‐05‐ ゴーゴン
乗客室に沈黙が降りる。
ゴーゴンが拳銃を懐から取り出した際には呆然としていたが、見せつけるようにして高らかに頭上に拳銃を上げ、威嚇射撃した時は痛快だった。乗客達は泡を食ったように騒ぎ出し始めた。
だが、こちらが一喝すると怯えたように乗客は一様に黙り込んだ。この場の支配者は誰かということを再確認でき、薄ら笑いすら漏れる。
ゴーゴンは十六、十七に見える容姿をした男だった。
野生の蛇のようにうねっている毛髪は、額に巻かれている長布によって纏められている。
若干背を丸め歩きながら、乗客一人一人の顔を隈なくチェックする。
ゴーゴンが、こうして列車を乗っ取ったことには理由がある。
『パラダイス・ロスト』から抜け出した人間を探し出すためだ。
乗客したもう一人の仲間には車掌を抑える手筈。ゴーゴンの役割といえば、乗客の中に紛れ込んでいる裏切り者を見つけ出すことだ。
怯えた乗客たちの顔を見ながら満足していたが、チッとゴーゴンは舌打ちを打つ。どうやらこの中に裏切り者はいないようだ。他の車両に隠れているのかと思い、次の車両に移ろうとすると、一人の女が眼に留まった。
他の乗客たちは身の危険を感じて、こちらの指示を仰ぐように見てくる。どうにかしてこの最悪の状況を乗り切ろうという弱者の必死さが伝わってくる。
だが、眼前にいる紅い髪の女はこの状況下で悠長に本を開いていた。パラリとページをゆっくりとめくる動作に余裕を感じて、それが無性にゴーゴンのイライラに拍車をかける。
「おい、女。てめぇ、今何をしているんだ?」
「読書ですが。……見て分からないんですか?」
「そういうことじゃねぇだろ、このイカレ女」
ゴーゴンは銃口を向ける。
ゴン、ゴン、と女の頭の横に銃を当ててやる。
ヒッ、と慄いたのは周りにいた乗客だけ。紅い髪の女は本から目を離し、こちらに視線をよこしはしたが、眼鏡越しのその瞳に恐怖は孕んではいなかった。むしろ迷惑そうに、
「何なんですか? テロリストさん。生憎と、私は暇ではないんですよ。……なので、さっさとご用件を仰ってくださいませんか?」
「テロリスト? そんな下賎な奴らと俺らを一緒にするんじゃねぇよ。俺らはなあ、弱い者を救うために、ある人間を探しているだけなんだよ。そいつがいれば、町一つどころか国一つを変えることだって夢じゃねぇんだからな」
「そうですか。……だったら他を当たってください」
こちらの話には興味なさそうに、またもや手元の本に目を落とそうとする女。
流石のゴーゴンも堪忍袋の緒が切れた。
調子に乗ってんじゃねぇぞ、とドスの効かせた声で再度銃を向ける。
「その態度だ。俺がさっきから気に喰わねぇのは。……てめぇ、自分が撃たれねぇとでも思ってんのか? 自分が絶対に安全だとか思い込んでんのか? 俺はな、てめぇみたいに強がっているやつを見ていると虫唾が走るんだよ。本当は怖いんだろ。今すぐこの場から逃げ出したいって思っているんだろ?」
「別に、あなたのような子どものことなど恐れてなどいませんよ」
斬撃のような鋭い声で即答する。
「……なんだと? もう一辺言ってみろ、クソ女」
「あなたのことを子どもだと言ったんですよ。国を変える? 馬鹿馬鹿しい。この世界は、あなた如き子どもの力で変えられるようにできてはいないんですよ。どこの大人に吹き込まれたのかは知りませんが、今の内に諦めていおいた方が賢明です」
はぁと疲労したようにため息をつくと、女は完全に本を閉じ、
「子どもは何も知らないから、何か大きなものを変えられるなんて思い込む。この世界はどう足掻いたところで変わらないことを知らずにね。最高に劇的でもなければ、最低にみすぼらしくもないこの平凡な世界は、どうしたって一生不変なままなんです」
レンズ越しに半眼でこちらを見上げてきた。その眼には憐憫の感情すら浮かんでいる。
ゴーゴンの口から掠れた声が出る。
「……お前、俺たちの考え全てを否定する気か」
「ただ事実を述べたまでです。……ですが、申し訳ありません。私としたことが言い過ぎました。借り物の言葉ではしゃぐ子どもが癪に障ってしまったようで、少々大人気なかったですね。そこだけは謝罪致します」
ゴーゴンが手に持っていた銃は、カタカタと震えていた。
怒りのあまり照準が定まらない。
こいつは侮辱した。ゴーゴンだけではなく、身寄りのない自分たちのことを拾ってくれた恩師の思想までをも否定した。そう考えると、この目の前にいる女が憎くて憎くて仕方がなかった。
無駄な殺しは軍が動くから止めろと命令されてはいたが、それすら霞んでいた。このまま団長の命令だけをただ黙って聞いているだけでは、女の言う通り、ただ命令を聞いているだけの子どもだと自ら認めているような気がしたからだった。
あまりの憤りに、臓腑が捩じ切れそうだった。
こいつだけは、ゴーゴンの全てを批判したこの女だけは、このまま生かしておけない、という思いが、内心、人を殺してしまってもいいのかと躊躇っていたゴーゴンの背中を押した。
狙いを外さないよう、女の頭に拳銃を当てながら引き鉄に指をかけると、
「――お前、死ねよ」
鳴り響いた銃声とともに、鮮血が飛び散る。
後ろに跳ねた頭は、ドンと座席に当たった反動がつくと、そのまま体ごと床に倒れこむ。即死のため抵抗なく、叩きつけられたかのように倒れた女の体からは、大量の血が流れ始める。女の手に持っていた本の紙が、水溜りのように溢れ出た血の色に滲んでいく。
周囲にいた客は数秒たってからようやく状況を飲み込めたのか、遅れて甲高い悲鳴が起きる。
ゴーゴンは、初めて人殺しをしてしまった罪悪感に顔を青ざめながらも、こんなこと大した事じゃないと自分に言い聞かせるために鼻で笑う。これから殺そうとする人間たちに比べればこんな殺しの一つや二つ、と思いながらも、その場で嘔吐しそうになっていた。
手で触って生死を確かめるなんて度胸は持ち合わせていなく、足でガッガッと脇腹の辺りを蹴ってみるが、体がピクピクするだけでそれ以外の反応はない。
じき完全に心肺停止するだろうが、これで完全に女は死んだということだ。ざまあみろと吐き捨てながら、ゴーゴンは次の車両へと急ぐために踵を返した。扉を開こうとしたのだったが、ユラリと何か背後に立つ気配がした。
身の毛もよだつような、今まで感じたことのない感覚。
振り返りたくはなかったが、このまま気がつなかった振りをして先に進む度胸もない。頼みの綱である銃を握り締める。ゴーゴンは顔を恐怖で引き攣らせながら、ゆっくりと首を回した。