216、黒鞠
嫌な予感がした。
出来るだけ体をゆっくり動かす。目を相手から離さない。
前世でクマと相対した時との対処法と同じだ。野生動物の対応は基本これで大丈夫なはず。
相手もこちらも対応が分からないから慌てた方が負けだ。
黒い塊は表面が長い毛の様なモノで覆われていて、見える部分からその全容が想像がつかない。
目に値する器官はあるのだろうか? この高空に存在する生き物という事は何が発達していると想定できる? 浮かぶ事が出来る以上、体積に比較して非常に質量は軽いはずだ。
体積に対して質量が軽いという事は風の影響を非常に受けるはずなのに、何故この黒い塊は張り付いていられる? わからない。
細かい毛が船体に潜り込んでいるという事はないだろうか?
その場合、相手がしようとしている事はなんだ? わからない。
高空に普通の生物がいるかが怪しいが、普通の生物相手なら体内の何かを摂ろうとする行動じゃないか?
……魔物が狙うのは魔力では? 化け蟹も魔力を奪ったから死んだ気がする。
魔力を主要のエネルギーとして魔物が使っているなら、あの黒鞠も魔力を狙っている気がする。
真相はわからない。これは壁を這うヤモリに理由を求める様なものだろう。
明かりに集まる羽虫を狙っているのか、室内の心地よい温度を求めているのか、状況や環境によって変わってくるはずだ。
その理由を今ここで解明しようとするのは愚かしい事だろう。
問題は沖縄でヤモリが室外機に巻き込まれて死にその死骸で故障するみたいな害があるかどうかだ。
俺は例え飛行船が落ちたところで死ぬ事はないだろう。
ましてこの黒鞠に殺される事はあり得ない。この体は魔力を吸収し、物理を無効にする。
相手が魔力吸収に特化しているとしても、この体は元々ガーディアンとして用意したニーナと同じ仕組みで作ったものだ。負けるはずがない。
「何見ているの?」
黒鞠はユラユラと揺れる。この船体のどこまで侵食した事だろうか?
迂闊に近づけば巻き取られる可能性がある。ましてリク君はどうなる事だろうか?
わからない。魔物は魔力が切れたら死ぬとして、胃の中で暴れてもなかなか死ななかった怪物の例を考えると動物はなかなか魔力が切れても死なないのかもしれない。
もし生物だから魔力を抜き取られて死ぬ事はないのだとしても、目の前で傷つかれるのは不快だ。
これは知り合いだからというより、単純に不要な刃傷沙汰を俺は嫌っているだけに過ぎない。
無用の手傷を相手に負わせる事もぶっちゃけ俺は嫌なのだ。
よく小説の描写で骨を折ったとかそういう表現がある。
それが裕福な人であればまだ療養のため仕事を休むとか出来るかもしれない。
しかし福祉の整っていない社会で、お金もないのに休めるわけがなく、ムリをして仕事をした結果、ケガを悪化させるのは容易に想像が出来る。
門番が膝に矢を受けてなというのは、結婚して冒険出来なくなった隠語だというのはどこかで聞いた。
だが実際ケガをした場合、仕事が出来なくなってお金がなくなり、ケガが悪化して病気で死ぬのが普通だろう。
回復魔法も何もない世界ならそれが普通なんだ。だからケンカをするなら相手を殺す気でやれ。その覚悟もないのにケンカなんてするな。
「ねぇ」
空の旅の経験がそこそこある場合、リク君が黒鞠の正体を知っている可能性はあるか。
だが空の旅がいくらあったとしても、空の生き物を全て知っているわけじゃないだろ。
前世の人が深海の生き物を全て知らないのと同じようにな。
遠くで見ている生き物がどういう生態をしているか、わからない様に多少見知っていたとしても、実際に相対した場合の対処法を知っている可能性は低い。
……そもそもこの黒鞠は船体に触手を差し込めているのだろうか?
冬の化繊の綿毛よろしく、静電気で剥がれなくなっている可能性はないだろうか?
気圧の変調などは感じない。もし穴が開いていた場合気圧が変動するはずだ。
触手が細かいから穴が小さい? そもそも触手で穴が埋まっている場合気圧の変動は起きない?
そもそも触手はどこまで伸びる? それもわからない。
「ねぇってば」
無害? 有害? 判断がつかない。
排除の方向性でいけばいいのか? それが無難だろうか?
地上で俺1人であればモフモフを堪能したりしそうだが、ここではそうも言えない。
俺は見ていないがリク君の他にも乗務員さんはいるだろう。
リク君の役割はモバイルバッテリーとか言われてもおかしくない。
空の運行は、飛行船である以上、風の影響を多々受ける事だろう。
目的地へ自動運行とかは厳しいはずだ。
多少風でずれても進路を元のルートへ戻す手段があったとしても、空の魔物への対応が問われる。
迂回を選択しないといけなくなる事も多々ある事だろう。他に乗務員さんがいないわけがない。
「ちょっと窓から離れて黙っていてくれないか」
最悪の場合は機関部に既に黒鞠の触手が巻き付き魔力を奪っているとかだろうか?
いや、回路に触れるだけでも、そこから魔力を吸い出す事が出来るかもしれない。
その場合、どういう感じになるだろうか?
飛行船だから急に落ちる事はないだろう。
浮き袋が徐々に冷えてゆっくり落ちるくらいか。それもリク君が補充すれば済む話か。
推進力を魔力由来にしているなら、取り急ぎ進めなくなる程度の被害しかない?
空調が利かなくなったら地上に降りるまでに室温? は零点下になるんじゃないか?
そもそも黒鞠が1匹の可能性はどこにある? 確認出来ない領域にたくさんいる可能性だってある。
何なら群がられる事でステルス機能が弱まり、無数の魔物に狙われる可能性だってある。
……最後の想定が一番危険度が高いな。
楽観的になるなら、黒鞠が何かの分泌物で、大気中を流れてたまたまくっついたとか?
タランチュラだったか、毒ある体毛飛ばして範囲攻撃しつつ、麻痺った虫とか食べるヤツいたな。
この黒鞠なら当たった相手の身動きを封じて食べやすい状態にしそうだ。
黒鞠が引っ掛かるのは黒鞠を気にしない巨大なモノ、避けきれない群塊だろう。
たくさん流れてくれば巨大なモノはやがて動けなくなるし、群塊は大量に絡め取られる。
そうなれば多少動きが鈍い本体は抵抗少なく確実に食せる状態になる事だろう。
黒鞠を垂れ流しているとするとあまり適当に流しても効果は薄いだろう。
網を投げるとしたら魚群があるところだ。そうじゃなければ費用対効果が悪い。
費用対効果で考えるなら黒鞠が垂れ流しになっている方が痛いか。だとしたら黒鞠が本体と繋がっている可能性もある?
黒鞠が本体と繋がっている場合、たくさんくっついたモノを引っ張って食うのが楽だよな。
あぁ、もう考える程にヤバい状況が思いつく!
俺はともかく、リク君とその他乗務員さんが危険だ。
黒鞠が単体のちみっこい生き物である事を願うばかりだ。
いや、願うな。願ったら反転するのがお約束だ!
俺であれば死にはしないし、近づいて確認するのは俺の仕事だろう。
どうやって確認する? 気圧調整の部屋と外部出口はどこにあるだろうか?
窓から出るのは構造上出来ないはずだ。
「外に怪しい何かがある。確認のために外へ出たい。気圧調整室などは下にあるか?」
黒鞠から目を離さずにリク君の動きを窺う。
微妙な波長を感じる。戸惑い? 俺が冗談を言ったのかな? みたいな情動か?
肌に刺さる視線にそんなニュアンスを感じる。
空が絶対に安全な空間だと思っていないのは飛行船の装備から伝わる。
だが設計を知っている以上、明確な兆候がなければ危機を感じない程に自信があるのかもしれない。
このお惚けはきっとそういうモノを示しているのだろう。
もちろん俺の勘違いの可能性はある。それこそこの黒鞠が実は飛行船の装飾だとかな。
飛行船のコンセプトに合わない以上、装飾の可能性はほとんどないと思うが無きにしも非ずだろう。
確認した結果、もし危険性がないモノだったとしても、確認する事は何も損じゃない。
「ちょっと待ってね。まずは状況確認するから。とりあえずカメラで外装チェックでいいかな?」
……そういえば飛行船の周りに何か飛んでたな。
そうだよな。普通の人は高空にいる時、外に出られない。
それならば外部確認用の何かを用意する自衛は必要だよな。特に魔物のいるこの世界。






