で行かなきゃならない所があるんだ」

 兄から電話があったのは、週半ばだった。

「金曜の夜は俺の帰りが遅いかもしれないけど、合鍵持っているんだろ。勝手に入ってくれていいから」

 俺の部屋の鍵は一つ実家へ預けてある。家族がこちらへ来た時に泊まれるように、学生にしては部屋も大きめにしたのだった。

「でも、美緒さんは泊りに来ないのか?」

 兄の問いかけに胸が詰まった。思わず俺は「来ないよ」と答えていた。

 まだ、家族には言えない。運命の人だと言った彼女と別れたことは。

 週末になるとやはり俺は夜の街へと出かけた。もはや習慣となってしまっている。嫌な記憶を忘れたくて飲んで酔って、帰って来たのは夜半過ぎ。玄関に兄の靴があったから、いるのだろうと思いながらも、もう眠っているだろうとそのまま寝室へ向かいベッドに倒れ込むようにして眠った。

 目覚めた時はもうお昼前で、兄はもうすでに出かけた後だった。

「慧、起きたか? おまえ、美緒さんが来ないと思って遅くまで遊び歩くのはどうかと思うぞ」

 お昼過ぎにまた兄から電話があった。

「放っておいてくれよ」

「それより、今日は美緒さん来るのか?」

「なんだよ、美緒、美緒って。来ないよ」

「なんだ、来ないからそんなに機嫌悪いのか? 実はな、こっちで今日の夜接待することになって遅くなりそうだから、また泊めてもらおうかと思って、さ。美緒さんが来るのなら遠慮しなきゃと思っていたんだよ」

「勝手に来て泊ればいいだろ?」

「何怒っているんだよ? 今夜はおまえもいるんだろ?」

「わからないよ」

「毎晩飲み歩くなんて飲み過ぎだぞ」

「わかったから、勝手にしろよ」

 俺はそれ以上話をしたくなくて、電話を切った。

 又美緒の話題が出たら、どう誤魔化せばいいか分からないからだった。


           *****


「ケイ」

 聞き慣れた声が俺の名を呼ぶ。酔った頭でもこの声だけは聞き逃さなかった。思わず振り返ると薄暗いバーの中で逆光のシルエットは彼女のものだ。

「美緒」

 俺は彼女の名を呟いて立ち上がった。彼女に誘われるまま後を付いていく。

 美緒、美緒、戻って来てくれたのか。

 抱きしめたい。抱きしめて彼女だと確認したい。

 それでも、こんな所で抱きしめたら彼女は嫌がるだろうか。

 俺はフラフラと酔いで覚束なくなった足を何とか交互に前に出す。よろけそうになって彼女の腕が俺の腕に絡みついた。まだ周りに人が沢山いる所で、そんなことをする彼女を不思議に思いながらも、ただ嬉しくて……。

「ケイ、二人きりになれる場所へ行きましょう」

 ああ、そうだ。俺の部屋へ行こう。美緒のいないあの部屋は寂し過ぎるんだ。

 俺はふらつく足で自分の部屋の方へ向かって歩き出した。

 相変わらず彼女は俺の腕に自分の腕をからませて何やらしゃべっているけれど、よく聞き取れない。

 突然彼女がちょっと待ってと離れて行った。知らない誰かと喋っているようだ。

 戻ってきた彼女がこちらだと俺を誘う。人通りが途切れた所で、俺は彼女を抱きしめた。

「美緒、美緒」

「やだ、私は美香よ」

 その返事に驚いて、改めて彼女の顔をよく見たら、全然知らない女の顔だった。

 美緒と同じ声。美緒と同じ髪型。それだけだった。

 俺は思わず突き飛ばしていた。

「きゃー、何するのよ」

 よろけた女が声を上げる。

「おまえは誰だ?」

「だから、美香だって言っているでしょ」

「おまえなんか知らない。あっちへ行ってくれ」

 俺はすっかり酔いがさめ、体中が冷えていった。

「なによ。誘いに乗って付いて来たくせに、女に恥をかかせる気?」

「そんなの知らない」

「皆の前でケイとお店を出てきたんだから、あなたと寝たって言うから。それでこちらから振ったって言うから。ここまで付いてきたんだから、そのぐらい言わせてもらわないと女のメンツがかかっているのよ」

「勝手に言えばいいだろ。俺は何も言わないよ」

 女は怒って去って行った。

 俺はしばらく佇んだまま、自己嫌悪に陥っていた。

 もう、美緒は戻ってこない。

 分かっていたことなのに。

 バカだな、俺。

 酔いの冷めた頭であの淋しい部屋に返りたくなくて、俺は再び夜の街を彷徨った。


 明け方近くになってから、俺は部屋へ戻った。

 全てを忘れるまで酔いたいのに、ちっとも酔えなくて、頭の中の美緒が消えてくれない。

 台所で水を飲んでいたら、兄が起きて来た。

「慧、昨日に続いて、また飲んで来たのか? 飲み過ぎだぞ。美緒さんが心配するだろ」

「美緒は……もう、いないんだ」

「え? なんて言った?」

「美緒は行ってしまったんだ。もう戻って来ないんだ」

「おまえ、何言っているんだ」

「もう俺達は別れたんだよ」

 俺は言い捨てると、寝室へ逃げ込んだ。兄が俺を呼んでいたけれど、追いかけてはこなかった。




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