214、筋肉の感触
にっこりマスターが奈落にすら感じるにっこりを向けている件について。
……困った。30歳の落ち着きとはなんだろう。俺は本当に三十路なのだろうか?
対人経験の少なさがこの状況を作り出している気がする。気じゃないな。事実だ。
二十代で社会で経験するべき事を粗方経験して、自分なりの解答を自分の中にしっかり持っているから落ち着いていると表現できる人格を形成出来たのが、俺が考える落ち着いた三十路というモノだろう。
そもそもの対人経験がない時点で自分なりの解答を、コンバットプルーフな解答を持っていないんだ。
実戦投入されていない時点で、起こり得る事態に対する解答なども詰めが甘いのだ。
頭でっかちな机上の空論は実戦において木の枝程度にしかならない。
実戦においては無視できる事態も頭でっかちは計算し、実際に対策が必要なモノの対策が甘くなる。
実戦経験が足りないとどれに早急に手を出さなければいけないかが分からない。
今の俺みたいにな!
……座席でリク君の膝の上にいるのだが、いったいどうすればいいんだ……。
背中に手を回されて、窓に顔が向く感じになっている……。顔が近い。
横目にはにっこりマスターのにっこりがある。怖くて体が強張っている。
ゴーレムの体でなければ背中が冷や汗で洪水を起こしていた事だろう。
借りてきた猫というのはこういう気持ちなのだろうか。
どう動いても地雷を踏みそうで、指を伸ばす事すらやっていいのか分からなくなるのだ。
対面に座っていた時はもっと気楽だった。今はひたすらに怖い。
恐怖で聴覚が鋭敏化して、リク君の心臓の鼓動が聞こえる。
それはどこまでも一定のリズムを刻んでいる。それすらも怖い。
時間感覚が恐怖で間延びしているからか、すごくゆっくりに聞こえてしまう。
10秒に1回ドクンと音が聞こえる様に感じる。すごく静かに坦々と。
普通の人がだいたい1分に60回~100回、つまり1秒に1、2回。
リク君は人間である以上、俺の意識は時間を10倍近くに伸長させているという事だろう。
この状態で声を聞いたらすごく間延びして聞こえるのだろうか? わからない。
そういえば高速戦闘しているはずなのに会話しているシーン読んだ事があるが、あれって滑舌がすごいのだろうか?
人型の化け物が吠えていると思ったら一般人には聞き取れない速度で話していたら面白い。
頑張って速度を落として話そうとするけれど、それでも速過ぎて分からないとか絶望的でいい。
攻撃されるもんだから避けるんだけど、攻撃が遅すぎるから余裕で躱せ過ぎて相手が強敵だと思ってより激しく攻撃し、聞く耳を持たなくて困る元親友な人型の化け物って救われなくていいよね。
……怪電波を受信したな……。
人でなしがいたぞ? 今。
いや俺がそもそも人でなしだ。
そもそもだ。暴力は最終手段だ。ヤる時はさっさとヤれ。反撃の余地を残すな。
怨恨は泥水だ。触れば触る程汚れが手に着く。汚いモノに触れる程精神は歪になり不健康になる。
妬み嫉みは小説で味わうだけで十分だ。現実のそれはとんでもなく面倒くさい。
関係ない事を考えたらなんか落ち着いてきた。精神安定剤に最高なんだろうな。全部独り言だが。
なんかこう精神を一時的に上がりかけた時に、自虐的な冷や水をぶっかけて戻すのは笑う。
調子に乗ると脱線した時に暴走の収拾が大変だからだろうが、ふざけられる環境じゃないと考えているのだろう。
今の思考がふざけていないかと言われたらふざけていると俺は言うだろうがな。
冷静さが欠けた状態は死体も同然。FPSで状況を考えずに突進していくイノシシはすぐ狩られる。
転がったビー玉を望んだ方向へ向かわせるのと同じくらい簡単に操れる。
適当に状況を整えればあとはドミノ的な展開で終わる。
……でどうしたら、俺はどうしたらいいんだ……。
脳内で ギギギ という音が首から鳴っている気がしながらリク君の顔を見上げる。
イケメンだな。やっぱり。この体を俺は捨てたのかとか思ってしまう。
捨てたというか、逃げただな。実家もそうだった。与えられるモノを素直に受け取れないのが最大の敗因だ。
素直に受け取れば、逃げずに過ごせば、俺はどこまで行けたのだろう?
……。いや、仮定の話は意味がない。そこにいたらダメになると考えたのは俺自身だろう。
それに俺ではないから、リク君はここまでその体を成長させられた。そういう事だよ。
俺自身が一番望んでいた事だろう? 俺が俺でなければってさ。
やはり俺は恵まれた環境を使い熟せなかった愚か者だっていう事だ。
今世も前世も、俺だから失敗しているんだ。
ほんとイヌか何かに生まれればこんな事を思わなかったんだろうな。
いや、イヌも集団を形成する生き物だ。きっとイヌ社会にも馴染めずに終わるだろう。
俺の居場所はきっとどこにもない。
「何見ているの? 泣きそうだけど」
……声が普通に聞こえる。いつの間にか時の流れが普通になってる。
肩を強く抱かれた。胸板に抱き潰される。筋肉に埋もれた。
……。すごく複雑な気分だ。
俺の欲しかった筋肉が、俺が逃げた体にしっかりついており、俺を慰めようとする。
体のサイズだけでない自分の小ささを否が応でも自覚させられる。
そうだよな。父親はプロレスラーみたいな体形だし、筋肉がしっかりつく素養は十分にあった。
今はまだ細マッチョだけれど、これはきっとセーブした姿。
本性を表せばきっとシャツをぶち破り上半身裸の筋肉の塊に……。
アホか! そんなマンガみたいに膨れ上がれたら世のマッチョメンは苦労しない!
筋肉を育むのは多大な労苦を伴うんだ! ボディビルダー達は筋肉のために普通の生活を捨てたんだ!
筋肉が存在するために膨大なカロリーを取り、余剰なエネルギーの存在を許さない! そんなストイックな存在なんだぞ! ボディビルダーを崇めよ!
でもそういえばなんであの人達はぴちぴちシャツを着るんだろう? 着るのも大変だろうに。
リク君みたいにゆったりした服を着れば破く事なく膨れ上がる事が出来るだろう。
ラ○ュタのお父ちゃんもシャツぶち破ってたし、筋肉で服を破くのは筋肉を崇める者にとって憧れなのだろうか?
筋肉好き過ぎか! 現実逃避がヤバすぎるぞ!
「顔が赤いよ」
ぐは……。
なんだ、この精神ダメージの大きさは……。
この体にまで表れる程度にダメージが出ているのか? ヤバいだろ。
なんでだよ。俺は今いったい何が起きているんだ?
もしかしてこれは精神がこの体に同調し始めているとかそんな事が起きているのか?
心のおっさんを生贄にしたのがダメだったのか?
あれは実は前世の俺自身だった?
今俺はこの体を正しく自分の体だと認識している?
精神の順化なのか? 俺はこの体でいる事に慣れたという事なのか?
いや、違う。他人との接触で世界と自己の境界線が分かる様になり始めたという事なのか?
分からない。これがあの神様が言っていた人間という事なのか? 分からない。
……。
もしだ。これが人間になる事の前兆だとして、この刺激をしない様になったら振り出しに戻るのか?
分からない。
というかそもそもこれが人間というモノに近づく前触れだなんてどうして言える?
あぁ……。分からない。
俺が苦手としている部分をやらないと、俺は人でなしのままなんだろうな。
そして多分照れとか抜きで出来る様になってしまうと人間になれないんだとなんか分かる。
人間とはほんと良く分からない生き物だ。
そして俺は人間になり切れない人でなしの大バカ者なのだ。
「うるさい、バカ」






