244、壁が
「やだ」
リラという女はいたずらっ子の様に笑う。
俺が勝手に不審感を抱いているだけで、彼女がしている事は普通なのかもしれない。
いや、普通なんだろう。小さな子をあやしたい女の人としては。言動もそれに準じているし。
冷静に考えてみればそのはずなのに、どうしたところで感情で受け入れきれない。
自分がそうだからといって相手を同一視して、行動を自分の思う方へ勝手に解釈していく。
それのどこが正しい事だろうか? 理性的でも何でもない。
これは断じて逃げ道が塞がれたことで状況を好意的に捉え直そうとする逃避ではない。
こうやって否定するの、ほぼ肯定しているのと同じだよな。ストックホルム症候群だったっけ?
加害者に同情的な立ち位置になって、被害者が加害者の仲間になる現象。
どういう化学変化が頭の中で起きたのか考えると本当に不思議になるよな。
「俺がやだ」
たぶん今の俺が近いのだろう。妄想力豊かなんだな。
自分にとって不都合な状況、改善できない状況から目を逸らし、都合のいい情報を妄想する。
加害者側がその妄想に都合のいい事を言えばなおさら深みに落ちていく。バカみたいだ。
自己防衛の仕様なのかもしれない。
手を止めた時、頭を止めた時、死んでしまうかもしれないから。
幾十と人がいれば色々な選択肢を辿り、結果的に生き残る人が出るだろう。たぶん。
創作物は幾万幾億とある。つまりそれだけ思考は幅広く、決まった結果を導き出すものではない。
こういう事もあると示した反応も含めて、人間の持ちうる選択肢はとても多いのだろう。
こうやって現実逃避を俺の思考がしてしまうのも多様性の1つに過ぎないんだろうな。
「私もやだ」
人間という種族は多様性に富んでいる。
北極から熱帯、砂漠、どんなところにでも生息し、各地に適した拠点を造り上げる。
衣服や住居、食べ物の集め方、工夫の元、自然を征服し、自分たちを頂点とした世界を作り出す。
多様性に富む事であの世界は築かれたのだろう。
多様性は生活形態だけではなく、自分達の精神というか思考の仕方にまで影響を出した。
それが今後のあらゆる環境変化に対応するためのモノだと思うとしっくりくる。
動物達は多様だが、人間程理不尽な多様性を感じないのだ。
理不尽と思わないのは関わった動物の数が少ないのが原因かもしれない。
動物の動画を見ると不思議な挙動をする子はたくさんいた。
いや、人間よりも動物の方が近くにいたから、行動に疑問を持たないのかもしれない。
「俺の方が嫌だ!」
人間の理屈というよりも、動物的な判断で考えていると言った方が俺は正確なのではないだろうか?
動物の方が近いというよりも、口で話さないから気が楽とか、そんな異常だろう。
人間に近づいた気がしたら人間にも動物にもなれない何かになっている気がする。
人間だとか動物だとか、精神の分類を気にしてもしょうがないとは思う。
人間になれば自力で魔力の産生が出来るらしいから、そういう意味では気にするべきなのだろう。
だが人間が人間かどうか、犬が犬かどうかを気にするだろうか? しないだろう。
犬が自分の所属しているグループと同じ生き物だと誤解する事はあるという話はある。
だが本当に自分を人間だと思っているかどうかは知る術などない。
グループの中の序列でどこにいるかはしっかり見極めているだろうがな。
「そんな怒らないで。怖くないよ?」
怖いわ! 寄るな! もっと離れろ! 理論武装が一瞬で剥げたわ!
毛を逆立てて怖がりながらも犬とか猫が威嚇をする理由が身を持って理解できたわ!
余計な戦いをしたくない、傷つけたくない、怖い。近寄ってくるならそりゃ寄るな! ってなるわ!
先を見据える程に適当な、より良い未来へ向かうための選択で、自分の出来る事が絞られていく。
何でも出来る。その言葉を言うのは簡単だ。
頭の中でこれを誰かに見られたらどうなるか? という判断をすっ飛ばす事は簡単じゃないから。
犬猫も考える。楽しくなってしまって止められない時があるけれど、でも考える。
「近づくな。開けないなら開けないでいい。あそこを壊せば外に出られるんだろう?」
出来る事なら壊したくない。しかし生体に比べれば無機物は直すのが簡単だ。
回路が入っていない場所だといいな。機械がそうだが、一部壊れたら全部壊れるという事がある。
だがこれはきっと空を飛ぶ船だろう。一か所壊れたら墜落する様なガラス細工とは思えない。
こんな複雑な通路を作る様な船だ。侵入者対策だというのはたぶん間違いない。
空には魔物も飛んでいる。航行中だろうと破損しない可能性など誰が保障出来る?
それなのに替えが効かない、他の区画だとかで補う機構を用意していないわけがない。
なんかこう理論武装する程に墜落するフラグが立っている気がして開けられない!
なんでだ! 理論的には浴室の扉なんて特に壊したところで何も問題ないだろ!
落ちる理由はないよな? ないだろ? なぁ、ないって言ってくれよ!
誰に聞いているんだよ! バカ! ゲームマスターなら嬉々として落とすだろうが!
「物は壊しちゃダメだよ?」
ぬぁぁぁぁっ! お姉ちゃん顔して何を言うんだ! お姉ちゃん面するな!
落ち着け。餅つけ。俺はクールだ。そうかっこいい。そうだろ? 違う? 違うくない!
ジャンガリアンハムスターがむだに車を回している。
コーギーちゃんが不安になってあっちこっちに駆け回っていく。
ミケネコがなんか高い所からフシャーってしている。
今度のフレンドは動物か! 動物になりたいんか! 分かる!
いや、分かるな! そもそもイマジナリーフレンドは作るな!
俺の感情は俺の物だ! 誰かに押し付けるな! 人間になれ!
「だが出してはくれないのだろう?」
目測距離2m。既に俺の背中は浴室の壁に着いている。これ以上後ろには下がれない。
体に触れている壁がたわんでいる感覚がある。これ以上力を込めて壁を突き破るのは不本意だ。
出来る事なら彼女にここを開けてもらい、穏便に外へと出たいものだ。
出た後どうする? 分からない。そもそもここに来たのは自分の意思というには薄い。
リク君に捕まったのだ。何故起こされたのかも分からないし、する事も分からない。
時間に余裕があるなら鍛えるとか、そちら方面の時間の使い方をした方がいいな。
この体で何を鍛える? 肉体的には変質する事はないだろう。体の操作能力を鍛えるのがベストか。
周りに壊してはいけないモノが多いし、壊さないギリギリの力を使う練習がいいだろう。
そういう鍛錬をしていないから、今回払いのける事も出来なかったわけだしな。
「まだ洗い終わってないんだもん」
腕を振ったらこのお姉さんの腕が一周しちゃいました。そんな事が起きたら笑い事じゃないしな。
それが怖くて力を振るえないのだ。
それを弱点に戦えない状況に追い込まれる可能性を考えたら鍛錬の必要は大きいだろう。
人質作戦が効果的だと思われたら、それをネタに何をされるか分かったもんじゃない。
現状、本人は自覚していないだろうが、自分を人質にした立てこもりされているからな……。
こういう事を考える程に自分が化け物なんだなとか思う。
普通の人間は、いや普通の体格なら筋力量などにそこまでの差はない。
痛くさせるならまだしも大怪我をさせる危険を考えなくてもいいんだから。
「だから近づくなって」
あ。
最後の あ。 は何が起きたでしょう?






