Hekátē - Amuse -
その女は大胆にも窓から飛び出して、標的の頭に舞い降りた。
それは雨の日で、男が傘を差そうと下を向いた瞬間だった。
俺は一週間も続いた梅雨時の雨、蒸し返す洗濯室の窓を少し開けて呆っと、繁華街の裏路地を眺めた。見れば遠くの窓が開いていて、女が雨音を楽しんでいた。派手な服を着た雰囲気たっぷりの別嬪で、二本目の煙草をフカし始めた――と思ったら、飛び降りた。
それは、鮮やかな殺しだった。
頭を強かに打ち付けた奴さんに目もくれず、吸い止しを放った女は、折り畳みの傘を広げて表通りへ足を運ぶ。ただ裏路地を抜けてきただけ、とでも言いたげな風貌。そんな、関わらねぇのが長生きの秘訣になりそうな女に見惚れて、隠れるのを忘れた間抜けが俺だった。本来、目を合わせたらお終い。そんな相手に気付かれて、視線が交わった。
あの女。足を止めることもなく柔らかく細めた流し目で、微笑みやがった。
そのまま雑踏に消えた女の余韻も抜けたころ、表通りをアホ面提げて行き交うお客さまの一人が異変に気付いて悲鳴を上げた。余所見した路地裏の地面が、予想外に真っ赤に染まっていれば当然だろう。
通報させることで成立する、バカでもわかる見せしめの殺し。警察が来る直前に、こっち側の兄ちゃんみたいな男が、二つ落ちた煙草を回収していたから、間違いない。
あの女がこのクソッタレな街で有名な女殺し屋だと知ったのは、それから間もなくのことだった。
*** ***
Hekátē。
その男はいくつものクラブでスタッフに紛れて、運命の女神の名を持つドラッグを鬻ぐ売人だった。馴染みの客は男のことを「鍵屋のHek」と呼んでいた。この街では「裸のまま出すのは品がない。」という仕来りがあって、売人は皆、上から渡されたコインロッカーの鍵を流していた。
『自分で言うのも変ですが、ちょっと面倒ですよね。』
『カギ開けた後にまだ指示があるのが、もっとメンドウ。』
Hekは、思い出す度に身震いしてしまう。ロッカーのその先が気になって投げた問い掛けの返答は、Hekを黙らせるのに十分だった。こういった分水嶺を見極める勘の良さと臆病な性格が、出入りの激しい「鍵屋」界隈でHekが長生きしている理由だった。そして客から受け取る金は上に吸い上げられて、残るのは僅かばかり。そのことに文句も言わず、金に目を眩ませて持ち出すようなこともない。上からすれば、Hekは実に使い勝手の良い「鍵屋」だった。
当然の結果として、いつからかHekは「鍵屋」全体の集金や上納を任される「鍵番」になっていた。だから上納金を届けるため、本店に立ち寄る習慣もできた。
『あの女だ。』
Hekは思わず呟いてしまった。自身が鬻ぐHekátēの如く美しい、死を司る運命の女神。
昼、Hekは本店の事務室で上の者が帰ってくるまで待たされていた。Hekは窓から見る景色を好んでいて、窓があれば何となく開けて外を見てしまう。表通りに面した本店2階の事務所から見下ろすと、多種多様な人間がそれぞれの思惑で蠢く様を観察できた。この街のお客様に絡む下っ端や、お客様に紛れる街側の人間。富める者も貧する者もいる。
その中に、やたらゴージャスな女がいた。あの日Hekを見逃した女殺し屋が、白昼堂々と風を切って歩いていた。髪型も髪の色も恰好も以前と異なっている。だというのに、その圧倒的なまでの存在感が女の同一性を訴えている。それだけで、あの日見た女だという証明になっていた。
街側の人間であれば、どれほど抜けていても気付けなければならない、死の匂いをまとって歩く妖艶さに気付けない莫迦がいた。どこぞの客引きをしていた、垢抜けない下っ端だった。
『何?』
『お姉さん。ちょっと話、良いですか? あ、オレはそこの――』
耳を欹てて、ようやく聞き取れる声を繋げて会話を想像する。Hekは、例の女殺し屋が気になっていた。厄介事を避けるために、あえて片足だけ突っ込む。あくまでも重心は後ろの足に置いて、いつでも逃げれる体勢を作っておく。
それに一体どんな経歴があれば、あれほどの女が殺し屋をすることになるのか。その一端が会話から窺えるかもしれない、という妙な期待もあった。
『火を、くれないかしら?』
その期待は、早くも裏切られる。
戯れ言など二つ三つも聞けば十分だとばかりに会話を切り上げて、有無を言わさぬ笑みを作って下っ端を小間使いに仕立て上げた。
『え? は?』
『火ィ……火よ。ライターくらい持ってないの?』
小さなカバンから取り出した赤のMarlboroを咥え、無言の催促を続けた。雰囲気に飲まれた下っ端が、恐る恐る取り出して点した安物のライターの火に、顔を寄せる素振りすら見せなかった。
たっぷりと時間をかけて一本の煙草を楽しむ女は、客引きの下っ端をスタンド灰皿か何かだと思っているのだろう。下っ端が慌てて取り出した携帯灰皿に、灰や吸殻を捨てるのみで無言を貫いた。その間に下っ端が果敢に声をかけるも、すべて知らん顔だった。
『じゃあね。』
下っ端の、呆けた顔が印象的だった。女は最後に少しだけ優し気な笑みを見せて、そして颯爽と去っていた。何かに化かされたように動かなかった下っ端は、十数秒経ってから頻りに首を傾げ始めた。
なんという女だろうか。それがHekの抱いた感想だった。やはり関わらないのが吉である。この街で少しでも長く生き残るためには、ああいった連中から逃げ続けることが肝要である。
事実、数カ月もしないうちに、例の下っ端の姿を見かけなくなった。
あれは、そういう女なのだ。と、Hekは肝に銘じていた。
だというのに、蛮勇を冒険と誇る若者は、どこにでもいるものだ。
「お姉さん。隣、良いですか?」
一目で気づいた。女は今日もまた、Hekが初めて見る髪型で、髪の色で、格好だった。
相変わらずゴージャスな雰囲気をたっぷりと纏っていて、洗練されたOLの身なりに、妖しげな色香が漂っているのが見えるかのようだった。
「何? ナンパ?」
「いえいえ、そんなんじゃないですよ~。」
最近、羽振りが良いという後輩に誘われるままに深夜、初めて訪れるという場末のバーに来てしまったことをHekは後悔した。まさか例の女殺し屋と偶然会うとは知らず、しかも後輩は陽気に話しかけている。
Hekは、自身の顔面から血の気が引いていくことに気付くほど、戦慄していた。
「待っ――」
事情を知らない莫迦を止めなければならない。Hekは、直ぐさまこの場から立ち去りたかった。
「パス。」
「そんなあ。」
Hekは、自身の焦りを知らない後輩の間抜けな言葉に瞬間的に苛立ちながら、女の素っ気ない様子や短気でない対応に安堵するという、不思議な感覚に襲われて動けなかった。
だから女がHekに気が付いて、そして悪戯っぽい笑みを浮かべた時には自身の不幸を呪い始めていた。
「あら。久しぶりね、鍵屋さん。」
蛇に睨まれた蛙がHekだった。知られていた。それだけの事実でHekの足は縫い留められた。
「先輩、知り合いだったんですか? っていうか、なんで変な顔してるんですか。」
「い、いや。」
「隣に来る? 鍵屋さん。」
それを命令と受け取ったのはHekだけだろう。後輩の男は不満気な様子を隠そうともせず、女との間をひとつ開けて、Hekより先に座っていた。その不満は、Hekに女の隣を譲ることに由来したのだろうか。そして、メニューも見ずにキールかスクリュードライバーが作れないか、帽子を目深に被り、ヒゲの所為で表情の見えないバーテンダーに訊ねていた。
「じゃあ、俺は……スティンガーかエルディアブロを、」
「アドニスか、ソルティドッグが好きじゃなかった?」
「……そういう日も、あるんだ。」
「仲いいっすね。」
「あなたはジャックローズとか好きそう。」
女は擽ったそうに笑うが、Hekは生きた心地がしなかった。席に着いたHekの体は、女の方に向いているため後輩に表情を察せられることはない。自身の顔面の色を自覚しているHekにとって、顔色一つ変えずに、さもこの場が楽しいものであるかのように振舞っている女の神経が、その意図がわからない。
その、ぶくぶくと膨大に太り続ける恐怖を押し留めるために、心がアルコールを欲していた。
「そうそう鍵屋の後輩くん。わたしのことは"アミ"って呼んでちょうだい。」
それは、わかりやすい偽名だった。
~to be continued~