179、クロックアップ
クロックアップ。
任意で発動するという事は自分の中でスイッチを作る必要がある。
頭の中で単語を呟く……というのは遅いんじゃないだろうか?
思考速度は多少あったとしても、こんな速度では遅すぎる気がする。
緊急時は恐怖などで自動で入るだろうし、任意は本当に今みたいな時にしか使わないかもしれない。
もう特に恐怖を覚えたりしないこの状況とかね。スペック的には脅威になりえないのわかっているし。
いや、早めに習得してクマをすり抜けない事には3兄弟に追いつかれる可能性が高いか。
精一杯口を開けて威嚇しているけれど、怖くないな。
どうやって認識速度を変える? どこにアクセルペダルがある?
その速度でないと知覚できない、対応できないモノに対応する場合は勝手に反応する?
走る時とか手を動かす時にゾーンっていうんだったか、集中状態に入るよな。あれを意識すればいいのか?
動こうと思えば入れるくらいがいいよな。
この身体のスペックがどこまであるかわからないが、超速で思考できるだけでも大分便利だ。
目の前の攻撃に対してどうやって対処をするか考えられる時間ができるわけだから。
両腕を上げて仁王立ちしているけれど、いくら脂肪などで肉が厚いからといってお腹を晒していいのだろうか? お腹に突っ込んですっごいもふりたい。もふっていいですか?
肉体的なスペックが高いのは便利過ぎる。
魔法もそうだが、便利過ぎるものは思考を単調にする。
力押しでいける事に慣れれば工夫がなくなる。
もちろん便利なことはいい事だ。
現代日本では洗濯などは機械で指1本だが、昔は川まで向かって濯いで帰って干してと何時間かかった事だろうか?
食洗器もそうだな。1回数分から数十分程度で終わるかもしれない。数分が重なれば1時間や2時間となる。それが指1本で終わる。時間の効率化だ。水にあまり触らない事で手荒れなども防げるだろう。
1つ1つは小さい事だろう。だが積み重なれば大きく重くなる。
昔は地域で1つの集団にならないと生きにくかった。けれど現代は核家族、両親と子供だけの家族だけで生活する事が増えた。
家事の時間が減った事で核家族でも生活ができる様になったとも捉えられる。現代で村八分とか言っても余程閉鎖的な田舎でなければ大した被害が出ない気がする。
グルルルッと唸っているが怖がっているのが目に見えて強がりが可愛くて仕方がない。
この大きさだし、大抵の動物よりも強いだろう。強くて負けた事がないから真っ直ぐで可愛い。
きゅうりを蛇? と誤認して怯えるネコみたいで可愛いな。
意識が逸れ過ぎた。とにかく便利になるのはいい事であるのは否定しない。
だが便利は時として毒となり得る。思考を単調にしてしまう。
思考が出来る時間は便利だが、思考にかまけて体が動かないのは本末転倒だ。
相手よりも早く、相手の体が止まって見える様になるまで意識を加速させろ。
クマの呼吸で動くお腹。これが止まって見えるくらいの思考速度へ。
1センチ動くのに10秒、20秒、更に時間がかかる様に見えろ。
そのスピードであっても俺はいつも通りの速度の認識で動ければいい。
それがクロックアップ。体感時間の加速。反対にすればクロックダウンができるか?
この方法で認識を早めるのはともかくゆっくりさせるのは難しそうだな。
脇の下があまそうだが、普通の人であれば脇を通り抜ける間に腕で叩き潰されるだろう。
俺は潰れはしないが、傷をつけずに通り抜けるのは厳しいか。
クマが傷つかない方が重要ですらある。無用な殺傷行為はよくない。
クロックダウンは後回しでいいか。今はクロックアップのが重要だ。
ただ脇をすり抜ければいい。歩く気持ちでけれどクマに捕まらない様に。
この体ならそれが出来る。さっきのモフモフタイムを考えたら間違いない。
……クロックアップしたらもふり放題?
いや、それは踏み込んだらいけない。相手の了承がないもふもふは痴漢だ。ハラスメントだ。
嫌がられる行為をするわけにはいかない。
茶色強めの黒で、表面は硬いとしても内側はアンダーファーで柔らかくてもふもふ。
逆立っている今、下から行けば硬い毛が多少チクチクとしても、柔らかい毛にタッチしやすい。
……もふもふに憑りつかれている。このメンタルは動物に対してハラスメントだろう。
関わって嫌がられるのは本当に精神的にくるからな。
俺はただ自由に生きたいだけなんだ。周囲の自由を損害する形で動きたくない。
自由に動いている人は見たいが、強制されストレスを抱えた状態の人は妥協にしろ反抗にしろ、歪で醜くて一緒に過ごしたくない。
伸び伸びと動いている人は見ていて気持ちがいい。
誰かの顔色を窺って過ごしている人は卑屈で醜い。
あぁ、もう。とりあえずだ。ハラスメント禁止。以上。話は終わりだ。
動物は仲間だとかそういう親しい仲であれば身づくろいをしてあげることがある。
それは仲間だからコミュニケーションの一環だったりするだけだ。
見ず知らず行きずりの関係でそういう事はあまりしないだろう。
コバンザメとジンベイザメみたいな、敵対関係になりえない生物同士なら考えられるが、俺とくまは違うんだ。残念極まりない。
とりあえずタイムリミットがある。
目の前でクマが唸っている以上、これで違和感を覚えて3兄弟が寄ってくる可能性がある。
爪を躱して横を通り抜けるだけだ。クロックアップして何も出来ない速度で抜ければ即終了。
サンダルは……スピードを殺してしまう。壊れたら街道を歩く時に困ってしまう。
踵を外してサンダルを手に持ち、裸足で土を踏む。指の隙間にサクサクした落ち葉が入っていく。
サンダルは土にあまり沈み込まなかった気がするけれど、足は結構沈んでしまう。面で体重をかけるか点で体重をかけるかの違いか。
指の股を広げその場で少し足踏みをしてみる。やはりふかふかしていてここは走れない。
視界の端、くまが右腕を振り下ろしたのが見えた。変な動きをし始めたから思わず手が出たのだろう。
見ている間に腕の速度が落ちる様に見えた。けれどこれは俺の認識速度が変わったのだろう。
風で揺れる木の葉までも止まって見えているのだから。
振り下ろされる腕を目で見て、横へと身を屈めながら歩いて進む。
俺から見て左側が空いたのでそちらに抜ける。行動の出始めを狙いたかったのかもしれない。
歩くというのは両足が地面から離れる事のない足運びを言うらしい。どんな速さであっても必ず片足が地面に着いている足運びなら歩くと言える。
腐葉土で柔らかく表層で滑るので、走る事なく1歩1歩しっかりと歩き進む。
俺の意識は腕が落ちてくる瞬間にクロックアップしていた様に思える。でなければこんなに腕が遅く見えない。
脅威ではないと思っても、自分の体よりも大きいモノが来たら怖いのはしょうがないか。
緊急時のクロックアップは出来るのはわかったが、今はこれだけで済ませるべきか?
ここでくまんと鬼ごっこして捕まったら本末転倒だ。辺境に行けば似たような状況に遭うはず。
そこで練習をすればいいんだ。どうせ怪我なんてしない。この程度で俺が壊れたりするはずがない。
……慢心して体を壊したら馬鹿らしい。若いころの徹夜が寿命を削り30代40代で急に心臓発作などを起こすなんて話、よく聞くじゃないか。
いくらゴーレムの体になったからってこの体が完全に無敵だとは考えられない。
何かしらのバグで、稼働機構に異変が生じたり、代謝システムが暴走したりする事は十分に考えられる。
無理は禁物なんだ。機械は成長しないがパーツの交換で性能を上げられる。
ゴーレムも現状が不足であれば置換できる様になるかもしれない。
だが今はその方策も分からないし、無理をして動けなくなったらそれまでだ。安全運転第一。
くまはもう後ろ。100mは離れただろうか? ここまで離れればくまもきっと落ち着くに違いない。
予期せぬ出会いだったが、お互い怪我なく別れる事が出来たんだ。必要以上に悲しい出会いにならなくて良かった。
なんかくまがこっちを見ているので、手を振ってさよならしよう。またいつかってね。
いつかなんてないけど。
くまさん「目の前にいたと思ったらいなくて、そしたら傍を通り抜ける風を感じたんだ。遥か彼方、あれは手を振っていた。人間の表情には詳しくないが、あれは笑っていた。怖かった。もう会いたくない。理解が出来ない。次に会ったら為す術もなく殺されるだろう。あれはまだ成長する。私はまだ死にたくない……」