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164、逃走

 潮の記憶。そういえばいいのだろうか。

 暗い世界。何もない世界。ただそこにあるだけの世界。

 これはカニの記憶だろうか?


 1時間近く経った気もする。

 いや、手に着いた体液がたらたらと滴っている。

 時間にして5秒も経っていないかもしれない。


 俺はカニの体に手を入れただけだ。

 それ以上も以下もない。このカニから魔力を吸い取ったんだろうか?

 ニーナ達からも想像していたが、魔力は記憶などを保持するのだろうか?


「身体強化の魔法? いきなり走ったからびっくりしちゃった」


 魔力を吸収する事で記憶が読み取れるというのもおかしい。

 原始的な生物の記憶だったから簡単に読み取れた?

 瀕死の状態で魔力を吸収したから読み取れた?


 魔力が記憶の媒体だとして、俺は手から吸収したんだ。

 どこに読み取りの機能があったんだ?

 知覚手段がわからない。俺の魔力が読み取り機能を持っていた?


 普段から魔力を吸収しているはずなのに、何故今急に読み取った?

 魔力に核とかあるのだろうか? それとも魔力の量とかが関係している?

 記憶を読み取るとしたら脳だよな? 魔力が脳に来たのか? それはそれで怖いんだが。


「シロちゃん。シロちゃんは何したの?」


 ぶっちゃけた話、俺が何をしたのかわからない。出来るかな? と思った事をしただけだから。

 一応助けようと思ったあの人は傷1つなく生きている。

 玄関を開けたその瞬間のまま、顔がすごい固まっているのはシュールだ。


 カニが感知出来た以上、あの距離、だいたい50mくらい先まで魔力の粒子が届いていたはずだ。

 ドアを開けた瞬間に気づいたのか? いや、ドアの隙間からも漏れている?

 魔力の粒子が含んでいるエネルギーの減衰率で距離を把握とか?


 そういえば身体能力強化か。あれで出来ていたのだろうか?

 足に魔力を込める事はした。だがそれだけだ。それでよかったのか分からない。

 もしかしたら素の身体能力だけでカニを押し倒した可能性がある。


「あっち? あ。あの人を助けるためにやったの?」


 そうだ、そう言っても問題ないけれど、なんか他にも目的があったから複雑。

 何を面倒くさい事をと思うし、俺も自分ですごい面倒くさい。

 断定的にモノを語るのがもうすごい苦手だ。


 陰陽五行説とか、世界を説明するために使われていた。

 原子とか世界が粒子で構成されている事が観測されるまでそうだった。

 賢い人が考えても間違えるのに、俺という凡人が断定してモノを語るなんておこがましい。


 世界なんて観測されるまで真実はわかったもんじゃない。

 表面的に見ているだけでは火に土をかけるのと水をかけるので結果が変わらないし火が消える理屈も同じだと考えてしまう。

 酸素の供給を断たれて火が消えるのと、温度を維持できなくて消えるのは全く違うのにな。


「でも魔法を使うのはダメだよねぇ」


 あ、これは窘められているという事だろうか?

 というか今の俺を前にしてすごい平然と対応するなぁ。

 肝の据わり方が尋常じゃない。やばいやつだ。


 ラスちゃんってラスボスになったりするのか?

 いやでも落ち着きのある先輩みたいなキャラって中盤辺りで死ぬのがお約束では?

 主人公に現実を思い知らさせるために使われる舞台装置になりがちだよな。


 ラスボスって終盤ひょっこり出てくるパターンや序盤から影は出ている事が多いよな。

 基本ライバルポジが1番敵方で出番が多い。……リク君か。

 最強の敵になりそうだ。スペック的にも最強だ。


 魔法無効のゴーレムが守護していて、本人の誇る魔力量はどんな人よりも多い。

 そしてあの性格だ。仲間はたくさんいるだろうし、油断もしない。体もきっと鍛えるだろう。

 ユエさんに体術とかも教えてもらえるだろうし……敵対したら終わりじゃないか。


「私達が街中で魔法を使うには魔力を持ちすぎているんだよ」


 まぁ、確かに持ちすぎているよな。

 リク君はいい子だから違反は行わないだろうし、都市内で戦う場合はまだ勝機がある?

 でも教会での戦いを見ているからなぁ。使っている前例を見ている以上、そこまで躊躇しない可能性がある。


 もしあの子が悪堕ちしたら大分怖いなぁ。

 俺が出て行ったのが悪堕ちの遠因とかなったら怖い。

 俺程度が出て行っただけで堕ちたとか言ったら笑うが。


 リク君は弱い子ではないと思うけど、ちゃんと人に甘えられる子だろうか?

 人に対して真っすぐぶつかれる子でないと生きにくいだろうから。

 俺みたいに変な考え方をしていると生きにくい。人と仲良くなれない。


 この捻くれってどうやったら治るんだろうか……。


「……シロちゃん。すごくカニ臭いし、とりあえずお風呂入ろっか」


 ……ラスちゃんの銀色の瞳が怪しく光っていた。なんか自棄のスイッチが入ったのかもしれない。

 さっきまではダッシュしてきたから興奮か何かで臭いが気にならなかったとかあるのだろうか。

 裸にすれば何か分かるかもしれないとか考えているんじゃないだろうか?


 実年齢と性別考えたら女の子と入れば犯罪だな。

 というかあのくらいの速さで走れるのなら逃げても問題ないよな。

 道路が陥没するとかは起きていない。ただ人身事故が起きたらカニ同様相手が死ぬ。


 というか俺、カニにどこでぶつかったんだろう……。

 ショルダータックル? 手のひらで突き飛ばし? もしかして頭突き?

 鼻で甲羅を叩き割ったとかだと笑うんだが。頭突きにしては頭が濡れていない。


 甲羅の割れ方を見る限り、点でぶつかったとは思えない。

 衝撃が面でぶつかった感じだする。いやでも野球の球が高速でぶつかった時も球の形に穴ができるか。

 手についた体液以上に体には着いていないよな。


「シロちゃーん。こっそり後ずさりしているけど逃げないよね?」


 すごい逃げたいです。


 体に着いている体液は手だけだし、お風呂まで行かなくてもいいよね……。

 というか走れば逃げられないかな? この身体能力なら逃げられる気もする……。

 身体能力強化とかはラスちゃんも普通に使えるだろう。本気で捕まえようと思われたら逃げられないんじゃないか?


 わからない。


「手だけ」


 あーっ! もうどんだけコミュ障なんだよ!

 言葉が足りてない。思考だけなら雄弁な癖に!

 もっと口が回ればいいのに!


 手だけって何だよ! なんだ? 俺は言葉不自由系少女をしているのか?

 どんだけだよ! そういうのがかわいいのは純正品だよ!

 中身三十路のおっさんにそんなもんを誰も求めていないんだ!


 見た目だけなら美少女かもしれないが、中身おっさんなんだぞ!

 栗毛金眼の可愛い少女に見えるかもしれないが、中身おっさんなんだぞ!

 ちなみに体の分類を考えたらモンスターだぞ! 魔物娘、元おっさんだぞ!


「確かに体液は手だけだね。でも臭いはそうじゃないでしょ。いい子だから一緒にお風呂入ろうねぇ」


 なんで手をワキワキしているんだ……。

 俺はここで逃げても問題ないよな。そうだ。問題ない。

 手は後で洗わなきゃだけど、俺は問題なく逃げられるんだ。

 あの小さな体じゃない。誰かの庇護がなければ移動もままならない体じゃないんだからな!


 そうと決まれば何も問題ない! 俺はもうここには用がないんだ!

 彼女らには名前しか教えていない! 身体能力も制御ができる!

 弱すぎる体とか、そういう否定的な要素もなかったんだ!


 性別とかそういう部分以外は発注通りの体だ! 

 俺は自由なんだ。自由なんだ! 俺は街から出るぞ!

 エネルギーの補給はモンスターから出来るし何も問題ない!


 どうすれば逃げられる? どうすれば人を轢かずに行ける?

 塀の上……狭すぎる。屋根……抜けそう。真っ直ぐ走れば人を轢く。

 高く跳ねよう。3次元機動だ。上から見れば人のいない場所はわかる。


「逃げちゃダメだよ?」「やだ!」





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