プロローグ
深夜。最終の電車に乗りこんで家路に就く。片田舎の最終だけあって、人はまばらだ。ロングシートであるため、否が応にも客層がよく見えた。座席の端には前後不覚になるまで酔いつぶれたオッサン、俺の対面には、いかにも水商売風の派手な格好をした女たち。一つ大きく息を吐き、誰にともなく舌を鳴らした。
ここは掃き溜めだ。街は眠り、闇に沈んだこの静寂のなかに取り残された異物。それを運ぶ、巨大な掃き溜め。俺もその中にある。全く同じだ。等しくゴミだ。何も考えず、ただ漫然と暮らす日々。特に楽しいことも、苦しいこともない。目的も、目標もなく、親の金で大学に通い、講義に参加し、単位を取得する。合間にサークルに顔を出し、仲間と駄弁る。ただ意思なく流れているだけだ。
抜け出したい。この掃き溜めから。底の底から。しかし、どうやって?わからない。どうやったらここから抜け出せる?俺は何をしたらいい?どうしたらいい?疑問ばかりが頭に浮かんでくる。誰に聞く?誰なら俺にそれを教えてくれる?すべて人任せだ。そんな精神で現状がどうにかなるわけもなく、俺は変わらず、今日を過ごす。明日もそうだろう。明後日も明々後日も、ずっと、ずっとだ。
『まもなく、終点― 門倉―』
車内にアナウンスが流れ、車掌が終点を告げる。残った客は俺を含めてたったの三人だ。果たしてここが本当に目的地だったのか、寝ぼけた酔っ払いのオッサンが一人。同僚が一人減り二人減りで最後に残ってスマホをいじっていた水商売風の若い女が一人。二人とも、アナウンスに反応しておもむろに立ち上がった。俺も立ち上がろうと、腰を浮かせたところで、小さな異変が起こった。チリチリと明滅を繰りかえした後、車内の照明が数秒、消えたのだ。すぐに再び、明かりが灯される。なんだ?と、浮いた腰を下ろし、様子を窺う。何も起こらない。酔っ払いも水商売風の女も、なんだったんだといった様子で、訝しげな顔をする。俺も多分、同様だろう。
「ねえ、なにか聞こえない?」
急に、水商売風の女が、上ずった声を発した。此方を見ているということは、俺に話かけているのだろう。「馴れ馴れしい奴だな」などと思う暇もなく、僕の耳にもその異様が入ってくる。軋むような甲高い音が最初は小さく、そして、徐々に大きく、聴覚を侵食した。
「なに?なんなのコレ!」
女が悲鳴を上げる。オッサンも酔いはすっかり覚めてしまったようで「うわ、うわあ」となさけない声を出す。音は際限なく大きくなる。耳をふさいでも無意味だ。音の振幅は体全体を侵し、脳を侵した。意識も遠くなる。女とオッサンはその場にへたりこむ。俺も座っていることさえままならず、椅子に横たわった。
不意に音が止み、静寂が訪れた。耳が痛くなるようなまったくの無音。なんだったんだ、何が起きたんだ。そればかりが頭の中を巡る。
「ねえ、大丈夫なの?」
女が安堵を隠さず、素っ頓狂に言う。オッサンはあわあわと言葉にならない声を漏らしている。
音は確かに止まった。では大丈夫なのか。いや、そうじゃない・・・おかしい、おかしいぞ。俺たちは電車に乗っているはずだ。
な ぜ 静 寂 な ん だ 。
それに気づいた瞬間、轟音とともに襲った衝撃に、俺の身体は中空の車内に投げ出された。視界の上から、シャッターのように暗闇が降り ―― 俺は意識を失った。