83、そして軍は来る
物音がする。コツッ……コツッ……と間隔を開けて。
硬いモノが硬いモノにぶつかる音。周囲の喧騒に比べたら遥かに小さい音。
けれどこの小さな音は没頭に陥る俺の思考をすくいあげた。
「君たちの主張はそれくらいかね?」
静かな掠れ声が響いた。この声の持ち主を俺は知っている。
俺を抱える女官さんが震えていた。女官さんの心臓の鼓動がとても速くなっていた。
女官さんの体がぎこちなく振り向いた。俺の目の前には杖を床に突き辺りを睥睨する裏ボスがいた。
「君たちは何故、リク君の育児を任せてもらえなかったと思っている?」
裏ボスはゆっくりと俺の側へと足を進めた。
俺を抱える女官さんは後ずさりしていたが不意に止まった。
後ろを見れば背の高い軍人さんが女官さんの背後に立っていた。
「君たちは1等級の者を聖人と呼ぶ。基本的に名前を呼ばない。
君たちにとって重要なのは魔力の多寡だからな。
その歪さをきっと君たちは理解できないのだろう」
裏ボスは俺の側まで来ると着けていた白い手袋を脱ぎ撫でた。
俺の脇の下に手を差し込むと身体を浮かし、素早くお尻の下に腕を入れ、あっという間に俺は裏ボスの腕の中に納まってしまった。
女官さんの柔らかく温かい体と違い、裏ボスの体は硬くちょっと冷たかった。
女官さんの「あっ」という声が空しく響いた。
「支部長さん、立っているのはもう貴方だけだ。
貴方の主張は確かに聞いた。だがそれは貴方の考えに過ぎない。
そして貴方がしたことは誘拐であり、犯罪だ」
裏ボスの腕から辺りを窺うと、柱の近くにいた白いローブの男達は迷彩柄の軍人や白衣姿の人達に取り押さえられていた。
柱の側にいた人はあっという間に押さえつけられたのか着衣に乱れはほとんどなかったが、部屋の中央にいた人たちの衣服は少しはだけていた。
ユエ支部長の近くには数人の男達が倒れていた。
「私達、軍は確かに安全を重視する。だが安全とは何のためのモノだ?
安全とは人々が笑顔で過ごすためのモノだ。災害から守る家のようなものだ。
だが人の幸せがなければ安全とはただの牢屋に過ぎなくなる」
裏ボスはゆっくりと歩く。杖が床につかれるコツッ……コツッ……という音が響く。
音が響くと誰しもが裏ボスに注目する。
いや、軍人さんや白衣の人達は黙々と動いていく。
宗教関係の人だけが裏ボスへと意識を向けていた。
注目の仕方がおかしい。魔法を使っている? わからない。
「これはシン様。どうして神殿で暴力を行使なされているのですか?
ここは神殿です。暴力はいけないんですよ?」
ユエさんは近寄る男達を弾き飛ばしていた。手には男達の持っていたようなロープ。
白いロープをムチの様に振るい、男達の体の一部に巻き付け吹き飛ばす。
魔法を併用している? よく見れば肩や肘や手など部分部分が鈍く輝いていた。
体格差があろうが肉体を魔法で強化してしまえば関係ない?
「私達は貴方方の隔離するような神子様の扱いが気に入りません。
なので私達は貴方方の手から神子様を奪いました。
それ以上もそれ以下もありません。貴方方は武力で私達を制圧しようというのでしょう?」
ユエさんは狂気的な雰囲気を帯びていた。
体から噴き出す魔力による波動。
布地の多い衣服はその波動を受けはためき長い髪は持ち上がる。
静かな口調で興奮を抑えてはいるが、体の隅々まで暴力的な力が宿っているような有様だ。
「教会は魔力を重視し過ぎている。今までの行状から私達はその認識を変えていない。
だから貴方達に子供は預けられない。預けるという選択肢はもとより存在していない。
リク君がもし魔力をあまり持っていない場合どうしていた?
きっと貴方達は何もしなかったはずだ。眼中にないだろう。
魔力がなければ人間として見ることができない人に何故任せられる?」
裏ボスはユエさんを声で静かに突き放した。
だがユエさんの姿は先ほどまでとは変わらない。
お釈迦様に子を捕られた鬼子母神、狂気を孕んだ鬼の形相。
それでもまだ理性を保ったままだろうか。
顔にはまだ微笑みが張り付いている。微笑みは氷の様に冷たく薄いが。
「神子様は神子様です。他の子と違って当たり前でしょう。同じ理由がありません。
貴方方がお世話をするよりも、私達がお世話をする方が神子様にとって幸せになるのです」
ユエさんは押し殺した声で、心の底から思っているように、強く、強く言った。
不意を見て近寄ろうと試みる軍人さん、その軍人さんの中でも迂闊に近づき過ぎた人を、ロープで絡めとり投げ飛ばし、視界から遠くへと弾き飛ばしていく。
軍人さんが2人以上同時に近寄れば、近づいた軍人さんの1人を絡めとり、他の人にぶつけなぎ倒す。
10m近く成人男性を投げ飛ばすなんて真似は、身体強化がなければできない挙動だろう。
「支部長さん。私の部下達をポンポンと投げ飛ばさないでくれるか?
彼らはこの都市を守る英雄達なんだぞ?」
苦笑気味に裏ボスは言った。部下がやられていくことに不安を感じていないようだった。
まるでとるに足りないことであるかのように。どうでもいいことのように。
けれど俺を抱えている腕の筋肉は硬く強張っていた。
嫌なのだろう。あんなにも遠くへ跳ね飛ばされたら部下は死んでいるかもしれない。
そう考えたらやるせない気分だ。
「その方々に命令を出しているのは貴方ですよね? シン様?
私は防衛しているだけです。貴方は私に攻撃していますよね? では防衛してもよろしいですよね?」
ユエさんの足はゆっくりと進む。着実に俺の方……いや、裏ボスの方へと。
ゆっくりとした動きだが隙はまるでない。いや、取り押さえられないようにか。
「どうやら支部長さんはこの状況でまだ戦う事をお望みの様だ。
リュー君、すまない。リク君を預かってもらえないだろうか?」
いつの間にかに……いや、この人はさっき俺を抱えていた女官さんの後ろに立っていた軍人さんか。
背の高い軍人さんの手に俺は渡ると裏ボスはゆったりと歩いていく。
杖をつく音は響いても裏ボスの足音は聞こえない。
腰も曲がっている様子はない。
あの杖は何らかの媒体なのだろうか?






