136、チサ先生
「いえ、何でもないです」
虎穴に入らずんば虎子を得ず。しかし今回はそんなに重要なモノだろうか?
今の自分がどれほど危険な立ち位置にいるかは理解しているつもりだ。
信頼という観点でいえばよく知らないチサ先生についていく事はとても危険だ。
社会が、法律側が殺そうとしている場合、俺はネネという証言者が生き残ったとしても何の意味もない。
封殺するべきは両親だけだが、事故と判断される場合、きっと大きく問題とされないだろう。
街中でモンスターと遭遇する世界だ。死亡事故なんてもっと起きやすいだろう。
「そうですか?」
薄い色合いの唇に人差し指を乗せるとチサ先生は目を閉じて考え始めた。
緑がかった黒い髪が木洩れ日を浴びて色が柔らかくなっている。
いったい何について考えているのだろう? わからない。
どうすれば俺が小屋に入るかだろうか?
いや、入らないという選択肢がまず頭になくて、俺が何を戸惑っているのかわからないのかもしれない。
そもそもここまで来ておきながら躊躇するとは思ってなかったかもしれない。
それ以前に警戒されるという事も慣れないかもしれない。
チサ先生から感じる雰囲気はとても柔らかい。俺の偏見に満ちた目から見てもだ。
いつも図書館とか温室で1人過ごすようなタイプだと思われる。
「もしかして恐いですか?」
少し陰のある表情をチサ先生は浮かべた。
何か薄暗い過去があるのだろうか? 物静かに木々の薄暗いところに立っていたから森の魔女とか怖がられたとか。
いや、これは演技かもしれない。だが危険視しているのは俺の勝手な思い込みによるものかもしれない。
わからない。わからない。
言葉に出せば確定するのだろうけれど、それは終わりの始まりだ。
だがこのまま戸惑い続けるのはなかなかに辛いだろう。
「ごめんね。初対面の私ってリク君からしたら怖いよね」
そもそもだ。これはミラ先生の家に入るのと何が違うのだろう?
いや、けっこう違うか。あそこは住宅地だ。周囲に人がいるし、ほかの人も知っている。
だがここに俺が来ているのを誰が知っているのだ? 誰も知らないじゃないか。
誰も知らない? それはミラ先生を含めて同じじゃないだろうか?
そもそもだ。誰もの誰もはいったい誰を指しているんだ?
今の俺には信用してもいいモノなんてないはずだ。
「すみません、ちょっとモノを考えていただけです。中はどういう風になっているんですか?」
裏切りにくい状況を作る事。それ以外にする事はない。
それ以上も以下もない。俺は自分の言葉と行動で道を切り開くしかない。
俺は1人なのだ。頭の中でただ考える以外できない。
この体もどこまで信じていいのかわからない。
見ているものもどこまで信じていいのだろう? 聞いているものもそうだ。
五感のどれもが俺の経験が見せる幻覚の可能性だってある。
信じられるのはこの思考1つだろう。
思考している限り俺は俺なのだ。
人は考える葦であると言ったのは誰だっただろうか。
「この小屋? この小屋はね! 農作物の倉庫だよ! 棚に農作物が入っているの!」
さっきまでの薄暗い顔が一転して太陽のような笑顔をチサ先生は見せた。
雲間から不意にのぞく日差しが同じ光なのに、やたらと明るく感じてしまうあの感覚だろうか?
すごく嬉しそうな顔が俺の心を浄化しようとしてくる。
何だろう。今の俺と比べたらチサ先生はとても大きいのに、リスとかそういう小動物のような感じがする。
さっきまで考えていた事が吹き飛ばされてしまいそうだ。
ダメだ。俺は計算高く生きなければ死んでしまう。
「ちなみにどういうモノが主に入っているんですか?」
小動物にも牙や爪がある。窮鼠猫を嚙むという。
小さな生き物もなめてはいけない。彼らだって生き延びてきたからそこに存在するのだ。
ましてや小動物的なだけで、チサ先生も人間なのだ。危機意識を持つべきだろう。
今、俺は入ってもいいと思っている。
ネネのご飯もそうだが、他にも色々入っている事だろう。
それを知る事でこの世界の事をもっと詳しく知る事ができるはずだ。
「さっきの池で出来た果実とか、この学園で作られた農作物が中心だよ!」
なんだかチサ先生の口調が幼くなっている気がする。
拒絶されかけた反動だろうか?
興味ない人は名前も覚えないくらいの人なのに。
いや交友関係が狭いだけなのだろうか?
自分の世界が狭いのだろうか? テレビの向こうの良く知らない芸能人くらいの感覚でレンさんは見ていたのかもしれない。
自分とは関係ない世界の人だと判断したからあの対応なのだろうか?
小さい子供に関してはしっかり名前を覚えそうだな。
そこは自分の管轄、自分の世界と判断している気がする。
俺に対してもそういう感覚で接しているのではないだろうか?
「あの池の果物ってどうやって花の蜜とか収穫しているんですか?」
俺はもう子供らしさを失った話し方をしているのだが、これは悪影響を与えていないだろうか?
子供なのに子供じゃないなんて違和感を与えていないだろうか?
いや、博士っぽい子供もいるだろう。そういう子は大人びた話し方をしそうだ。
ハチを見かけなかったがこの世界にはハチがいるのだろうか?
怖がりで見知らぬ人がいると隠れる性質があるとか、そういうパターンも考えられる。
だとしたらあんな開放的で誰もが入れる場所にはいられないのではないだろうか?
「あの果物? 水桃はね、ヘタのところ、水の中に蜜袋があるの」
水桃、あの果物は時折食卓に上がってきていた桃みたいな味がする果物で間違いなかったのか。
水を意味する単語が含まれた果物だとは覚えていた。
あんな風に池で浮かぶ果物なら確かに水がついていてもおかしくない。
蜜袋? なんだそれ? そんな生態の植物があるのか?
いや、この世界は異世界だ。地球の常識が通じるわけがないじゃないか。
外敵に狙われないように水中に蜜袋をつけるのかもしれない。
水中の理由は何だろうか? そういえばあの池には生き物が見えなかった。
多少の生き物がいるなら底に泥が堆積していてもおかしくないんだが、緑色の石が底に見えるくらいに何もなかった。
その辺りもおかしかった。わからないことだらけだ。
「蜜袋ですか?」
思えばあのサイズの果物が沈まずに浮かぶためには水中に何かないといけない。
浮力を得るための浮袋とかがなければおかしいのだ。
果物の葉の下にその蜜袋があり、浮袋としての役割の果たしていたと考えるのが正しいのだろうか?
しかしそんな蜜袋なんて都合がいいモノは外敵に非常に狙われやすいだろう。
そこに栄養源があるのだ。小さな虫の類が狙ってしかるべきだろう。
どうやって対応する? しかも果物が浮かぶための浮力について考えても構造が想像しにくい。
どうやって水中の敵に対応するのかについても考えるのが難しい。
まさか他の生き物が生きられなくなる成分でもばらまいているんじゃないだろうか?
確か植物の中には自分の周囲に他の植物が生えられなくなる成分をばらまく植物もいた。
アレロパシーと言ったか、セイタカアワダチソウとかがそういった性質を持っていたはずだ。
食用になっている事を考えると人体には影響がないか、毒性が低いかだろう。
虫や魚は人に比べて体が小さいから、毒物の致死量が少ないので効果を発揮しているとか考えられる。
芝生は池の近くまで生えていたから水桃から離れる程毒性が発揮されなくなる可能性が高い。
「見る?」
笑っているチサ先生が小屋に手招きをしている。
秘密を話したくてしょうがない子供のような目だ。
本当に植物が好きなのだろう。
にしても手招きする姿がどうにも怪しく感じるのは俺の問題だけではないだろう。
チサ先生の雰囲気がどうにも怪しいんだ。
図書室でひっそり黒魔術とかの本を読む少女のような怪しさ。
もしかしたらここまで警戒したのはこの危うそうな怪しさが原因かもしれない。
そういう怪しいタイプってけっこう本に書かれている事を実行するが、本格的な悪には踏み込めない。
だから無害だと前世では判断していた。この世界ではどうなんだろうか?
悪性が本物であれば学園に雇われたりする事はないと思われるし、問題ないとは思う。
「見ます」
リン=クーロン
18歳
役職 元王都の神子で、シスター。
属性:土
魔力2等級
髪色:栗毛
虹彩色:金眼
登場回:9、10、11、12話
辺境の街でシスターをしていたお姉さん。
15歳くらいの時まで王都で神子として働いたが、王子様になつかれて嫁き遅れを懸念して辺境へと逃亡。
王子様は彼女の事を忘れられないが、彼女には関係がない話。
未来の旦那さんを探しているがなかなかいい人に出会えない。
王子様の思い人である事を知っている教会の男性は恋愛関係になる事を避けているのを彼女は知らない。