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古書黒猫屋奇想店内

作者: てこ/ひかり

「古書・黒猫屋……?」


 古びた看板を見上げ、私は陽の光に目を細めた。

 民家と民家の狭い隙間に、ポツンと立っている碧の扉。ほとんど扉一個分しかないスペースの、その上に掲げられた木製の小さな看板は、ところどころひび割れ銀箔の文字が欠けていた。私は一寸の間逡巡し、antiqueな小型のLanterneがぶら下がるその扉に手をかけた。


 からん、ころん。

 

 と、鈴の音が転がる小気味良い音がして、扉の向こうの世界がゆっくりと開いていった。私はその暗がりの中に、恐る恐る足を踏み入れた。


□□□


 折角の休日だからと、いつもの出勤ルートとは逆方向の、行ったこともない路地裏を散策している昼下がりのこと。いつも首回りを締めているネクタイから解放され、ふわりと浮き上がりそうな高揚感に包まれた私は、足の赴くままに見たこともない景色を流れるように眺めていた。


 新しい職が見つかり、この土地に引っ越して来て、まだ一ヶ月足らず。

 名称もよく知らない土地の、見たこともない景色。

 坂道の上に広がる青々とした空も、赤や黄色で塗られた色とりどりの屋根も、何もかもが新鮮だった。自然と溢れる笑みを抑える必要もなく、買い物帰りの主婦に会釈をしながら坂道を降りていくと、道端の途中に重たそうな石でできた祠にふと目が止まった。


 神社にあるような大きな祠ではなく、ダンボール二つ分くらいの、小さな石の祠。

 普段なら脇目も振らず通り過ぎていくような景色に、気づくことができる今の余裕が嬉しい。そう思いながら、私は脇道にふと立ち止まった。


「…………?」

 すると、どうしたことだろう。

 祠に祀られていた、赤いよだれかけをした石のお地蔵さんが、突然私の目の前でもぞもぞと蠢いた。

 私は驚いて目を凝らした。

「ミャア」

「なんだ猫か……」


 お地蔵さんの向こうから姿を現したのは、一匹の黒猫だった。

 赤い首輪がついているので、どうやら飼い猫のようだ。猫は欠伸混じりに私を一瞥すると、ふわふわと尻尾を揺らし、眠たそうにうっとりと目を細めた。それからひょいと小さな体をくねらせ、その艶のある全身の毛で私の右足を撫でるようにすり抜けて行ったかと思うと、向かい側の路地裏へとさっさと走って行ってしまった。家と家の間にある、人一人分通れるかどうかってくらいの、とても狭い路地。

「…………」

 振り返って、しばらくぼんやりとその姿を眺めていた私だったが、やがてふらふらと誘われるように路地裏へと足を踏み入れていた。どうせ宛のない旅だったから、寄り道するのも面白そうだと思ったのだ。


□□□


「いらっしゃい」


 碧の扉の向こうは、狭い階段になっていた。両隣の壁が迫り来るようにギュウギュウの通路を、ゆっくりと登っていく。外と比べると、存外薄暗い。天井で揺れる橙の灯りだけが、私の足元を照らしていた。木でできた階段をやっとこさ登り、その突き当たりにあった蒼の扉を開けると、先ほどの言葉を投げかけられたのだった。


「どうも。黒猫屋にようこそ」


 扉の向こうの開けた空間で、右横に備え付けられたカウンターに座った二十代くらいの若い女性が私に微笑んでいた。私は目を丸くした。ところどころひびが入り、煤けた通路の向こうには……目を奪われるような光景が待っていた。



 海だ。

 


 扉の真向かいには、全面透明な窓ガラスが敷き詰められていて、その向こうに太陽の光を透けさせた、淡い海中の景色が広がっている。

「フフ……すごいでしょう? どうぞ、お座りになってください」


 私が呆気に取られて入り口に突っ立っていると、いつの間にかカウンターの中から外に出てきた女性が私の後ろからそっと声をかけてきた。私と同い年か、年下くらいだろうか。その柔らかな微笑みに、私は抵抗する術もなく、気がついたら窓ガラスの前のカウンター席に座らされていた。

「ここは……」


 私は椅子から身を乗り出し、穏やかな音楽の流れる店内を見渡した。

 古本屋というより、まるでカフェだ。

 天井には扇風機の羽のような、シーリングファンライトがくるくると回っており、部屋の四隅には一mètre以上はある観葉植物が立ち並ぶ。窓の横の壁を一面覆い尽くしている外国の巨大な向日葵の油絵が、一際大きな存在感を放っていた。


 何より不思議なのが……この窓の景色だ。

 目の前に、水族館みたいな景色が広がっている。遥か彼方まで広がる砂浜に、転がる岩礁や海藻の数々。不意に、右から小魚の群れが泳いできて私の目の前を通り過ぎて行った。窓の上の方から差し込む陽の光が、座っている席まで伸びてきてほんのりと私の胸元を暖めた。


「ここは、カリブ海よ。綺麗でしょう?」

「?」


 エプロン姿の女性が、二人分の珈琲とマフィンを運んできながら、窓を見上げ私に微笑んだ。どうやら彼女は、窓の外の景色のことを言っているらしい。私が今いるのは住宅街の一角なはずで、決して海など望めない場所なのだが……珈琲の匂いに鼻をくすぐられながら、私は一寸首をかしげた。


「カリブ海って……現地の映像か、何かですか?」

「持ってきたの」

「持ってきた?」


 私の怪訝そうな顔が面白かったのか、彼女が可笑しそうに笑った。持ってきたとは、どういう意味だろうか? ゆったりとしたギターの音色が、次々に前の音を追いかけていって淡い葵の景色が広がる店内にArpègeを響かせた。

 

「古書店の看板を見て入ってきたんだけど……」

「そ。今日の読み物は、海の物語なの」

「はあ」


 私はますます首をかしげた。三つ編みの女性はバレエでも舞うような足取りで一度裏に引っ込んだ。大量の酒のボトルやグラスが立ち並ぶカウンター内の棚を眺めていると、彼女が楽しそうにお盆に一冊の本を持って戻ってきた。


「ここにはね、手に取れる本は置いてないの。代わりに、店主の私が読み聞かせてあげる、そんなお店なの」

「読み聞かせ……」

 

 店主と名乗った彼女は私の隣に腰掛け、一冊の本の背表紙を掲げて見せた。

 読み聞かせ。

 どうやら私の想像していた古書店とは、大分中身が違うようだ。ちらりと店内を見渡す。

 自分以外の客はおらず、彼女以外の店員の姿も見えなかった。私は目の前に視線を戻した。はち切れんばかりに顔に広がるその笑みを見るに、きっとお客様がやって来るのを今か今かと待ち詫びていたらしい。


「ね? 読み聞かせなんて、子供の頃以来でしょう? どう?」

「……面白そうだね」

「でしょう!?」


 彼女に押し切られるように、私は椅子の深い位置に腰を預けた。

 懐かしい本を一冊買って帰ろうか、なんて考えていたのとは全く違う展開になってしまったが、これもこれで悪くない。何よりこの荘厳な海中の景色を見れただけでも、収穫はあったかもしれない。むしろ、休日の過ごし方としては上々ではないだろうか。私の目の前を、長い長い尾鰭のついた魚が悠々と泳いで行った。私は上着を脱ぎ、空いている席に置いた。

 海の景色が見える、古書店・黒猫屋……。

 自分だけの隠れたスポットを見つけた気がして、私の胸は自然と高鳴った。

「じゃ、始めるわね。『昔々、あるところに……』」

 そう口火を切って、彼女は目を輝かせ、軽やかな口調で物語を話し始めた。私は珈琲を手に取った。彼女の両手にある、まるで古文書のような紅い宝石が施された背表紙には、何のタイトルも筆者名も載っていなかった。ゆったりとした音楽とカフェインの香りをお供に、私はしばし彼女の語る物語に耳を澄ませた。


□□□


「……『そして二人はいつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし』」

「…………」

「…………」

「……お客さん?」

「…………」

「お客さん? 終わったわよ?」

「…………」

「…………」

「…………」

「もう! お客さんってば!」

「え?」


 突然彼女に肩を揺すられ、私は目を覚ました。


「お話。終わりました」

「ああ……」


 ここは、どこだっただろうか? 私は一体、何をしていたんだっけ……。

 突然揺り起こされ、まだ現実を上手く認識できない、妙な違和感が頭に押し寄せる。ぼんやりと霞む視界の向こうで、エプロン姿の店主がじっと私の顔を覗き込んでいた。


「……ちゃんと聞いてました?」

「ああ……ごめん、あんまり気持ちよくって……」


 どうやらいつの間にか、寝てしまっていたらしい。窓の向こうから注ぎ込まれる太陽の光と、撫でるように穏やかな音楽に包まれ、日頃の疲れもあり気づく間も無く夢の中へと誘われてしまったようだ。軽く頬を膨らませる彼女に、私は顔の前で手刀を切った。


「もう!」

「ごめんごめん……あ、もうこんな時間だった」


 私はわざとらしく腕時計を覗き込んだ。二十時だ。上着を手に取り、ポケットから財布を取り出した。


「もう帰らなきゃ。ご馳走さまでした」

「お粗末さまでした」

「いくらだい?」

「珈琲100円。マフィン280円」

 彼女が半ばむすっとした表情でそう告げた。

「良心的だな」

「二人分だから、760円ですね」

「君の分も払うの!?」

「それから、読み聞かせ代……」

 私の声を無視して、彼女が紅い本を掲げてパラパラと捲った。


「当店では物語のタイトルと、値段をお客様に決めてもらっているんです」

「物語のタイトルと、値段?」


 突然の申し出に、私は面食らった。

 店主がこほんと一つ咳払いをし、ずいっと私の胸元に歩み寄った。

「お客様。この物語のタイトル、なんだと思いましたか?」

「え? えーっと……」

 暗がりであまり分からなかったが、よく見れば睫毛の長い、整った顔立ちの女性だった。私は必死に眠りにつく前の記憶を辿りながら、何とか言葉を絞り出した。

「そうだな……ウミガメから生まれた人だから、『ウミガメ太郎』?」

「『ウミガメ太郎』!」


 彼女は口元に手を当てた。

「不満かい?」

「いいえ。素晴らしいタイトルだわ。『ウミガメ太郎』……」

 彼女はふわふわと髪の毛を揺らし、うっとりと目を細めた。


「それでお客様。『ウミガメ太郎』、いくらだと思いましたか?」

「えー……」

「……いいわ。今回はサービス。次来た時に、きちんと払って頂きましょう」


 私が言葉に詰まっていると、彼女はパタンと本を閉じてそう言った。すると、私の足元に柔らかいものが押し付けられた。

「あ! お前……」

「ミャア」

 足元にやって来たのは、先刻道端で出会った黒猫だった。

「おいで、みーちゃん」

 彼女が黒猫を抱き寄せて頬ずりした。

「みーちゃんが、お客さん連れて来てくれたんだよねー?」

「ミャア」

「…………」


 赤い首輪をした猫が、彼女の腕の中で気持ちよさそうに鳴いた。

 何とも不思議な店だ。流されるままに、いつの間にか、次回も来店することが決まった気がする。私は狐か狸に抓まれたような気分になりながら、二人分の珈琲とマフィン代を支払った。


「あれ?」


 店を出る時、私は店内を振り返ってようやく違和感に気がついた。


「海は?」


 先ほどまで広がっていた、壮大な海の光景が見当たらない。窓の外にあった葵の景色が、今や一面、夜中のように真っ暗になっていた。カウンター内でレジを打ちながら、店主が可笑しそうに笑った。


「やだお客様。海の物語は、さっきやったじゃないですか」

「?」

 私が口を開く前に、彼女は両手で包み込むように、私の右手にお釣りを握らせた。

「本日はありがとうございました。『ウミガメ太郎』、お楽しみいただけましたか?」

「……もちろん」

「それは良かった。次回までに、しっかりと値段考えて来てくださいね。次も、来てくださいますよね?」

「……もちろん」

「良かった! 心待ちにしております」


 彼女がぺこりとお辞儀をして、にっこりと微笑んだ。


□□□


 それから二つの扉を潜って店の外に出る間に、ウミガメ太郎のことは私の頭から吹っ飛び、それよりも店主の笑顔がしっかりと目に焼き付いた。帰り際、私は再び剥げかけた店の看板を振り返った。家と家に挟まれるように佇むその店は、外側から見てもどこに位置しているのかさっぱり分からなかった。ましてやこんなところに本物の海があるなんて、そんなことあり得るはずもない。何もかも、不思議なことだらけのお店だった。


 店主自ら読み聞かせをする、古書・黒猫屋。

「次の休み、いつだったっけ……」

 そう呟き、私の胸は自然と高鳴っていくのだった。



《続く》

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― 新着の感想 ―
[良い点] 店内の描写がgoodです。次はどんな景色になるのか楽しみ(^o^) [一言] 読み聞かせるところが、舞台が古書でもユニーク。ところで、小説を一つの中にもう一ついれることになるのかな? それ…
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