第一章
プロローグ
コーヒーは好きじゃない。苦くて匂いが気に入らないから。あの苦味は今日で17になる私でも勘弁したい味だ。この年になればコーヒーぐらい余裕で飲めるとお父様が言っていたけれど、どこから聞いた都市伝説なのか、そんな根も葉もない話をされても好きにはなれない。
朝食に、昼食に、夕食に、なんでもコーヒーはついてくる。私が、コーヒーが苦手ということを知っている召使いはこの三食に紅茶を添えてくれる。あの苦みったらしい茶色い飲み物の代わりとして。
今日も朝食で紅茶を飲んでいた。私はミルクティーが好きで、ずっとこれを飲み続けている。これなら三食にも合うし、なにより味が好み。優雅で穏やかな朝を迎えるのにもぴったりというところだけれど、現実はそう簡単に私の理想を叶えてくれない。「優雅で穏やかな」なんて夢のまた夢だということを私は今日も痛感するのだ。
「おはよう! 今日もすごくいい香りがする朝だね。さて、朝食は何かなあ?」
私の理想の朝をぶち壊すのはこの少女。銀髪で、青い瞳を持った神秘的な子。遠くから見れば本当に美しい容姿をしていて、通り過ぎる人はみんな彼女に見惚れる。もう1度言うけど遠くから見ればの話。
食卓の席についた彼女にコーヒーが出される。頼むから同席はやめてほしい。せっかくミルクティーでいい香りだったのに、このわずかなひと時さえ彼女は奪い去っていく。
私は椅子を動かして、彼女と距離をとった。
「あ。どうして離れちゃうの? わたしと一緒に朝食を食べるのがそんなにいや?」
「匂いがいやだから」
「え!? わたしそんなに臭いかな!? 昨日はちゃんとお風呂に入ったんだけど……」
「そうじゃなくて。コーヒーの匂い」
「ああ、ごめん! 気付かなかった……そうだったね、アリスはコーヒー苦手だもんね」
彼女は召使いを呼んでコーヒーを下げさせた。いつもは朝食をとる時間が違うからこのようなことはない。いつもだったら私よりもっと遅くに起きて普通にコーヒーを飲んでいるのだろう、彼女は。
私はフレンチトーストを味わってから、彼女にことばをかける。
「ところで、今日はずいぶんと起きるのが早いのね。今は8時過ぎよ」
彼女はいつも10時くらいに起きて、ここでひとり朝食をとっている。私や他の幹部たちは8時には起きているので、彼女よりも早く仕事を始めている。
「なんだか今日は嵐になりそうね。こんなに珍しいことがあると」
「ひどいよ……。けど、そうね、うん。今日はちょっと早起きしてみたの」
「どうして?」
「だって今日はアリスの誕生日でしょう? 特別な日を1秒でも長く一緒に過ごしたいから目覚ましをかけて起きたの」
「そんな大げさなものじゃないわ。誕生日なんて祝いのことばをもらうくらいでしょう」
「ケーキ食べたり、パーティーを開くのよ? 今年はお父様に頼んで盛大にパーティーをやることになったから、今夜は楽しみね♪」
寝耳に水だ。まあサプライズだから本人には言わないのだろうが、すでにネタばらしをされてしまった以上反論しないわけにはいかない。
私はパーティーとか、ダンスとか、そういうのが好きじゃない。人と関わり合うことだって苦手なのに、どうして他人から祝われなければならないのだろう。誕生日なんてべつにいいじゃないか。生まれた日を祝うなんて、子供じゃないんだ。
「私、ちょっとお父様のところに行ってくる」
「ま、待って! まさか中止にするとか、言わないよね?」
「当然言うに決まっているでしょう」
「どうして? 誕生日なのよ? 1年に1度の日なのよ? こんなに素晴らしい日はないと思うのだけれど」
「それはイアンナの意見でしょ。私はいやなの」
席を立ちあがった私にイアンナは懸命な説得をはじめた。本当は自分がパーティーをやりたいだけなんじゃないかと思うくらい、必死に私の足先を変えようとする姿が見られた。その様子にちょっとだけ、可愛いなと思ってしまった。
<お茶会のはじまり>
今の世界は善と悪に分かれている。簡潔に言えば、そうなる。
公共という広場をみんなで守るあちら側、ただ自分のためだけに生きるこちら側。境界線は複雑に引かれていて、今ではそれを逐一直すことはできない。どこかでテロが起きて、どこかで紛争が起きて、だれかが隣人を殺し何もなかったかのように生活を送る。
そうした悪で溢れかえっているこの世界では、犯罪組織が各地に生まれていった。マフィアはその代表的なもので、この国にもそんな犯罪組織が根をはっていた。
日差しを反射する海の波は、まるで天然のシャンデリアに思える。とはいっても、これは夜に見られないから実用性はまったくない。
開け放たれた窓から心地いい風が舞い込んだ。わずかに海の匂いが混ざっている。
アリスはお気に入りの椅子に座って、新聞に目を通していた。
いくらマフィアの幹部であっても時事の把握を怠ってはいけない。表面的に関係性がないような記事でも実は裏で繋がっていたりする。そうした糸をしっかり読みとく能力が幹部には求められるのだ。
今日の一面を飾っていたのは盗賊が宝石店を襲ったという事件だった。ここのところ、宝石やお金を盗まれるという事件が立て続けに起こっていた。記者が言うには、すべて同じ盗賊団の仕業らしい。ろくにビジネスもできない野蛮な人間はこれだから愚かしい。
すると、部屋の奥からイアンナが頬にホイップクリームをつけてやってきた。エプロンまでつけていることからこれまでの行動が容易に想像できる。
「……一応聞いておくけれど、なにをしていたの?」
「もちろんアリスの誕生日ケーキを作っていたのよ♪ アリスへの愛情がたっぷりつまった、特別なケーキなんだから!」
アリスはため息をひとつ吐いて、静かに新聞をとじた。
「お願いだから仕事をして。今日は休暇じゃないのよ」
イアンナはきょとんとして、首を傾げた。
「え? お父様が今日はお仕事ないって言っていたよ?」
「ああ……言っていなかったわね。伝達ミスで休暇は明日なの。これから協定先の店にいって保護料をもらうのが今日のお仕事よ」
仕事をしたくないのか、イアンナが突っ立ったままいるので、アリスは仕方なくエプロンを外してあげた。こうしてみると姉妹のようだと思うが、本当に姉妹だったならこちらの精神が持たないだろう。
近くに置いてあったコートを着せて頬についたクリームを指先でとった。それを口に運ぶとイアンナの顔が真っ赤になっていった。
「そ、そんなことをしたらダメだよ! こっちが恥ずかしい……」
「顔を真っ赤にする暇があるなら、外に置いてある車に乗ってくれる?」
このあとイアンナは、意地悪、そういうことしないで、とかいろいろ文句を言っていたがアリスはすべて聞き流した。仕事に対するスイッチがオンになっているため必要以外の音は排除するようになっているらしい。
家の外で待っていた車に乗り込む。ふたりの部下でもあり、銃撃戦でも対抗できるような高い技術を持っている運転手がバックミラー越しに確認する。ボスがちゃんと乗ったことを確かめて、彼は車を発進させた。
海岸沿いの民家が車窓を流れていく。青空が広がって、砂浜で遊ぶ親子の姿が目に入った。
「皮肉ね」
アリスはそう漏らした。静かで、でもどこか哀愁の漂う声色だった。
「きっと彼らは知らないのでしょうね。ああして楽しく過ごしている時間のうちにどれだけの人間が死んでいるのか」
「アリスはあっちの世界に戻りたい?」
光がからだを包み込む場所。罪も罰も、掟からも解放された素晴らしき善の世界。
アリスはしばらく黙っていたがやがて口を開いた。
「今はここが私の居場所よ。きっとこれからもそう」
車内に沈黙が流れた。返すことばがないわけではない。ただ、アリスのことばを噛みしめるようにイアンナが口を閉じたからで、彼女はアリスの顔を眺めた。どこまでも冷静でポーカーフェイスのアリスの顔には何も映っていなかった。
それから車は住宅街を抜けて、通行の多い大通りを通り1時間かけてある店のまえへやってきた。赤い下地のうえに黒い字で「VIOLET CATS」と書かれたプレートがドアにかけられている。ただし、店の唯一の玄関にドアノブはついていない。押して入ればいいのか、と最初は思うだろうがこの店は内側からしか開けられないようになっている。そんなことをしたら客が来ないだろうが、ここはそれでかなり儲かっている。
VIOLET CATSは一般の店ではない。会員制を設けた一部の富裕層が毎度のように通っている高級レストランで、裏世界の名店として知られているためマフィアに護衛を求めた。
アリスがドアをノックすると小さな穴からひとつの目玉が現れた。そいつは、ぱちくりと一度瞬きをしてからじっくりふたりを眺め、やっとドアを開けてくれた。
店内は誰一人と客が来ていなかった。この店に限って空席で溢れかえっているというのは、非常に珍しいことだ。と、突然スーツを着こなした男が目の前にあらわれて、アリスはため息をつく。
「相変わらずお元気そうでなによりです」
棒読み気味のことばだったが、男はにっこりと笑って会釈した。
「お久しぶりです。実に2年ぶりの再会ですね。まさか今回の取引でおふたりが来てくださるとは思いもしませんでした」
「手慣れた取引はいつも部下が行っていますからね、驚くのも分かります」
「なにかあったんですか?」
イアンナが肩をすくめて、残念そうに言った。
「手違いがあったみたいです……」
「おやおや、いつも元気いっぱいのイアンナさんが今日はやけに落ち込んでいますね」
「今日はアリスの誕生日なんです。特別な日だからケーキを作っていたんですけど、急にお仕事があるって言われちゃって……」
「ほう、アリスさんの誕生日ですか。ぜひとも当店からプレゼントを贈らせてください。日ごろの感謝を込めて」
アリスは彼のことばを聞き流して、懐から1枚の書類を取り出す。
「契約の継続手続きの書類です。引き続き我がジャックファミリーがこちらの店の護衛をさせていただきます」
「アリスさんは仕事熱心ですねえ。では……こちらが保護料です。間違いはないと思います」
0がいくつも連なった小切手をもらって、それを懐に入れるアリス。これで仕事は終わった。とはいえ、この紙切れを持ち帰ってこそ、本当の意味での任務完了と言える。
さっさと帰って休みをとろうと踵を返すが、男が彼女を呼び止めた。
「ここ最近、いやな輩がうろついています。くれぐれもハイエナに骨をむしゃぶられないよう、お気をつけください」
返事をしようとしたところでイアンナが大丈夫よ、と言った。
「彼らはきっとすぐに逮捕されるわ。この国の警察はすごく優秀だもの」
その輝かしい笑みに、男はやれやれといった具合に苦笑した。この子は本当に純粋だなあと思っている部分があるのだ。
男は腕時計を確認する。と、急に血相を変えて店を出ていこうとする。どうやら大事な用事があったようだ。携帯を取り出して「遅れる」と話しているのが聞こえた。
「すいません、私はこれで失礼します。またなにかあれば連絡をください」
彼はそう言って店をあとにした。
「支配人があれなのに、よく店が長続きするわね」
アリスはそう吐き捨てる。余裕そうに話していたくせに大事なことを忘れていた支配人が、彼女の性格に受け入れられず、皮肉じみたことを言ってしまうのだった。
仕事が終わったので、ふたりは店を出た。わざわざ幹部が出かけるまでの内容ではなかったが、手違いというミスの先には予測し得ない危険が潜んでいるものだ。万一のことがあれば部下だけでは対処しきれないだろう。
このまま帰ってゆっくりとからだを休めるはずだった。車の運転席を見るまでは。
ハンドルに運転手が顔を突っ込んでいて、フロントガラスの右上に小さな穴が開いていた。座席は彼の血でべっとりしているが量は少ない。むしろハンドルのほうが真っ赤だった。
運転手が遠くから撃たれたことは明確だった。しかしこの世の中で、優秀なドライバーを失うことはかなりの損害だ。組織としても、負担はある。
アリスとイアンナはすぐさま車の影に隠れた。遅れてビュン、という音とともに窓ガラスの割れる音がして、破片が頭に降ってきた。あと一秒でも反応しなかったら、胸に穴が開いて、五分とたたずに死んでいただろう。
「スナイパー?」
イアンナがナイフを取り出して、よく磨かれた刃から敵の姿を確認する。しばしの沈黙があって、彼女は鋭い閃光を瞳に宿らせる。
「ただのスナイパーじゃない。とびっきり悪いやつらの狙撃手よ」
それが何を意味するのか、アリスはのちに知ることとなった。
はじめまして。初投稿になります。すこしでも楽しんでいただけたら幸いです。
戦う女の子はかっこいいですね。