第一話:「不思議な水たまり」
しとしと降り続く雨の中、道行く人は傘を目深に差し、俯きながら駅までの道を足早に歩き去る。
空には鼠色の雲が立ちこめており、空を見上げれば今後更に強い雨が予想できた。
そんな気が滅入りそうな気候の中、俺は対照的に上機嫌で、スキップをしながら駅前通りを歩いていた。
俺の傘は道行く人よりも高々に掲げられ、ステップを踏むたびに跳ねる水しぶきが俺のズボンを濡らす。
しかし、俺はそんな細かいことを全く気にはしていなかった。
「今日は三万円勝ち〜」
俺はそんなことを呟きながら、すれ違う人をスルスルと避けながら歩く。周りの傘を差した人達から、じとっとした視線を感じる。俺のご機嫌な雰囲気が癪にさわるのだろうか……? 俺はそんなことを感じたが、高ぶる気持ちがそんな思いをすぐにかき消した。そのため、俺は周りの目を全く気にせずに駅前通りを突き進んだ。
たどり着いた競艇場の最寄り駅から電車に乗り込んだ俺は、座った席にて自分の財布を開く。そして、中に入っている数人の諭吉を見て満足をした。その脇には大量の外れ舟券があるが、俺はあまり気にしていなかった。
――いや、気にしようとしていないだけだった。
その舟券の山を見てふと現実に戻った俺は、ため息をつきながら今月の競艇での負け金額をざっくりと計算する。
『昨日までで32万円負けだったから、今日でざっくり29万円負けか……』
「かなりの負債を負っている」という事実に頭を打ちつけられた俺は、通勤列車のロングシートの脇の壁にもたれかかり、うなだれてしまった。
その後、俺は最寄り駅で列車を降りた。屋根付きのプラットホームから外を眺めると、先ほどまで降っていた雨は一段と強さを増していた。
「はあ……」
一転気が滅入ってしまった俺は、傘を目深に差し駅舎から外へ出る。目の前のロータリーでは、車が水しぶきをあげながら走行をしている。
そんな光景を横目に見つつ、俺は傘を前へ倒し家路を急いだ。
足早に歩みを進めていると、俺はふとある情景を思い出した。それは、俺の男同僚との口論の1幕だった。
◇
『競艇は投資だ!』
会社での昼休憩の後、俺の1レースでの賭け金に見かねた同僚が、心配そうな顔で「ギャンブルは程々にね?」と話しかけてきた後の俺の発言だった。
それを聞き、いぶかしげな顔になったその同僚はこう反論する。
『あのなぁ。投資っていうのは、投資家が成長しそうな投資先にお金を預けることをいうんだぞ? お金を預けた相手が成長して収益を得れば投資家には配当がくる。だから投資は投資をした人が全員得をする可能性があるんだ。ただ競艇は違うだろう? 誰かが勝てば必ず誰かが負ける。収益の全体を足すと、賭け金を超えることはない。そういうのは投資じゃない。ギャンブルだ』
『それは視点の問題だろう』
同僚の発言を聞き、俺はすぐさま反論をした。そしてそのまま続ける。
『お金を出す一人一人の立場で考えれば、その人がお金が増えるチャンスが十分にあるし、逆に損をするチャンスが十分にある。個人が得をできる力量があれば必然的に収益をあげられるんだから、投資だろう』
『いや、なんか違う気がするんだけどな……』
何故か悲しい顔をした同僚は俺に向かってそう呟く。しかし、それ以上良い反論が見つからなかったのか、議論はそこで終了してしまった。
◇
そんなことを思い出しながら、俺は国道の歩道を急ぎ歩く。その同僚とは前はよく一緒に競艇に行っていたのだが、最近はあまり一緒には行っていなかった。なぜなら、競艇中その同僚が口うるさいからだ。彼と一緒に競艇に行くと、毎回賭け金のことを心配されるので、俺が競艇に集中できなくなる。それにより、俺はあまり良い成績が残すことができなくなってしまう。そんなことがよくあり、俺からその同僚を競艇には誘わなくなっていた。
その後5分程歩くと、雨が次第に弱まり始め、ついには雨が上がった。俺は歩みを進めながら、手をかざして雨が上がったのを確認する。そして、折りたたみ傘を閉じ鞄の中へしまおうとした。
その時、俺は鞄の中に入っていたごみを見つけ、そのごみを取り出す。
そのごみは、俺の好きな紅茶飲料のペットボトルだ。最近その同僚が俺を見つけてはその紅茶飲料をくれる。断ろうとしても何度も渡そうとしてくるので、最近はあきらめて受け取ることにしていた。
『競艇の賭け金が減るまで渡し続けるから!』と、訳のわからないことを言っていたが、俺はあまり気にせずその紅茶を貰っていた。まあ、普通の紅茶だった。
俺はそのゴミを道中の自動販売機横のゴミ箱に投げ込む。そのペットボトルは、『ガコン』と軽快な音を出しながらゴミ箱へと吸い込まれていった。
そんな情景を眺めつつ俺は思案する。
「未来が見通せればなぁ……。そうすれば競艇も全勝ちできるから、負債をなくして全て利益にできるし、同僚に心配されることもなくなるんだけどな……」
俺はそんなことを呟きつつ歩みを再開した。
その後、俺は国道横の歩道を左に曲がり、民家に囲まれた細い側道に入る。
そして1分ほど歩いた時だっただろうか。俺は道の真ん中に1つの不思議な水たまりを発見した。
その水たまりは、水面が虹色に輝いていた。その光が辺りの草花に反射し、なんとも幻想的な情景を作り出していた。
興味を持った俺は、その水たまりに近づく。
そして俺はその虹色光の正体に気づいた。
それは、水面に反射した「虹」だった。俺はその元となっているはずの虹を探そうと、辺りをキョロキョロする。しかし、俺はその虹を発見することができない。
「民家に隠れてしまっているのだろう」と勝手に納得した俺は、ふと子供時代に流行った遊びを思い出した。
それは、水たまりの水面に顔を近づけ、本来の風景と反射した風景を同時に楽しむというものだった。うまくいけば、最近話題のウユニ塩湖のような幻想的な風景を見ることができるだろう。
妙な好奇心に誘われた俺は、近くに誰もいないことを確認した後、荷物を民家の軒下に置いた。そして、顔を水面に近づけ、その情景を眺めようとした。
その時、俺は妙な景色を見てしまう。
それは、水面にのみ虹が映り、実際の風景には虹が存在しないというものだった。
普通水面すれすれから風景を眺めれば、実体がすぐ近くに存在するはずである。しかし、その虹にはそんなものは存在しなかった。
俺はそんな違和感だらけな状況を疑問に思いながらその風景を眺め続けていると、俺はふとあることに気づく。
それは、「水面に人間の顔が映し出されている」ということだった。
驚いた俺は、水面から顔を離し後ずさる。すると、その顔は水面から浮き上がり、実体となって浮かび上がってきた。そして手が現れ、体が現れ……、最終的には足首まで水たまりから浮き上がり、そこで止まった。
その特異な状況に俺は恐怖で体を引きつらせる。俺は恐怖によりただそいつを見つめることしかできなかった。
10秒ほど経っただろうか。その人間は突然仁王立ちになると、長い髪をかき上げ顔を露わにし、俺を見据えた。その人間は、身長130cmほどの女児に見えた。顔立ちからいって、10歳ほどだと思う。そいつは裸ではなく、服と呼ぶにはみすぼらしい布切れを一枚体に巻いていた。
「欲望を抱え込む人間よ! もっとこっちへ来い!」
そいつは俺を見つめ、そんなことを叫んできた。
「お、お前は何者だ」
俺は恐怖からか、声を若干震わせながらその女児に問いた。
「私は女神! イシスである! よろしくなのである!」
「……は?」
突拍子もない発言を受け、俺はそんな気の抜けた発言をしてしまう。
この女神と名乗る人物から醸し出す不思議なオーラにより、俺の恐怖心は少しずつ消え去っていった。
数秒たち、俺の恐怖心が逆に好奇心へと変わったころ、その女神は更に話を続けた。
「こちらが自己紹介しているというのに、下界の人間どもは挨拶も返さないのか! なかなかたるんでおるな!」
……怒らせてしまったようだ。なので、俺は自己紹介をすることにした。
「すみません。突然のことで驚いてしまって。私は『本庄由宇』と申します。以後お見知りおきを」
相手が自称神様ということもあり、かなり丁寧に自己紹介をしてみた。
すると、機嫌が良さそうな声が女神「イシス」から聞こえてくる。
「よかろうよかろう。寛大に許すぞ」
どうやら女神「イシス」の機嫌は元に戻ったようだ……。
◇
「どうしてイシス様は下界へ来られたんですか?」
あの自己紹介の後の静寂に耐え切れなくなった俺は、女神「イシス」へと確認する。
「うむ。私は呼ばれたところにしか現れん! お前が呼んだんだろ!」
仁王立ちをし、若干怒ったような表情をしたイシスは俺にそう返答する。
「俺が呼んだ……?」
イシスからのそんな発言を受け、俺は思案する。しかし、俺はどんなに思い返しても記憶の海から「女神を呼んだ」という事実をすくい上げることはできなかった。
「あの、あまり身に覚えがないんですけど……?」
俺は言いにくさを滲ませつつイシスへそう答える。すると一転イシスの顔が穏やかになった。
「そりゃそうであろうな。『女神を呼ぼう』なんてお前は一切思っていなかっただろうからな」
「……は?」
要領を得ない答えに、俺は不敬ともとれる返事をしてしまう。
しかし、イシスは俺のそんな発言を気にもせず話を続ける。
「私は、お前の願いに引き寄せられてここに現れたのだ。さあ、お前の願いをいえ。叶えてやろう」
「……え?」
突然の女神の提案に、俺は声を失う。しかし、すぐに思考を取り戻した俺は、先ほどまで思っていたことを女神に伝えてみることにした。
「未来が見たいです。そして競艇のレース結果を把握して、全レースで勝てるようになりたいです」
「よかろう」
俺が願いを言い切った直後、間髪を入れずに女神からそう返事がきた。
そして、女神が顔をぐるんぐるんと回し始めた。それにつられて彼女の髪もぐるんぐるんと回りだす。
俺はその特異な状況に顔を引きつらせる。
そして、しばらくすると女神の首振りが止まった。
「さあいくぞ、ついてまいれ」
俺は目の前にいた女神に腕をつかまれ、そのまま虹色に輝く水たまりへと吸い寄せられていく。
「ひいっ」
俺の上擦いた悲鳴が住宅地へと響き渡る。しかしそれも一瞬で、俺と女神はその虹色に輝く水面へと吸い込まれていく。
『パシャ……』
最後にそんな水音が住宅街に響き渡る。そして、俺と女神がいたという痕跡はこの世界から跡形もなく消え去った。
「逝ったか……」
その光景を近くの電柱の物陰から隠れ監視していたその男は、その情景をみてそう呟く。そして、その男はその水たまりへと走り飛び込んだ。
『バッシャーン!』
大きな水音をたてながら水たまりはその男を吸い込んでいった。
暫く経つと、その水たまりの虹色の輝きはなくなり、普通の水たまりへと戻っていた。
住宅街には平穏が戻る。そう、先ほどまでの出来事が嘘だったかのように……。