逆さまになる世界
生徒会の仕事のせいでいつもより遅めに自宅のドアを開けると、見知らぬ少年が「突然のことで大変恐縮ですが、あなたにはあと数時間以内に死んでいただきます」と、本当に突然にそう言った。
「……何故?」
「先ほど猫を庇ってトラックに突っ込んで、あなたは無傷だったでしょう? ほんとうはあの時、あなたは死んでないといけなかったのです。調整が効くのは、あと……ざっと十二時間。つきましてはこれから死ぬまで、あなたを監視します」
「大胆な愛の告白みたい。でも嬉しい」
にこ、と笑ってみせるけれど、少年は表情を一つも変えなかった。それでも邪険に扱うわけにはいかない私は少年をリビングに、それから家族三人が座れる大きなダイニングテーブルに彼を案内した。
コーヒーか紅茶か、ココアかを問うと、彼は何もいらない。と返した。仕方なく紅茶を二杯入れてテーブルに置き、向かいに自分の分を置くと私も席につき、紅茶に口をつける。うん、今日も美味しくできた。
少年はティーカップをちらとも見ずに、じっとこちらばかり見つめている。年齢は……中学生くらいだろうか。そのへんに居そうな男の子ではあるが、よく見ると、目鼻立ちは整っている。表情が硬いから大人びて見えるだけで、もしかすると小学五、六年生くらいなのかもしれない。服装も、それこそ彼をそう思わせるような学ラン。学帽はやや深く被りすぎのようだ。
「いけない。自己紹介しなきゃ。私の名前は、」
「必要ありません。あなたの名前、生年月日、年齢、住所、だいたいの性格、住民票コード、学校とその学籍番号、親しいご友人、家族構成、指紋、静脈パターン、虹彩、DNAの塩基配列などの生体情報、携帯電話の番号、各種メールアドレス、コンピュータのIPアドレスやリモートホスト……くらいでしたら知っていますから」
「あら、本当?」
彼は膝の上でごそごそと鞄(ボストンバッグ型ではなく、革製の平べったい学生鞄である)をあさり、分厚いファイルからホチキスで止められた数枚のプリントを取り出しこちらに向けた。
一枚目には顔写真、名前、ふりがな、住所、家と携帯の電話番号、ケータイとパソコンと、それからメールマガジンを受信する専用のメールアドレスまでが記述されている。この地図は家の周辺の物だろうか。二枚目には両親の顔写真と名前、クラスメイトのそれまであった。三枚目のこれはすべての指紋だろうか。
あと数枚あるようだったが、私はそれを纏めて角をそろえた。
「知っているのはこれらの情報だけです。これ以上のことを知っておいた方が良いのでしたら、どうぞ仰ってください」
「いいえ。私だって自分の指紋をあんな風に初めて見たわ。不思議な感じ。貴方は何者なの?」
「……『死神』です」
私は彼が笑うものだと思っていた。
けれど彼は表情を少しも変えなかった。
「名前は?」
「ありません。ご自由に呼んでください」
「そう。名前がないのは不便ね。考えておくわ。貴方は死神を初めて長いの?」
「二、三年になります。まだ新人でしょう」
死神にもランクのようなものがあるのか。生憎私はこれまで働いたことのない高校生だから、そういう働く場所でのコミュニティのようなものには疎いのだが。
「それで、私のように死の宣告を受けた人は、どんな感じだったの?」
「人それぞれです。時間によってもかなり変わります。貴方のように平然としている人もいれば、ならばいっそこの場でと自決しようとする人も少なくありませんでした」
「どちらのほうがいいかな。注文はある?」
「その場で自決されるのは困りますね。止めないといけないことがほとんどですから。……あなたに関してはすぐにでも死んで頂いて構いませんので、ご自由に」
「全うしろ、とかそういうのはないのね……」
彼はそこでようやくカップに目をやり、だって、と呟いた。
「口出しする必要は何処にもないでしょう」
「性格も、よく知っているのね。丸暗記?」
と、携帯電話がアラームを鳴らし、画面を見ると夕方のジョギングの時間を告げていた。着替えなくては、と断りを入れてリビングを出たが、彼はついてこなかった。必要ないのだろう。有名メーカーのよくあるジャージに着替えて髪を纏めると、運動靴を履いて玄関を後にした。ああ、勿論鍵は締めたけれど。
走るよ。と声を掛けると、頷かれた。ああ、けれど、必要なかったかもしれない。
家の目の前の道は、昔から事故の多い地点として有名だった。坂に沿って家が建っているうえに、田の字型に家のブロックがあり、それぞれの家が庭に木を植えていたりするため、一目見ただけではそこに道があるとは分かりにくいのだ。
ああ、だから、猫も、そこで事故に遭いかけていたのだ。
そして今目の前を無邪気に走っていく幼稚園児くらいの子供も。
ああ、庇わなくては。
綺麗に、きれいに、生きなければ。
綺麗に、死ななくては。
走り出して子供を突き飛ばしたら、車のクラクションと甲高いブレーキの悲鳴が聞こえて、それで、それで 、