‐09‐ 影
パキッ、かわいたような音が、暗闇に響く。
仄かに足元から伝わる熱量に、ライオネルは眼をこじ開けると、そこに広がるのも、瞼の裏と同様の闇だった。
違いは、満天の星空が視界を覆い尽くすように明滅しているということだけ。既にどっぷりと夜更け。それから、いつもの見慣れた景色ではないことに気がつく。木目のある天井ではなく、ここは野外。
バッと起き上がろうとすると、ズルリとライオネルの体に掛けられていた毛布がずり落ちる。半ば覚醒しきれいない意識の中、肌寒さを感じると思ったら、なんと――全裸だった。えっ、なんで、と湿った髪の毛を揺らしていると、
「――起きた?」
ぼんやりとライオネルの足元には炎が燃え上がっている。バチッバチッと静電気にも似た音を鳴らしながら、小さな炎は光源となって、気遣わし気な言葉をかけてくれた人間を照らし出す。
ゆっくりと視線を上げると、見たこともない少女がそこにいた。見たこともないというのは、顔見知りではない、という意味ともう一つ。
凄絶なまでの美貌の持ち主だった。
流れる川のように艶やかな黒髪は、細い首筋を滑るようにして、耳に掛かっている。
闇よりも深い色をしている瞳の底には、純粋な色が見える。黒い宝石のようなその双眸と相まって、背後の景色が、透けて見えるかのように白い肌が際立つ。
顔の各部は、精巧に造られていた。完璧過ぎるほどに整った目鼻立ちは、まるで人形のようで気味が悪いとさえ感じた。
それほどまでに精緻な造りをしている顔貌に見惚れている時間は数秒だったのだろうが、ライオネルにはまるで永遠に時が停止したかのような錯覚に陥っていた。
「……えっ?」
ライオネルは我に返った。
何がなんだか分からず、思わずあんぐりと阿呆のように口を開く。
少女は生まれたままの姿でいた。
まだ濡れて光沢のある髪の毛並みを揃えるために手櫛をしていた。そして、彼女自身の腕でなんとか隠しきれている胸部だったが、押し付けるようにしているせいで、逆に強調されている。
身体の外郭をなぞる曲線は、全身が理想的で圧巻。こちらがゴクリと固唾を飲むほど。何故か肩口にかけて包帯が巻かれていたが、今はそのことにはあまり意識は割かれなかった。
そのまま、まるでなにか見えざる力が働くように視線が下を漂いそうになったが、その前に、ライオネルは横に置かれていたもう一つの毛布を、少女に被せる。キョトンとしている顔で、こちらの葛藤なんて知る由もないといった様子だった。
「ちゃんと服か何かを着ないと。……ほら、君は女の子なんだから」
「……あ、ありがとう」
少女は掛けられた毛布に包まると、
「でも、そんなこと気にしなくて良かったのに」
「そんなことじゃないよ。女の子は、男がいる時にはちゃんと服を着なくちゃだめなんだよ。これが、常識、うん、常識」
「そう……なんだ。サーカスにいた時は、そんなこと言われなかったから」
ふわふわとした感じで答える少女の声は聞き覚えがあった。
まさか、と一言添えると、
「……サーカス? ……もしかして、クロエ?」
「そう……だけど。……もしかして、分からなかった?」
「ああ、うん。その、全然分からなかった。ほら、ピエロの格好の時は化粧をしてたから」
しどろもどろになりながら答えているのが、どこか恥ずかしかった。狼狽えていることは自分でも分かっていたが、咄嗟に動揺を抑えきれないことに内心驚いた。
「ああ、そっか。なるほど……。その……そんなに私の顔って変かな?」
心底心配そうに聞いてきたクロエ。あまりにもジロジロと眺めていたせいだろうか、反省して炭になりつつある薪に視線をずらす。
「変って、そんなことないけど……」
寧ろ逆だった。
「ずっとサーカスの一団にいて……しかも、あそこは男しかいなかったから、自分の顔がどんなものなのかも分からないんだよね」
「……とっても、綺麗だよ」
「なんだか、嘘っぽい」
手の甲を手に当ててクスクスと笑われる。
怒っているわけではなさそうだ。むしろ、面白がっているぐらい。
ちゃんと顔を見て、心を込めたように見せかけたのだったが、看破されてしまった。自分の想定以上に今は狼狽しているのかも知れない。
「そう……かな。……ごめん。あまりのことで、いつものように顔を作れていないかも知れない」
「顔を作る? それって、演技ってこと?」
「そうだね、演技だよ。僕は元騎士だったし、それ相応の接し方っていうのが身についてしまっているっていうのもあるんだけどね」
「そう……なんだ」
困惑したようにクロエは言葉をつんのめらせる。
しかたがないことだ。唐突にこんなことカミングアウトされたって、彼女にしたってどう切り替えしていいのか分からない。
今日一日で、色々なことがめまぐるしく起こって体が疲弊しきっているためか、心のほうも相乗的にやつれ、唇がいうことを聞いてくれない。言わなければいいことを言ってしまう。
もしかしたら、停止していた時計の針が、動き出したのかもしれない。誰もがライオネルの功績を賛美している声から逃げるようにして、ミラに住み始めてから、ずっと何かが欠けているように感じていた。その何かが、少しずつ満たされていくような、そんな気がしていたが勘違いだっ――
「でも――」
ライオネルの思考を引き裂くクロエの凛とした声。
薪から視線をクロエに向ける。
「今の方が私はいい……。なんだかそのままの自分って感じがして、今の方が……その……うまく言えないけど――優しいなって思う」
無垢な瞳で見つめられる。
なんだかくすぐったい気分だったが、こういうのも悪くない。
「……ありがとう。そんなことを他人に言われたのは、二人目だよ」
「二人目?」
なにやら暗澹たる空気が流れた気がする。
どうやら二人目というのは、失言だったらしい。当たり前か。誰でも自分が特別でありたいと思うのだから。
なんとか他の方向に意識を逸したいと思い、起きて早々に感じた疑問を口にする。
「ここは……。もしかして橋から落ちて?」
「そう。川の流れが激しかったけど、私の影で掴んでなんとか引き上げることができた」
「――影?」
影っていうのは、とクロエが言うと、ぞわりと何か得体の知れないものが、足元で気配を増長させる。
総毛立ちながらライオネルが見下ろすと、地面には闇の沼が広がっていた。水溜りのように円を描くその闇から、ズブズブと短剣がひとりでに出現する。その短剣の柄を掴むと、
「これが私の魔法。私の影の中は無限に等しい亜空間が広がっていて、そこにあらゆるものを自在に収納し、取り出すことができる。形状と魔法の質を変えて、激流に流されていたあなたの服の袖を掴んだのも、私の影」
「……空間そのものを侵食する魔法。しかも、闇魔法の亜種……!」
「そうなの?」
首を傾げるクロエ。
確かに今のままの魔法の扱い方だと、ただの宝の持ち腐れと言っていいぐらいだ。
だが、優れた指導者のもとで正しい修練を積めば、もしかすればライオネルをも凌駕する才能を秘めているかもしれない。そのぐらいの、天賦の才だ。
クロエは短剣を闇の中に押し込み戻すと、
「私はこの影の中に、564丁の銃と、793本の剣と、234の砲台。……そして、世界各地に眠っていると言われる《纏神装器》の一つを影の中に取り込んでいる」
「……盗んだって、そんな沢山の武器を誰から? ……しかも、《纏神装器》って。……まさか?」
最悪の予感に、ライオネルの心臓が早鐘を打つ。
「私たちの団長から。……団長は――新たな戦争を引き起こそうとしている」
「……戦、争か。そんな馬鹿げたことを、どうして……」
立ちくらみがする。
《纏神装器》まで持ち出していったい何をしようとしている。アレが戦場に投入されれば、戦争どころじゃない。国家間の内紛どころか、世界そのものが戦争の業火に焼かれることになる。
「私も理由までは知らない。だけど、団長はそのつもり」
「理由は何にしろ、止めないといけない。だけど今は――」
ライオネルは、夜闇に蠢く気配を察知すると、言葉を一旦切る。もしやと思っていがドンピシャリだ。それも悪い方の思考が的中する。
「……モン、スターだ」
ライオネルの呟きに呼応するかのように、幾重ものモンスターの影が物音を立てながら二人に迫ってきていた。