【十一】未来へ
就職するにあたり車を購入することにした彼女は、俺と一緒に中古車店巡りをした。彼女の希望は中古の軽自動車だけれど、彼女が気に入ったのは、見かけは軽自動車並の大きさのローバーミニ(ミニクーパー)だった。
現在のBMWミニとは違い、デザインは小さくてクラシカルだけれど、正真正銘の普通車だ。おまけに外車だし。だから、本気で買うなんて思いもしなかった。
彼女が買ったミニクーパーはボディがネイビーで屋根だけが白いツートンで、古い年式のためか、パワーステアリングもブレーキのアシスト機能もなく、女性には少し重いハンドルと硬いブレーキに、彼女は最初かなり戸惑っていた。
けれどしばらくすると、すっかり慣れたのか、彼女は嬉しそうに話してくれた。
「ジュディはね、頑固で真面目でお堅い所があるけど、とっても可愛くて私の良い相棒なのよ」
そう、彼女は初めての愛車に名前まで付けていた。イギリス生まれのちょっと年のいった女性らしい。そしてハイオクしかダメな所も、美食家なのよと笑っている。
彼女は自分が良いと思ったことは柔軟に全てを受け入れていく。便利な機能が付いていない車も、年下の俺のことも。彼女が相棒だというジュディに、俺は勝てるだろうか?
そして、やがてジュディは、二人を繋ぐ虹の橋となっていくのだろう。
ジュディ、美緒のこと、よろしく。ついでに、俺のこともお手柔らかにね。
辞令が下りて彼女の勤務地が車で三時間もかかるK市だと分かった時、俺は動揺しなかったと言えば嘘になる。
だいたい東京大阪間でも、新幹線なら三時間弱の距離だ。
「遠距離恋愛」という言葉が脳裏をかすめたけれど、やはり同じ県内だということが遠距離という淋しさを弱めてくれる。けれどそれ以上に、彼女との絆に、物理的距離を凌ぐ何か確かな手ごたえを感じていたんだ。
彼女は社会人になってから、週末はジュディで俺の所へ帰ってくる。俺の所と実家と半々ぐらいの割合で泊まってくれる様になったけれど、彼女の中でメインはどちらだろう?
あのバレンタイン以降、俺の所へ泊ったという事実が、彼女の中の何かのラインを緩めたのか、又は彼女のお姉さん公認になったせいか、彼女が時々泊るようになった。そんな事実が二人の間にある物理的距離の前でも怯まない絆を育てていったのか。
それでも彼女にばかり毎週三時間の道のりを往復させるのが忍びなくて、俺の方から彼女の所へ行くことを提案してみたが、職員住宅だからダメだと言われてしまった。
考えてみれば、独身女性が男を連れ込んでいたら、良い風には思われないよな。
こんな時、自分がまだ学生だということがもどかしくなる。社会人になってしまえば、この二年の年の差なんて感じなくなってしまうだろうに。焦っても仕方ないと思いながらも、親のすねをかじっている自分と、自立している彼女との差を感じてしまう。
せめてと思い、彼女を途中まで迎えに行くことを提案してみた。彼女の住むK市の手前の駅まで彼女に電車で来てもらい、その駅まで車で迎えに行く。そうすれば少しでも長く彼女といられる。
「週末はジュディとのドライブタイムなんだから、取り上げないで」
彼女は普段はほとんど車に乗らず、自転車で通勤しているらしい。だから、ジュディを運転するのは週末だけということらしいのだが……。なんだか、微妙な感じ。やっぱり俺、ジュディに負けている?
社会人の彼女には、俺の窺い知れないストレスもあるのだろうと思う。そんなストレスをジュディとのドライブタイムで少しでも癒されるのなら。本当は俺が彼女の癒しの存在になれていたらいいのにと願っているのだ。
そんな彼女が仕事で帰って来られないある週末に、彼女から写メールが届いた。それは、綺麗な虹の写真だった。あの『にじのおうこく』に出て来た大切な人の元へ架けた七色の橋のように、とても大きくて綺麗な虹。
『慧の元へ虹の橋を架けたよ』
彼女に会えない週末だって、彼女とこうして繋がっているのだと、その虹の写真は教えてくれたような気がした。
やがてこちらで降っていた雨も上がり、太陽が雲の隙間から現れたかと思うと、同じような大きな虹が現れた。まるで、本当に彼女が魔法で虹の橋を架けたように。俺は夢中になって虹の写真を撮り、写メールを送ったんだ。
『美緒の虹の橋は、確かに架かったよ』
*****
彼女が社会人になって最初の夏、俺は彼女をキャンプに誘った。
子供の頃からアウトドア好きの両親に連れられ、夏のキャンプは恒例行事だったから、なんとなく夏になるとキャンプへ行きたくなる。
七色峡キャンプ場へ向かう車の中、スキーの時と同じように彼女のテンションが徐々に上がっていくのが分かる。まるで子供のように、ワクワクしているのがこちらまで伝わってくる。
キャンプは小学校以来だという彼女は、その時はバンガローだったのでテントは初めてだと、嬉しそうに話す。
実家から借りてきたキャンプ用品を車から降ろし、テントを張り、ターフやバーベキューコンロ・テーブルをセッティングする俺を手伝う彼女は、本当に子供のように楽しそうだ。
こんな風に彼女が初めて体験するいろいろな場面に立ち会えたらいいなと思う。ニコニコと嬉しそうにバーベキューの準備をする彼女を眺めながら、俺はそんなことを思っていた。
清涼な山の空気、美味しい食事、彼女と過ごす時間、満天の星空、カンテラに照らされた彼女の横顔。どれもがみんなキラキラして、今までと違うキャンプに俺は満たされていた。
カンテラの灯りを挟んで、俺達は夜空の元、いろいろな話をした。子供の頃のキャンプの失敗談や家族で行った旅行の話。
「仲がいい家族なんだね」
彼女のその言葉で俺はやっと思い出したんだ。彼女の両親はすでに他界していることを。
俺は思わず「ごめん」と言ってしまった。
彼女の驚いた顔を見て、その謝罪も間違っていたことに気付いた。それでも彼女はフッと表情を和らげると、「私の家も家族仲がいいんだよ」と微笑んだ。
ああ、やっぱり俺は美緒には敵わないなと、こんな時思うんだ。
「でもね、父が亡くなってからずっと母は苦労しっぱなしで、旅行とかの娯楽を楽しむ余裕がなかったから、私が働くようになったら、母をいろんな所へ連れて行ってあげようと思っていたの。それが間に合わなかったことが残念で……」
彼女はそう言うと夜空を見上げた。
彼女の父親は小さい頃に亡くなり、ずっと母親が一人で彼女たち姉妹を苦労して育ててくれたそうだ。その母親も、彼女が大学二年の時に職場でくも膜下出血を起こし倒れ、亡くなったらしい。
「美緒がいろんな所へ行って楽しく過ごせば、きっとご両親も嬉しいと思うよ。美緒が楽しく笑顔で過ごすことが、両親の一番の願いだと思うから」
俺は生意気かなと思いながら言うと、彼女が少し驚いた顔をしてこちらを向いた。俺が少し照れて笑うと、彼女も「そうだね」と笑ってくれて、ホッとしたんだ。
「実は、俺も親父から言われたんだ。俺、結構お祖母ちゃん子で、小学一年の運動会前に絶対に一番を取るから見に来てって祖母と約束したんだ。だけど、祖母はその前に亡くなって、見てもらえなかったことが悔しくて泣いていたら、『お祖母ちゃんは慧のこと見ていてくれるから、慧の頑張る姿を見て喜んでくれているから』って……」
俺は言いながら恥かしくなって、視線を夜空に向けた。隣で彼女がクスッと笑いながら「うん、ありがと」って言って、また夜空を見上げた。
「今はね、お母さんにしてあげられなかった分をお姉ちゃん夫婦やたっ君にしてあげたいの。冬にボーナスが出たら、温泉でも誘おうかなぁ」
彼女は夜空を見上げたまま、独り言のように言う。それを聞きながら、その温泉行きには、俺は入っていないんだろうなと思ってしまう。
彼女にとって家族が一番なんだろうな。俺も家族になったら……と考えて、はたと我に返った。
家族だなんて、それは結婚ということで、まだ二十歳の俺には、現実味も実感も無い遠い未来のことだけど、まったく考えていない訳でもない。
彼女の誕生日と俺の誕生日が一日違いと分かった時、彼女は運命の人かもしれないと思ったのだ。運命の人だなんて、すっかり母親に感化されているよな。
それでもその時、いつか彼女と結婚できたらいいなと漠然と考えたんだ。
彼女と家族になる。そして、子供が出来て、こんな風に家族でキャンプに来られるといいな。俺が経験して来た楽しいこと全てを、美緒や子供達に味あわせてやりたい。
一人妄想に耽りながら、夜空を見上げる彼女の横顔を盗み見た。凛としたまっすぐな瞳は、自立した女性のもの。まだまだ今の俺には、プロポーズまがいの言葉など言えない。
けれど、いつか。きっと、必ず。
俺は密かな想いを胸に、夜空の星に誓った。
翌日の早朝、気持ちの良い山の朝の空気の中、俺達は散歩に出かけた。川沿いの遊歩道が川から離れて森の方へ曲がった辺りから、道を外れてそのまま川沿いを歩いていくと、川は流れが急な水遊び禁止区域になる。上流のせいか大きな岩があちらこちらに転がっていて、子供達が遊べる人工的な河原と違い、自然のままの河原が続いていた。キャンプに来ている人がこの辺にも入り込んでいるのか、道は無いけれど獣道の様に、草が踏まれて通りやすくなっている。
ゆっくりと慎重に歩いていくと、小さな滝(滝とは言えない程の川の中の落差による水が垂直に落ち込む所)がある場所にたどり着いた。
俺達は近くの岩に腰掛けると、その水が落ちる様を見つめた。早朝の静寂の中、落ち込む水音が響いていく。俺は決意したように彼女に向き直った。
「美緒、俺、来年の教員採用試験はこのM県を受けようと思うんだ」
「えっ?」
いきなりな話だったせいで、彼女は目を丸くして俺を見つめた。
「卒業したら実家へ帰らなくていいの?」
「実家は兄さんが継いでいるし、俺の夢は教師だから、どこで先生になっても両親は何も言わないと思うよ」
彼女は一生の仕事として県職員を選んだのだから、彼女の傍にいるにはこの県で先生にならなくてはいけない。
「そっか」と呟くように言った彼女が、嬉しそうに笑った。
「だから、これからも宜しくお願いします」と俺が頭を下げると、彼女は「ええっー」と驚いたように声をあげた後、クスクスと笑い出した。
「慧がそう決めたのなら、私は受け止めるだけだから。無事に先生になれるよう祈っている」
笑った後やけに真剣な顔になったかと思うと、彼女があんなことを言うから、俺は居ても立ってもいられなくなり、彼女の手首を掴むと立ち上がり引き寄せた。
「祈るだけじゃなく、応援して」
額同士を合わせて、甘えるように言うと、また彼女はクスクス笑って「もちろん」と答えてくれた。俺は彼女をしっかりと抱きしめ、小鳥の様についばむ様なキスを何度も繰り返し、この腕の中の幸せを実感していたんだ。
秋になると、俺は彼女を実家へ連れて行き、家族に紹介した。俺が「運命の人」だなんて言うから、彼女は驚いたように俺を見て、俺の家族の手前だったから慌てていた。けれど、俺の家族は「運命の人」大歓迎だから、すんなりと彼女を受け入れてくれた。
「慧は早くに運命の人に出会えてよかったな」と兄が言うと、お義姉さんが彼女に「運命の人にされちゃうと、もう逃げだせないわよ」なんて言うから、俺は「当たり前だよ。逃がすはず無いだろ」と言い返した。そんな俺達のやり取りを見ていた彼女は、少し照れたように笑っていた。
そして、M県で教師になると宣言した俺の決意を、両親は喜んでくれた。
俺の前には明るい未来が開けていた。それはどこまでも真っ直ぐで、彼女と共に歩む未来だと信じていたんだ。