【一】運命の人
本日より連載を始めますので、どうぞよろしくお願いします。
「なぁ、慧は本気で誰かを好きになったことがあるか?」
ある日突然、こんなことを聞いてきたのは、五つ年上の兄だった。
「えっ?」
俺は思わぬ問いかけに聞き返した。
「だから、本気の恋をしたことがあるかって聞いているんだよ」
本気の恋?
目の前の兄の口から出た言葉とは思えず、俺は「はぁ?」と惚けたような返事をしていた。
兄は、男の俺から見ても整った顔をしている。俺だって、人から何とかいう俳優に似ているだの、モデルでもやれそうとか、イケメンとかいろいろ言われるけど、兄の場合はそういうのを超越している。しいて言えば、貴公子?
最近よく何とか王子というネーミングを聞くことがあるけれど、ちょっとイケメンで何かに秀でていれば、すぐにマスコミは何々王子と言い出す。だけど兄の場合、マスコミのいう何とか王子とは、ちょっと違うと思う。
それというのも、先祖返りというのか、クォーターの母親の血筋を濃く受け継いだのか、兄の瞳の色はグレーで光の加減でブルーに見え、鼻筋が通り、切れ長の目は彫が深く、どこかノーブルな雰囲気を漂わせていた。
「なぁ、慧は運命の人っていると思うか?」
俺が驚いたまま返事をせずにいたからか、兄は痺れを切らして別の質問をして来た。
いったい何が言いたいのか。
「運命の人って?」
運命の人と言って思い出すのは、両親がいつも言っていた言葉。
『私達はお互いに運命の人で、運命の出会いをしたんだよ』
それこそ耳にタコができるぐらい聞かされた両親の出逢いの話。
「両親が良くお互いの事を運命の人だと言っていただろう? それを聞いて、僕にも運命の人がいるのだろうかって思っていたんだ。でも、今まで出会った女性や僕の周りにいる女性に運命を感じるような人はいなかった。それが、最近、運命の人だと思える女性に出会ったんだ」
え?
運命の人に出会った?
「それで、兄さんはその人と付き合っているの?」
俺は驚きながらも、どうにか質問を返すと、兄は途端に顔を歪めた。
「それは……。彼女が鈍すぎるのか、僕のアプローチに気づいてもらえないんだ」
ええっ? 兄さんのアプローチになびかないどころか、気づかない?
それって、まるっきり眼中に無いってことじゃ……と思ったけれど、兄の苦悩に歪む顔を見たら、何も言えなかった。
その時はそれ以上兄と話をするのが居た堪れなくなって、明日テストがあったんだとか誤魔化して、自分の部屋へ逃げ込んだ。
それでも兄の母校でもある高校へ行っている俺は、高校時代の兄のモテっぷりを伝説として何度も聞かされていたから、そんなに心配してはいなかったんだ。
その時の兄の落ち込みも、俺自身の日常にいつの間にか埋もれてしまい忘れ去った頃(それは確か半年以上過ぎていたと思う)、大学生と高校生では微妙に活動時間がずれているせいか、普段同じ家にいてもめったに顔を合わすことの無かった兄とたまたま顔を合わせた時、その上機嫌に驚いた。
あ、あにき、顔が緩み過ぎだぞ!
「何かいいことでもあったの?」
思わず聞いてしまったのは、今まで見たことの無い程の上機嫌と顔の緩みのせい。いつも穏やかに微笑み、感情の起伏は表に出さない人なのに、と思った所で思い出した。
そう言えば、ずいぶん前に苦悩に歪む兄の顔を見たのも初めてだったっけ。
「慧は本気で女性を好きになったことがあるか?」
俺の問いかけにこちらを向いた兄がニヤリと笑うと、こんな質問を返して来た。でもそれって前にも聞かなかったっけ?
あの時とは全く違う表情で尋ね返した兄は、俺を挑発するように見つめた。
「本気って、一応彼女はいるけど」
「一応、ね。どうせ、彼女から告白されて、何となく付き合い始めたんだろ? まあ、高校生は好きとかいう気持ちより、セックスの方が興味あるんだろうし」
「兄さんだっておなじだろ。兄さんにだけは言われたくないよ。それに俺は、兄さんと違って二股や三股なんてしてないからな」
図星だからなのか、兄の棚上げ具合に苛立ったのか、言い返さずにいられなかった。
「おい、人聞きの悪いこというなよ。僕は僕を愛してくれる女性皆に平等でいたかったから、一人に絞れなかっただけだろ。博愛主義と言ってくれよ。でもそれももうおしまいさ。運命の愛すべき人に出会えたのだから」
そう言って兄は蕩けそうに顔を緩めて目を細めた。
運命の愛すべき人って。以前言っていた運命の人のことだろうか?
彼女には相手にされてなかったんじゃないのか?
「もしかして、前に言っていた運命の人と上手く行ったの?」
驚いて問いかけた途端、兄はこれ以上ないぐらいの幸せそうな微笑を見せた。
それが、答えか。
「慧、本気の恋はいいぞ。愛する人がいることが、こんなに幸せなことだったなんて。慧も早く運命の人に出会えるといいな」
運命の人なんてどこか胡散臭くて、『自分達がそう思いたいだけで運命なんてあるはずがない。運命の人が決まっていたら、どうして離婚や別れがあるのだ』と腹立たしい思いがしていた。
けれど、あの日の兄の本当に幸せそうな顔を思い出す度、憧憬にも似た思いが胸を疼かせた。
もしも俺にも運命の人というのがいるのなら、会った時に分かるのだろうか?
お互いに引き合うように好きになるのだろうか?
そんな人が本当にいるのなら、どんな出会いが待っているのだろう。
どこかでそれを楽しみにしている自分が可笑しくて、俺は一人自嘲気味の笑みをこぼした。